Operation Anthropoid | hiroチャンのブログ

Operation Anthropoid


1942年5月27日
エンスラポイド作戦。第二次世界大戦:ナチスドイツ占領下のチェコ・プラハを統治していたラインハルト・ハイドリヒがイギリスの支援下にあった暗殺部隊の襲撃を受ける。ハイドリヒは6月4日に死亡。

【エンスラポイド作戦】
(Operation Anthropoid)
第二次世界大戦中、大英帝国政府とチェコスロバキア駐英亡命政府により計画された、ナチス・ドイツのベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治者ラインハルト・ハイドリヒの暗殺作戦のコードネームである。




ハイドリヒは、ナチスの秘密警察を束ねる国家保安本部の長官であり、ユダヤ人や他の人種の虐殺に対する「ユダヤ人問題の最終的解決」(ナチスはユダヤ人や少数民族の絶滅政策のことを婉曲的に「最終的解決」と称していた)を行うナチスの主要計画遂行者であった。

ラインハルト・ハイドリヒは、親衛隊(SS)でハインリヒ・ヒムラーに次ぐ実力者だった人物でゲシュタポ(国家秘密警察)、親衛隊保安部(SD)、刑事警察を統括する巨大警察組織国家保安本部(RSHA)の長官であった。彼はナチスに反抗する人間を取り除く役目を担っており、ユダヤ人虐殺計画の主要な遂行者であった。彼はヒトラーやナチスの陰謀のほとんどに参加し、ナチス政権において重要な政治的地位を築いていた。彼はその能力と権力により、多くのナチスの要人や国防軍の高官たちから恐れられていた。その残忍性によって、ハイドリヒは「金髪の獣」「絞首刑人」の通り名で呼ばれていた。
ハイドリヒは「飴と鞭」の統治でベーメン・メーレン保護領を支配した。ハイドリヒは到着と同時にチェコ全土に戒厳令を敷き、即決裁判所を設置させ、反体制派の指導者層(中産階級のインテリ層)を次々と逮捕して死刑に処した。チェコ首相アロイス・エリアーシも逮捕されて死刑判決を受けた。繰り返される処刑からハイドリヒは「プラハの虐殺者」という新たな通り名を得ることとなった。
ヒムラーはプラハ訪問中にハイドリヒの個人警護が少なすぎると懸念し、警護をもっと増やすよう命じており、またヒトラーもハイドリヒの警護に無頓着な態度を頻繁に戒めていたが、ハイドリヒは最期まで耳を貸さなかった。結果的にはこれが命取りとなった。

チェコスロバキア亡命政府は、チェコの人々に希望を与え、チェコスロバキアが連合国側であることを示す何からかの行動を起こす必要があると感じていた。
イギリスのスパイ部隊である特殊作戦執行部(Special Operations Executive, SOE)は隊員を訓練し、作戦の計画を立案する支援を行った(cf:MRD Foot SOE and others) 。ヒトラーの後継者と考えられていたラインハルト・ハイドリヒは、ナチスドイツにおける最重要の人物のひとりであった。
彼が死ぬ事になればナチスにとって大きな損失であり、たとえ軍事的な影響はないとしても政治的・心理的な面での大勝利となるだろうと見込まれていた。

イギリスのチェコスロバキア亡命軍から選抜された7人の兵士である、ヨゼフ・ガプチーク、ヤン・クビシュと2つの他のグループ(シルバーAとシルバーB)は、イギリス空軍により1941年12月28日にチェコスロバキア領内にパラシュートで降下した。いくつかのプランの中から最終的にプラハでハイドリッヒを暗殺することになった。

1942年5月27日、ハイドリッヒは、パネンスケー・ブジェジャニ(Panensk・ B・e・any)にある自宅から、プラハ城までのいつもの通勤経路を通っていた。
ハイドリッヒのオープントップのメルセデス・ベンツが近づくと、車の正面に飛び出て発砲しようとしたが、銃が故障して弾が出なかった。ハイドリッヒは運転手のSS軍曹クラインにスピードを上げるよう命令したが、うろたえた運転手は車を止めてしまった。ハイドリッヒはピストルをとり出したが、その時クビシュが改造した対戦車用の手投げ弾をハイドリッヒの車めがけて投げ込んだ。
爆弾は車の横で爆発し、その破片は車の右側のフェンダーを破壊し、ハイドリッヒの体には車体からの破片や繊維が突き刺さった。ハイドリッヒはなおも反撃しようとしたが、負傷のためにすぐに倒れた。運転手も殺害され、ハイドリッヒはその負傷のため、一週間後の6月4日に死亡した。ヒムラーが送った医師たちは、「敗血症」で死亡したと報告。

ヒトラーは、SSとゲシュタポにハイドリッヒを殺した人間をボヘミア中から探し出し、「血の報復」をすることを命令した。最初、ヒトラーは広範囲のチェコの人々を殺そうとした。しかし協議の結果、彼はその責任を数千人に限定、チェコはすでにドイツ軍にとって重要な工業地域となっており、見境の無いチェコ人の殺害は生産性を減らすと考えられたからである。結局、1万3千人の人々が殺害された。有名な事件として、リディツェ(Lidice)とレジャーキ(Le・・ky)の村の完全な破壊がある。

イギリスの戦時首相であるウィンストン・チャーチルはこれに激怒して、ナチスが破壊したチェコの村ひとつにつきドイツの三つの村を破壊することを提案した。しかしその一方で連合国は報復を恐れ、以後はナチスの高官を暗殺する同様の作戦計画を中止した。ハイドリッヒが殺された2年後、フォックスレイ作戦で連合国側はヒトラーを目標とした作戦を試みるが、中止した。エンスラポイド作戦は、ナチスの高官暗殺計画で唯一成功した例となっている。

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