英雄と呼ばれた狙撃手の憐れな最期 - 2 - | hiroチャンのブログ

英雄と呼ばれた狙撃手の憐れな最期 - 2 -


【ビリー・シン】- 2- 
ウィリアム・エドワード “ビリー”・シン(William Edward "Billy" Sing, 1886年 - 1943年5月19日)
オーストラリアの軍人、狙撃手。



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ある朝、シンは新たな観測手を伴っていつもの狙撃陣地に赴き、射撃の準備を始めた。
この時シンにとって幸運だったのは、観測手がシンの獲物を求めて双眼鏡を覗き始めてすぐに敵の狙撃手の姿に気付いたことであった。
その狙撃手こそが即ち“畏るべきアブデュル”だったのである。報告を受けたシンはすぐさま射撃体勢に入ると、素早く、しかし慎重にSMLEの狙いを定めて一弾を放った。その弾丸は、待ちに待った獲物であるシンを狙撃しようと、まさにその時狙撃銃を構えたアブデュルの眉間に命中していたという。
この闘いは後にオーストラリアの作家ブライアン・テートによって『ブリスベン・クーリア・メール』誌に発表され、シンは第一次大戦における伝説のひとつとなった。

アブデュルを倒した後の帝国軍のシンへの対抗策は、新たな狙撃手の派遣ではなくなった。帝国軍はシンの狙撃を確認すると、そこに向けて重砲撃を即座に要請したのである。
最初の砲撃はシンの潜む陣地の至近に着弾し、シンと観測手が大急ぎで避難して数秒後、陣地は次弾を受けて跡形も無く粉砕されたという。

《転戦》
シンはその後も狙撃を続け、1915年10月23日にはウィリアム・バードウッド将軍から個人感状を贈られたが、この際一つの逸話が残されている。この表彰の際のシンの狙撃数は公式記録では150名とされているが、実際にシンを表彰したバードウッド将軍が認めた“スコア”は201名となっていたのである。あまりにも多くの敵兵を射殺したシンのスコアに疑心暗鬼だった軍首脳部は、シンの戦果確認を“部隊付軍曹か士官以上の者が確認した場合に限る”としたのである。しかしこれはあまりにも現実離れした方法であり、現実的には多くの場合で近くで戦っていた一般兵士たちの戦果確認しか取れなかったため、この時期のシンのスコアは大幅に割り引かれて記録されることとなっていた。
シンの同僚たちからもこの処置にはかなりの非難が送られたため、首脳部はやむを得ず戦果確認の限定を排除した上での折衷案として、「公式記録150名、ただし201名射殺として表彰」という奇妙な処置を採ったのだと言われている。無論この201名という数値も相当割り引かれた数値であることはほぼ間違いなく、実際の戦果としてはおよそ250名前後のトルコ兵を射殺しているのではないかと考えられる。

12月、連合軍司令部はガリポリ半島からの撤退を開始したため、シンたちANZAC軍も約1万1千人の死者と2万5千人の負傷者という損害を残し、エジプトで部隊の再編成と再訓練を行うべくダーダネルス海峡を後にした。
明けて1916年1月、シンはエジプトでガリポリ戦線の戦功を称えられ、連合軍指揮官であったイアン・ハミルトン卿から柏葉敢闘章(Mentioned in Despatches)を贈られている。さらに同年3月10日にはヴィクトリア十字勲章に次ぐ英国第2位の勲章であるイギリス陸軍功労賞 (Distinguished Conduct Medal) を受賞した。

エジプトでの訓練の後、6月にイギリス本土に向けて出発したシン等第5軽騎兵連隊は、8月にオーストラリア軍第31歩兵大隊に編入され、西部戦線の主戦場たるフランスとベルギーでドイツ軍を相手に戦闘を繰り広げることとなった。しかしガリポリでの負傷が再発していたシンは、フランスに到着後約19ヶ月もの間戦線離脱を余儀なくされる。この療養期、シンは旅行先のスコットランドで、海軍のコックの娘でウェートレスを務めていたエリザベス・ステュアートという21歳の女性と出会う。翌1917年6月、2人はエディンバラで結婚式を挙げた。

人生の伴侶を得た幸せに浸る間もなく、シンは戦線に復帰することとなった。既に戦闘は小火器による歩兵突撃よりも重砲の撃合いがその主役となりつつあったが、シンはその流れの中でも小隊長として部隊を率いて多くの戦闘に参加し、主に対抗狙撃戦でその技量を発揮して活躍したという。

特に1917年9月、第3次イープル会戦(パッシェンデールの戦い)中のポリゴンの森争奪戦において、深い森の中での待ち伏せで豪州軍に多大な被害を与えていた独軍スナイパーを排除すべく、対抗狙撃戦の指揮を執った際の活躍は特筆すべきもので、これによりシンは翌年初頭にベルギー戦功十字章 (Belgian Croix de guerre) を受勲している。

その後もいくつかの戦闘で活躍したシンは、1918年7月、本国へ戻る輸送船の護衛潜水艦の乗組員として欧州を離れ、故郷オーストラリアへと帰還することとなった。クレアモントを旅立ってから約4年間のシンの軍歴はここに終わりを迎えた。

《戦後》
エリザベスを伴ってプロサーパインに戻ったシンは名士として盛大な歓迎で迎えられた。それは駅から町役場までマーチングバンドを引き連れた大パレードだったという。しかしそのわずか数年後、田舎暮らしに耐え切れなくなったエリザベスはシンを残して姿を消し、シンの人生に陰りが見え始める。
戦時中の蓄えも乏しくなったシンは、職を求めてミクレア金鉱の鉱区に居を移し、過酷な肉体労働にその日々を費やすこととなった。戦中の古傷もあってか、この金鉱での労働はシンの体を徐々に蝕み、満足に働くことが出来なくなったシンは貧困に窮し、暮らし良いと思われたブリスベンに移り住む。しかしここでもシンに与えられた職は肉体労働がほとんどで、金鉱時代に仲間だったジョー・テイラーの助けを借りながら細々と暮らしていたものの、1943年5月19日、ブリスベン市内ウェストエンド、モンタギュー通り304号の板葺きの粗末な小屋で、貧困に塗れたまま大動脈瘤破裂により57歳でこの世を去った。看取る者は誰一人としてない孤独な死だったという。

その死後に残っていたものは、わずか6ポンド10シリングと8ペンスの現金、そしてかつては英雄と呼ばれた狙撃手の終の棲家となった粗末な小屋のみであった。

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