要人誘拐事件 | hiroチャンのブログ

要人誘拐事件


【アルド・モーロ元首相誘拐事件】
1978年3月16日にイタリアの元首相アルド・モーロが極左テロ組織「赤い旅団」により誘拐。5月9日射殺体となって発見される。




「赤い旅団」はアルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件によって世界的にその名が知られることとなった。
1978年3月16日に、ローマの自宅から車で下院に向かう途中、市内中心部のマリオ・ファーニ通りで2台の車で乗り付けた左翼テロリスト集団の赤い旅団に誘拐された。この時、5人のボディガードがいたがすべて射殺されている。
ローマ教皇やイタリア政界上層部と赤い旅団との間で数度にわたる交渉が行われたものの、モーロと当時対立関係にあったジュリオ・アンドレオッティ首相率いる当時の内閣が、赤い旅団からの逮捕者の釈放要求を拒否した為にモーロは殺害され、5月9日にローマ市内に停めたルノー・4の荷台の中で死体となって発見された。遺体は毛布をかけられたうえ、10発の弾丸を撃ち込まれていた。当局によれば、殺害の実行犯はマリオ・モレッティだとされている。
なお、モーロ元首相が当時イタリア共産党の連立政権への復活を画策していたことから、モーロが解放されることにより、冷戦下のイタリアにおいて「ユーロコミュニズム」を標榜し、大きな支持を受けていた共産党勢力がさらに勢いをつける(当時イタリアにおいて共産党は2番目の支持率を誇っていた)ことを嫌ったCIAが、アンドレオッティ首相に圧力をかけた疑いが取りざたされた。
モーロ元首相は、「赤い旅団」に監禁されていた時に書いた手紙で「アンドレオッティは悪事を行うために生まれてきた男」と指摘した。

カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ将軍率いる対テロリズム対策情報機関NOCS(Nucleo Operativo Centrale di Sicurezza、通称レザーヘッド)が辣腕をふるったこともあり、赤い旅団のメンバーはその後大半が逮捕されて裁判にかけられた。
モーロ殺害の実行犯とされるモレッティは終身刑の判決を受けたが、1998年に夜と週末に刑務所へ戻ることを条件に仮釈放された。
なお、事件後にジュリオ・アンドレオッティによる暗殺事件への関与を暴こうとした雑誌編集者で、元フリーメイソンで破門後も秘密結社として活動を続けていたロッジP2のメンバーのカルミーネ・"ミーノ"・ ペコレッリ(Carmine "Mino" Pecorelli)の殺害(1979年3月20日)を、アンドレオッティ自らが知り合いのマフィアに依頼したとして、2002年11月に一度は殺人罪で懲役24年の有罪判決を受けたものの、翌年の10月には逆転無罪の判決が出た。

赤い旅団(伊:Le Brigate Rosse)は、イタリアの極左テロ組織。1969年に結成され、イタリアでの革命とイタリアの西欧同盟からの離脱を主張して1970年代初頭から活動を開始。数多くの誘拐・殺人事件を起こし、ジャーナリストや警察官、裁判官、実業家、政治家などを殺害した。

赤い旅団
Le Brigate Rosse
略称:BR
設立年:1969年
設立者:レナト・クルチョ
種類:テロ組織
地位:非合法
目的:イタリアでの革命とイタリアの西欧同盟からの離脱
本部:ミラノ
位置:イタリア
メンバー 500人以上(最盛期)
重要人物:マリーナ・ペトレラ
1969年にトレント大学の左翼学生レナト・クルチョにより創設されたとみられ、当初の主な活動はミラノやトリノでの極右勢力に反対する労働組合の支援であった。構成員は労働者と学生で、工場の設備を破壊し、工場の事務所や組合の本部に入り込んだ。
若年層の高い失業率や挙国一致体制への不満などを背景に勢力拡大を狙うが、労働者からの支持が得られず次第に過激な武力闘争に傾斜してゆく。1972年に最初の誘拐事件を起こした。ある工場長を数度にわたり拘束し最終的には解放した。
「保守派」として知られるアンドレオッティ首相のモーロ元首相誘拐事件への関与が示すように、赤い旅団は1970年代後半に入ると、イタリア政界の保守派や「カモッラ」などのマフィアとの関係を深めて行き、「金のために動く腐敗した殺し屋集団」と揶揄されるようになっていった。それに合わせて政治家や企業経営者へのテロや誘拐、暗殺は行わなくなり、その代わりに警官や地方官僚などへそのターゲットを変えてゆくことになった。
また、モーロ元首相誘拐事件をきっかけに、イタリア政府が対テロ組織NOCS(Nucleo Operativo Centrale di Sicurezza、通称レザーヘッド)を編成し、赤い旅団への圧力を強めて行った。1981年にはアメリカ陸軍のジェームス・ドジャー准将誘拐事件を起こすも、NOCSの突入により准将を奪還された。
それらもあってか、1980年代半ばには組織の分裂や活動家の逮捕が相次いだ。1988年以降、赤い旅団は壊滅したと思われた。
1999年にアントニオ・バッソリーノ労働大臣顧問のローマ大学教授マッシモ・ダントーナ殺害事件で赤い旅団から犯行声明が出された。また、2002年にも労働大臣顧問マルコ・ビアージ教授が暗殺されている。2003年に多くの幹部が逮捕されて以降目立った活動はしていない。1999年以降に活動している赤い旅団は「新赤い旅団」と呼び区別することもある。
フランスで逮捕された元メンバーのマリーナ・ペトレラのイタリアへの引渡しが、フランスのニコラ・サルコジ大統領の妻でイタリア人のカーラ・ブルーニと姉のヴァレリア・ブルーニ=テデスキによる口添えにより阻止されたが、この行為がイタリア国内の被害者の遺族たちの怒りを招き、大きな外交問題になっている。

.