狂気の21歳、惨劇の結末・・・。 | hiroチャンのブログ

狂気の21歳、惨劇の結末・・・。


【津山事件】

または津山三十人殺しは、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。まれに見る残忍な事件で「津山33人殺傷事件」として有名である。また、犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。



犯行が行われた2時間足らずの間に28名が即死し、5名が重軽傷を負った(そのうち12時間後までに2名が死亡)。なお、犯行後に犯人が自殺したため、被疑者死亡で不起訴となった。
横溝正史が同じく大量殺人を扱った八つ墓村のモチーフにした事件とも言われる。

犯人の都井睦雄は1917年(大正6年)3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市)に生まれた。2歳で父を、3歳で母を、ともに肺結核で亡くしたため、祖母が後見人となり、その直後一家は加茂の中心部である塔中へ引っ越した。さらに、都井が6歳のときに一家(都井以外に祖母と姉。戸主は都井)は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越した。
都井は尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送っていた。同年代の人間と関わることはなかった。一方で、自身が子供向けに作り直した小説を近所の子供達に読み聞かせて、彼らの人気を博した。近隣の女性達とこの地域での風習でもあった夜這いなどの形で関係を持つようになった。
1937年(昭和12年)、都井は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵としてのみ徴用可能。実質上の不合格)とされた。その頃から、都井はこれまで関係を持った女性たちに、都井の丙種合格や結核を理由に関係を拒絶されるようになった。心無い風評に都井は不満を募らせていった。

同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、12番口径5連発ブローニング猟銃を購入。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至った。都井はこの頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。
しかし、都井が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受け、猟銃一式の他、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃免許も取り消された。
都井はこの一件により凶器類を全て失ったが、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受け、再び凶器類を揃えた。
都井の元から去って他の村へ嫁いだ女性が村に里帰りしてきた1938年(昭和13年)5月21日の未明、犯行が行われた。

都井は事件の数日前から実姉を始め、数名に宛てた長文の遺書を書いていた。姉に対して遺した手紙は、「姉さん、早く病気を治して下さい。この世で強く生きて下さい」という内容である。
1938年(昭和13年)5月20日午後5時頃、都井は貝尾集落だけを停電させるため、電線を切って貝尾の送電を停止させた。村人は驚いたものの、当時はこうした突然の停電は日常茶飯事であり、特に気に留めなかった。
翌5月21日1時40分頃、都井は自宅の屋根裏で用意していた装備を身につけ行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。首からは自転車用のランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。その姿たるや、正に悪鬼のようだったという。

都井は集落を歩きまわって、次々と村民を襲いかかり殺していった。以下に、襲った順で被害者の状況()には犠牲者の累計を記していく。
最初に手にかけたのは実の祖母だった。祖母に明確な恨みはなかったが、事件後に一人残していくのは不憫だとして、眠る祖母に手を合わせた後、斧で首を刎ねて即死させた。首は50cmほど先まで転がっていたという。(1名)
都井はまず隣家に侵入、寝入っていたその家の妻、長男、次男を殺害した。妻は首を突かれた後、口の中に刀を突き立てられた。息子達はめった刺しにされていた。最初に銃を使わなかったのは、いきなり騒ぎを大きくしないためであった。(4名)
次のB家では妻を猟銃で撃ち殺した。卵大に空いた腹の穴からは内臓がぶちまけられていたという。銃声に気づいて起きてきた旦那も撃ち殺され、2人の娘も容赦なく殺害された。この家は一家全滅させられた。(7名)
3件目では、新婚だった夫妻を射殺。さらにたまたま農業の手伝いで訪れていた親戚(甥)も殺されてしまった。甥はわずかに抵抗したが、銃で殴られ顎が陥没し、怯んだ隙にすぐ撃ち殺された。夫の母親は「頼むけん、こらえてつかぁさい」と命乞いし、それを聞いた都井は「ばばやん、顔をあげなされ」と一瞬許すような格好を見せたが、気を許した母が顔をあげると猟銃で撃った。母はこれによって全治5ヶ月の重傷を負ったが命だけはなんとか助かった。この頃、悲鳴と銃声によって村の人間は目を覚まし始めていた。(10名)
4件目は、都井が最も憎むべき女性(この家の四女)がいる家だった。まず「何事か」と出てきた家の主を射殺、その後は内妻や四女の兄弟を追い回し、容赦なく殺していった。5人もの命が奪われたものの、肝心の四女は逃げ出して隣家に助けを求めていた。(15名)
5件目は、4件目の家の四女が逃げ込んだため狙われた。だが、実はこの家そのものに憎き人はいなかった。四女から事の次第を聞かされたこの家は鍵をかけ籠城の構えをとった。都井は開けるよう銃で脅し呼びかけた。この時、家の祖父が様子を見ようと雨戸を開けた瞬間撃ち殺された。銃を乱射して再三出てくるよう要求したものの、四女の喉を弾が掠めたくらいで状況は変わらず、都井は渋々四女の殺害を諦めた。(16名)
6件目は母と息子の二人暮らしだった。母子は揃って猟銃で撃ち殺され、一家全滅に追いやられた。(18名)
7件目は主の内妻と養蚕業の手伝いに着ていた二人の女性が撃ち殺された。手伝いの女二人は脳などをぶちまけながら死んでいたという。手伝いの女性と都井は関係があり、それ故に狙われたとされる。この家の祖父は死を覚悟して唖然としていたが、都井は「お前は悪口を言わんかったからこらえてやるけん。ああ、わしが死んだらまた悪口をいうことじゃろう」と言って、殺さずに去っていったという。(21名)
8件目は主の妹と妻を射殺。母はなんとか息があったものの、搬送先の病院で死亡した。騒ぎを聞きつけたこの家の主は、このことを隣町の警察に知らせるために逃亡した。ようやくこの惨劇が外部に知られる時が来たのだが、都井の計算通りそれは酷く時間のかかる往復だった。(23名)
9件目、助けを呼びに行かれている間も、都井の凶行は続いた。その家の主であった両親と妻、そしてまだ5歳と幼かった四男を殺害した。(27名)
10件目、都井は戸主の名を呼んだ。妻が顔を出して夫に状況を伝えようとした所、撃たれてしまった。妻は息があったが、搬送先の病院で12時間後に死亡した。(28名)
最後となる11件目では、その家の夫妻が射殺された。ここだけは都井の住んでいた貝尾ではなく、隣接していた集落である坂元で起こった。こちらも一家は全滅した。(30名)

約一時間半に及ぶ犯行後、30人もの人間を殺した都井(厳密にはその時点では28人、2人は搬送先で死去)は、遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。家人は武装し血まみれとなった都井を見て硬直したが、その家の子が以前から都井の話を聞きに来ていた顔見知りであったため、その子に頼み鉛筆と紙を譲り受けた。都井は去り際にこの子へ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。

都井はその後、3.5kmほど離れた峠まで移動し、遺書を書き始めた。既に遺書は用意されていたが、これは凶行に及んだ後の懺悔にも似た別の内容のものだった。遺書の中で都井は「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」という後悔の念も綴っている。うつべき、とは、恐らくは4件目の四女のことを指していると思われる。

自分の心臓に猟銃をあて、引き金を弾き、自らその惨劇を終結させることとなった。21歳だった。

21日の朝、都井の遺体は発見された。彼を合わせれば死亡者は31名となる。 




.