Killer Crown  | hiroチャンのブログ

Killer Crown 


【ジョン・ゲイシー】- 1 -

アメリカ合衆国生まれの連続殺人者。子供たちを楽しませるため、パーティなどでピエロに扮することが多かったことからキラー・クラウン(殺人道化、殺人ピエロ)の異名を持つ。




本名:ジョン・ウェイン・ゲイシー
John Wayne Gacy
別名:ポゴ
キラー・クラウン
生誕:1942年3月17日
アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴ
死没:1994年5月10日(52歳没)
アメリカ合衆国・イリノイ州クレストヒル、ジョリエット刑務所
死因:薬殺刑による刑死
有罪判決:殺人罪による死刑宣告
犠牲者数:33人
犯行期間:1972年1月・1978年12月
国:アメリカ合衆国
州:イリノイ州
逮捕日:1978年12月



少年時代はボーイスカウトに入っていたことがあり、資産家の名士でチャリティー活動にも熱心な模範的市民だと思われていたが、アルバイト料の支払いなどの名目で呼び寄せた少年に性的暴行を加えたうえで殺害し、その遺体を自宅地下および近くの川に遺棄していた。自身の同性愛を隠すために殺害したとされている。1972年から1978年のあいだ、少年を含む33名を殺害したことが明らかになっている。彼の犯行はアメリカ社会を震撼させた。

刑務所で彼の描いたピエロの絵画は連続殺人者犯マニアには大変な人気があり、展示会が開かれたり、高値で取引されている。著名人では俳優のジョニー・デップが購入して所有している。


(彼の描いたピエロの絵画) 



1942年3月17日、イリノイ州シカゴのポーランド系の父親とデンマーク系の母親の間に生まれる。父親である叩き上げの熟練機械工、ジョン・スタンリー・ゲイシーは貧しさの中で育ち、「人には負けない」、「弱みを見せてはならない」という人生哲学を持っていた。父スタンリーには、脳内の手術が不可能な部位に腫瘍があり、発作的な癇癪を起こすなどその情緒は極めて不安定で、やり場の無い怒りが突如湧き上がることもあり、しばしば自分の家族に矛先を向けた。はじめての一人息子に期待を込めて、西部劇で人気を博したアメリカ男性を象徴する名優ジョン・ウェインの名を授けたが、生まれたばかりの息子に心臓疾患があると判明した途端に失望して見限ってしまった。
父スタンリーに対するジョンの幼い頃の記憶は躾や礼儀作法に厳しく、小さな失敗をしても革砥で打擲されるというものが多く、スタンリーから徹底的な虐待を受けていた。スタンリーは身体の弱い息子をことあるごとに「クズ」「間抜け」「オカマ」「お前はホモになるのさ」となどと常に責め立て、肉体と精神の両面で痛めつけた。このためにジョンはパニック障害や心臓発作を頻繁に起こすが、彼は罵倒されるのが嫌でストレスや体の不調を我慢して必ず失神し、そのたびにスタンリーは息子を激しく罵った。
それでもジョンは自身を罵倒し続けた父親を心から愛しており、いつか父親に認めてもらおうと一生懸命に働き続けた。

1962年(20歳)、ゲイシーは父と口論となり、ラスベガスへ家出、母が引き取りに来るまでの3ヶ月間葬儀屋のアルバイトを勤めた。昼間はここで死体に防腐処置を施すための血抜きを手伝い、夜は死体を安置している処置室の隣に置いてある簡易ベッドで寝起きした。
「その頃のゲイシーは若者の死体を見ると胸が疼き、それも少年の死体だと、異様な感覚に支配される。
その後シカゴへ帰郷したゲイシーは、ビジネスの専門学校へ進んだ。卒業後は大手靴販売店のセールスマンとして就職。入社して間もなく抜群の営業成績を上げたことで、若くしてエリアマネージャーに抜擢された。1964年(22歳)にはマリリンという女性と結婚してアイオワ州に移る。そこで妻の父親が所有していたケンタッキーフライドチキンの3店舗のマネージャーを兼任するようになり、ビジネスに地域活動に八面六臂の活躍をし、人望も厚かったゲイシーは青年会議所の次期会長選出が確実視された。
ゲイシーは結婚する少し前、一緒に酒を飲みに行った男と関係を持つ。父スタンリーから言われ続けてきたことが現実のものとなったことに深い恐怖と嫌悪を抱いたが、その3年後、青年会議所会員の15歳の息子を誘い地下室で関係を持った。事が済んで金を払ったが、その後も何かと理由をつけては金を要求されゲイシーはそのたびに金を支払い、性交した。しかし会頭選挙を目前に控えた頃、この息子が(未成年との性交は合意の上であっても性的虐待が成立するため)訴え、ゲイシーは反自然性交の容疑で逮捕された。
1968年(26歳)に少年への性的虐待の罪で服役することになる。その間にマリリンが離婚を提訴し、受理されたことで結婚生活は終る。
実刑判決を受けて収監されるが、わずか7ヶ月で高校卒業の資格を取り、さらに大学の通信教育で心理学などの単位を取得する。また刑務所内の青年会議所の法律相談員として、待遇の改善に関する2つの法案を州議会に通した。実績と模範囚として態度を買われたゲイシーは懲役10年の判決にもかかわらず、わずか16ヶ月で出所となり、イリノイ州に戻った。

釈放から半年後、ゲイシーは少年に対する暴行容疑で再逮捕される。しかし原告が裁判に姿を見せなかったことで不起訴となった。その秋より、ゲイシーはパーティーで知り合った少年をあさるようになる。その翌年の1月のある夜、自分の「拾った」青年とベッドをともにする。早朝に目を覚ますと、その青年がナイフを持って立っているのを見て恐怖からパニックを起こし、格闘の末刺し殺してしまった。青年はゲイシーのためにサンドイッチを調理しており、彼はナイフを持ったままゲイシーを起こそうとしたのだった。これに大きく混乱したゲイシーは死体を床下に隠した。これ以降、殺人が習慣となっていく。

その後は勤勉に働き、高校時代から知っているキャロルという女性と結婚、彼女の連れ子二人も共に暮らし地域でも尊敬される存在となっていった。休みには道化師「ポゴ」に扮し、福祉施設を訪れるなどして子供たちの人気者となる。さらに地元民主党のメンバーとなり、パーティー会場で時の大統領ジミー・カーターの妻ロザリンと握手している写真が残されている。



この件について、ファーストレディを性犯罪者であった人物と会わせてしまったとしてシークレットサービスの調査能力の無さが非難された。

ゲイシー本人によると、彼の意識障害はある種の健忘を伴って現れるようになり、道化師ポゴを始めたのはポゴに変身しているときは安らぎを得ることができたという。 


ゲイシーは少年たちを家に誘って強姦した後に殺害した。被害者を誘う手口は「ポルノを観ないか」と誘って地下室に連れ込み、手錠を掛けて動きを封じ、凶器で脅しながら強姦した。その後、多くの殺害方法は少年達が首にかけていたロザリオにボールペンを入れゆっくりねじって首を絞めて殺害するというものであった。死体は床下に埋葬し、その上に石灰を撒いた。時には塩酸をかけることもあった。1975年(33歳)の末にキャロルと離婚。その後、ゲイシーの犠牲者は一気に増えた。

1978年、ゲイシーの会社のアルバイトの面接へ行ったまま行方不明になった15歳の少年、ロバート・ピーストの行方を追っていたデス・プレーンズ警察の警部補ジョゼフ・コゼクサックがゲイシーの家を訪ねた際に様々な遺留品があることに気づいた。遺留品の他に彼を圧倒させたのは家全体を覆う異様な臭気だった。コゼクサックはゲイシーがただの実業家ではないことを悟った。事実、ゲイシーは以前から警察による厳しい追及を受けていた。
やがてガソリンスタンドでゲイシーが顔馴染みの従業員にマリファナを渡していたことを部下の聞き込みで知ると、ゲイシーを麻薬不法所持の現行犯で逮捕することにした。これによりコゼクサックは家宅捜索令状を手に入れ、ゲイシーの自宅に入った。


つづく・・・。