Mr. X | hiroチャンのブログ

Mr. X


【マルコム・X】

(Malcolm X, 1925年5月19日 - 1965年2月21日)
アメリカの黒人公民権運動活動家。ネーション・オブ・イスラム (NOI) のスポークスマン、ムスリム・モスク・インク (Muslim Mosque, Inc.) およびアフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity) の創立者でもある。



出生名はマルコム・リトル (Malcolm Little)。
非暴力的で融和的な指導者だったキング牧師らとは対照的に、アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者として知られている。

父は1931年にミシガン州ランシングで人種差別主義者によって殺害された。頭が変形するほど殴られ、体が三つに切断されるように線路に放置されて轢死体となって発見された。明らかな殺人にも関わらず警察は自殺と断定した。
当時マルコムの父は二つの保険会社の生命保険に入っており、その内の一つは受け取りの金額が僅か数百ドルと小額だったため保険金が支払われたが、もう一つの保険会社は受け取りの金額が大きかったため、警察が自殺と断定したとの理由により保険金は支払われなかった。

1946年1月12日、20歳のときに強盗の罪で逮捕され、窃盗罪で懲役8~10年が宣告された。通常の窃盗罪は初犯では懲役2年となることが多いが、白人女性のソフィアと継続的な性的関係を持っていたため、通常よりも長い懲役刑を宣告された。収監されたチャールズタウン州刑務所ではあらゆるものを罵り、特に神と聖書に対する悪罵から彼は「サタン」と呼ばれた。

1948年に家族がマルコムをイスラム教に改宗させた。彼は獄中でイライジャ・ムハンマドの教徒と彼の行っていたブラック・ムスリム運動に出会い、その教えを勤勉に研究した。マルコムはイライジャと文通を行い、独学で知識を進歩させ、手紙を毎日書いた。
ノーフォークのマサチューセッツ州刑務所へ移送され、そこで彼は熱心な指導者となり、歴史上および哲学上にイライジャ・ムハンマドの教えとNOI(ネーション・オブ・イスラム)の正当性を発見した。彼は刑務所内の毎週の討論会に参加し、知識を広げ、筆跡を改善するために刑務所図書館の全辞書を筆写したりもした。その際、刑務所内で勉強するためとして割り当てられていた時間を越えて消灯後も独房内で月明かりや通路の照明だけを頼りに本を読み辞書を筆写していたため、収監前は2.0あった視力が0.2まで落ち、後にトレードマークとなるサーモント型の近眼鏡を常用するようになる。



出所後、一躍名を知られるようになったマルコムはテレビやラジオ、雑誌等マスコミのインタビューで、刑務所内で磨かれた卓抜すぎる言葉遣いや知性の高さが窺える仕草から一流の大学を卒業しているのだろう、と勝手に推測され、出身大学はどこかと訊ねられた時には刑務所内の図書館だ、と答えている。
マルコムは自伝で、大学や大学院を卒業している黒人を「白人に従順になるように調教されたことに気付かない哀れな家畜だ」と述べている。
マルコムは1952年8月7日に釈放され、スーツケースと眼鏡、時計を購入した。後に彼はこれらのものが、自分の人生の中で最も役に立ったアイテムだったと語った。

1952年9月、彼はNOIから"X"という姓を授かり、これ以降現在の本名「マルコムX」を名乗ることになる。アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎないとネーション・オブ・イスラム教団では考え、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものである。
1957年、ネーション・オブ・イスラムの一人が警察官に暴行を受け逮捕された。教団はこれに抗議、マルコムを中心としたFOI(Fruit of Islam, 信者の総称)が留置所前で仲間を病院へ送るよう要求した。これが受け入れられ、NOIとマルコムは一躍名を知られることとなった。

1962年、イライジャが少女を強姦し子を産ませていたことが判明し、マルコムはNOIに失望する。彼はイライジャの行為に怒り、このことを告発。NOIにおける立場を危うくすることになる。

1963年2月に教団は彼を暗殺しようとしたが失敗に終わる。

1964年3月26日、マルコムはキング牧師と最初で最後の対面をした。二人がたまたま公民権法に関する論議を聞くためにアメリカ合衆国議会議事堂を訪れていたために実現したものであり、会話も挨拶のみでわずか1分ほどで終わった。
同年、マルコムはメッカに巡礼。そこで彼は現地のイスラム教徒から熱い歓迎を受ける。白人でありながら自分たち黒人を肌で判断しない彼らに感銘を受け、それまでの考えを捨てた。

正統派への転向者としてアメリカに帰国し、NOIを脱退し、アフリカ系アメリカ人統一機構(Organization of Afro-American Unity)を組織するが、マルコムとNOIの緊張は増加した。教団内に侵入したFBIの潜入捜査官は、マルコムが教団によって暗殺の対象になったと報告した。

暗殺の対象となったマルコムは、護衛なしでは外を出歩かないようになった。ライフ誌は、M1カービン銃を持って窓から外を凝視するためにカーテンを開くマルコムXの有名な写真を掲載した。写真は、彼と家族が毎日受けていた死の脅迫から自己防衛するというマルコムの宣言から公表された。 



教団はマルコムの暗殺指令をメンバーに下した。教団内のFBI工作員は教団からマルコムの自動車に爆弾を仕掛けるように指示された。1965年2月14日に、ニューヨークの彼の自宅は教団メンバーによって爆弾で攻撃されたが、マルコムと彼の家族は無事だった。

一週間後の2月21日、マンハッタン、ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でマルコムがスピーチを始めたとき、400人の群衆の中で騒動が発生した。
男が「俺のポケットから手を離せ! ポケットにさわるな!」と叫んだ。マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとしたとき、男は前に突進し、銃身を短くした散弾銃をマルコムの胸に向けて発射した。さらに他の二人がステージに素早く近づき、マルコムに拳銃を発砲した。マルコムは15発の銃弾を受け、コロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。

マルコムXはニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。また、NOIの信者、タルマージ・ヘイヤー(トーマス・ヘーガン)、ノーマン・3X・バトラー(ムハンマド・アブドゥル・アジズ)およびトマス・15X・ジョンソン(カリル・イスラム)の三人が殺人罪で逮捕され、全員が1966年3月に第一級殺人で有罪と判決された。
2010年4月27日、暗殺犯の一人ヘーガンが44年ぶりに仮釈放を認められた。仮釈放の申請はこれが17回目だった。ヘーガンは1966年暗殺の実行犯として20年から無期の禁固刑を言い渡されたが、1992年以降は仕事を続けることを条件に週に5日間自宅に戻ることができ、2日間だけ刑務所で過ごすプログラムが適用されていた。なおほかの二人は1980年代後半に仮釈放が認められている。

マルコムは生前、自分の命を狙っているのは教団だけでなく、FBIやCIAすらも協力しているのではないか、と漏らしていた。彼の死後もそのような噂は途絶えなかった。

マルコムXは一時期融和的なキング牧師を公然と「弱腰」と批判し双方共に敵対していたとされているが、側近や親族の証言によると、晩年の2人の主張や姿勢は逆転していた、とされている。マルコムXはいついかなる時でもイスラムへの信仰を捨てず、キング牧師への支援を申し出ている。更にキング牧師は亡くなる前の3年間、マルコムXが暗殺された後より急進的になり、スピーチでもマルコムXのようなレトリックを多用した、とされている。

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