『“獲物”が姿を見せるまでひたすら身を潜めて待ち、一瞬の好機を逃さずに一撃で仕留める』- 1 - | hiroチャンのブログ

『“獲物”が姿を見せるまでひたすら身を潜めて待ち、一瞬の好機を逃さずに一撃で仕留める』- 1 -


【ビリー・シン】- 1 -
ウィリアム・エドワード “ビリー”・シン(William Edward "Billy" Sing, 1886年 - 1943年5月19日)
オーストラリアの軍人、狙撃手。



本名:ウィリアム・エドワード・“ビリー”・シン William Edward "Billy" Sing
1886年? - 1943年5月19日
渾名:“ビリー”、“ガリポリの暗殺者”
生誕: オーストラリア連邦クイーンズランド州クレアモント
死没: 同々ブリスベン市
軍歴: 1914 - 1918
最終階級: 二等兵
除隊後: 鉱夫

第一次世界大戦中のガリポリ戦線におけるANZAC・(アンザック)のエーススナイパーとして知られ、西部戦線で活躍したカナダ陸軍のフランシス・ペガァマガボウと共に並び称される第一次大戦最高の狙撃手の一人。
公式確認戦果として150名のオスマン帝国兵を射殺したことから、ガリポリの暗殺者(Assassin of Gallipoli)の異名を持つ。イギリス陸軍功労賞 (DCM) 及びベルギー戦功十字章 (Belgian Croix de guerre) を受勲、最終階級は二等兵。

《入軍以前》
1886年、クイーンズランド州クレアモントで、上海出身の中国系移民ジョン・シンと英国ストラトフォード出身のインド系移民メアリー・アン・シン(旧姓:ピュー)の間に生まれる。幼少の頃より家業の牧場を手伝いながら育つことで、馬の扱いと害獣駆除を兼ねた狩猟に長じるようになった。特にカンガルーハンターとしての狙撃の才能に優れており、クレアモント近郊にあるプロサーパインという町の射撃同好会プロサーパイン・ライフル・クラブ (Proserpine Rifle Club)のメンバーとなってライフルと散弾銃の扱いに習熟したという。これらの経験が後の大戦で大いに役立つこととなる。

《第一次世界大戦》
1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、独立間もないオーストラリアは旧宗主国であり軍事統帥権を所有していた英国に随って即座に参戦を表明したが、常備軍の戦力すら乏しかったことから新設の義勇軍としてオーストラリア帝国軍("Australian Imperial Force"、略称AIF。後に第二次大戦に参加したものと区別するために First Australian Imperial Force、第一次オーストラリア帝国軍とも呼ばれる)の創設を決定した。このAIFにはシンを含む数多くの若者が参加を希望、入隊受付が滞るほどであったと言われるが、これはその当時戦争は年内に終わるという楽観説が支配的だったこと、AIFの給与水準が世界最高レベルだったこと(徴兵されたイギリス軍兵士の約1.5倍)などがその原因である。このためシン達AIF兵たちは "six bob a day tourists"(1日6シリングの旅行者)と呼ばれた。

大戦勃発から2ヶ月後の1914年10月24日、シンはオーストラリア帝国軍第5軽騎兵連隊に二等兵として配属された。この際、後にシンのスポッターを務める事となるアイオン・アイドリースも同じ時期に入隊していたとされる。ブリスベンに召集されたシンは簡単な訓練を受けた後、英国軍による本格的な訓練を受けるべくエジプトに向けて出航する。現地到着後の12月20日、シンは第5軽騎兵連隊A中隊に配属され、実戦に向けて訓練の日々を送ることとなった。

ピラミッドを臨む砂漠での訓練を重ねていたシン達第5軽騎兵連隊は、1915年5月16日、ガリポリ上陸作戦(ダーダネルス作戦)でのANZAC軍の損害増加に対する補充としてついにダーダネルス海峡、ガリポリ半島の戦場に投入された。4月25日の作戦開始以来、非常な苦戦を強いられ続ける英仏豪新連合軍だったが、これは臨時の志願兵がその大半を占めるという性質から来る訓練の不足や指揮系統の欠如に加え、半島のオスマン帝国軍を指揮するムスタファ・ケマルの卓越した防御戦術によるところが大きかった。両軍共に長距離重砲撃力が不足していた事も手伝って、ケマルの敷いた縦深かつ接近した塹壕線(しかも陣地の大半が高地を占めていた)は押し寄せる連合軍の白兵突破をことごとく跳ね返し、戦況は帝国軍の思惑通り海岸線付近での膠着状態に陥っていた。しかし、塹壕戦によるこの膠着状態こそが、シン等ANZAC軍とオスマン帝国軍双方の狙撃手たちの能力を最大限発揮できる格好の舞台となる。
“畏るべきアブデュル”
上陸した連合軍は塹壕線で足止めされ、弱兵と軽んじていたはずの“ベドウィン”(英国軍がトルコ兵に付けた蔑称)の射撃に曝されて多大な損害を受けていた。トルコ人スナイパーたちの狙撃銃の大半はドイツ軍から供給されたスコープ未装備のGew98a等だったとされるが、彼らは貧弱な装備を射手の技量と高地の利、そして強靭な意志で補い、経験不足な連合軍の兵士が塹壕から無防備に姿を晒す瞬間を見逃さず、その精確かつ無慈悲な射撃で次々に仕留めたのである。対する連合軍首脳部も、自軍兵士に相次ぐ死傷者のうちに頭部創傷の占める割合の高さに着目して優秀な敵狙撃兵の存在に気付き、これに対抗すべくANZAC軍はシンをはじめとしたベテランのハンターたちを臨時の狙撃兵として前線各所に配置した。これによりスターリングラード攻防戦と並ぶ史上屈指の“狙撃手の天国”がガリポリ半島の塹壕線を舞台に誕生したのである。
チャタム駐屯地付近の攻撃陣地に派遣されたシンは、アイオン・“ジャック”・アイドリースと“勇者”・トム・シーハンという観測手(無論彼ら自身も優れた狙撃手であった)をパートナーに、一躍その勇名をダーダネルス海峡に轟かせ始めた。シンら狩猟経験者にとって、『“獲物”が姿を見せるまでひたすら身を潜めて待ち、一瞬の好機を逃さずに一撃で仕留める』という対抗狙撃戦はまさに“狩り”そのものであったという。生来のハンターであったシンは支給された.303口径のショート・マガジン・リー・エンフィールド(SMLE)No.1-MkIIIを手にその狙撃技術を駆使して、1日に9名もの帝国兵を射殺するなど次々に戦果を上げ、瞬く間に“ガリポリの暗殺者”の異名を頂くANZACのエーススナイパーの座に上り詰めることとなった。

シンの狙撃を恐れたオスマン帝国軍は、自軍の狙撃兵の中でも特に腕利きの男達をチャタム駐屯地付近に派遣してシンに対抗した。まず最初の対決は8月、シンとシーハンが狙撃用陣地において狙撃に遭い、2人とも負傷して戦線を一時離脱することで帝国軍が先手を取った。このトルコ人狙撃手の名前や来歴は伝わっていないがその腕前は精確で、彼の発射した銃弾はシーハンの構えていた測距用双眼鏡のレンズを貫通してその破片でシーハンの両手を傷付け、その瞬間に運良く双眼鏡を眼から外していたシーハンの口から入って頬を撃ち抜き、威力を減じながらもそのままシンの右肩に当たって2人を負傷させた。これによりシーハンは戦場を離れて帰国することとなり、シン自身も約1週間の治療を余儀なくされた。
傷を癒して戦場に復帰したシンは狙撃を再開、再び多くのオスマン帝国兵を射殺したが、これによって新たな凄腕のトルコ人狙撃手がチャタム駐屯地付近の戦場に送り込まれた。後に捕虜となったトルコ兵の証言や遺留された日記の翻訳等からその存在が明らかとなる、オスマン帝国軍最高と謳われたスナイパー“畏るべきアブデュル”(Abdul the Terrible)である。
その狙撃の技量を称え、時のスルタンから勲章を与えられたほどの狙撃手であったアブデュルは、シン只一人を倒すべく、まず法医学的なアプローチからシンを追い始めた。帝国軍の死傷者のうち、シンによる狙撃と思われるもののデータを収集し、その瞬間の証言を集め、可能な限り正確にその状況を再現することで、ついにはシンの射撃位置を特定することに成功したのである。シンはその狙撃の腕前から来る過信ゆえか、狙撃位置を変えないという致命的なミスを犯していた。それはチャタム駐屯地の外れにある丘陵地帯の一角にある小高い丘の上に掘られた狙撃用陣地であった。アブデュルは夜陰に紛れてその丘を見渡せる位置に狙撃用塹壕を造り、ひたすらシンが姿を現すのを待ち続けた。その陣地には他のANZAC狙撃兵が現れることもあったが、アブデュルはそれらすべてを無視してシンのみを追い求めたという。そして対決の日は訪れた。