見逃された暴走の予兆 | hiroチャンのブログ

見逃された暴走の予兆


【西鉄バスジャック事件】
場所:日本
日付:2000年5月3日 - 5月4日
(午後1時35分頃 - 午前5時すぎ)
標的:民間人
攻撃手段:牛刀
死亡者:1人
負傷者:2人

『西鉄バスジャック事件』
2000年(平成12年)5月3日に発生した当時17歳の少年によるバス乗っ取り(バスジャック)事件である。西鉄高速バス乗っ取り事件や佐賀バスジャック事件、さらにインターネット掲示板の2ちゃんねるに犯行予告の書き込みが残されており、その時のハンドルネームからネオむぎ茶事件(ネオ麦茶事件)とも呼ばれた。

2000年5月3日12時56分頃、佐賀第二合同庁舎(佐賀県佐賀市)発西鉄天神バスセンター(福岡県福岡市中央区)行きの西日本鉄道の高速バス「わかくす号」は、定刻通りに佐賀第二合同庁舎を出発した。西鉄天神バスセンターには、14時6分に到着する予定であった。
その後、13時35分頃、九州自動車道太宰府インターチェンジ付近で刃渡り約40センチの牛刀を持った少年が運転手に牛刀を突きつけ乗客に対し、「天神には行くな、このバスを乗っ取ります。」「おまえたちの行き先は天神じゃない。地獄だ。」と言い、バスを乗っ取った。犯人は西鉄天神バスセンターに行かずに九州自動車道をしばらく走行するように運転手を脅し、乗客に対し様々な指示を繰り返した後、最後にカーテンを閉めるように指示。その後、山口県の山陽自動車道に達するまでに乗客3人を切りつけ、2人が負傷し女性1人が死亡した。日本のバスジャック事件において、人質が死亡した初めての事件となった。
金融機関や航空機やタクシーとは異なり、当時のバスには犯罪者に知られずに内部の異常事態を密かに外部に知らせる仕組みやマニュアルがなかった。乗務していた運転手によると、ハザードランプの点灯やパッシングをするなど外部に異常事態を伝えようとした。通報があったのは北九州市門司区の九州自動車道新門司インターチェンジとされている。対向する車両の運転士が気づいていたか否かは公になっていない。
なお、このころ西鉄佐賀自動車営業所では西鉄天神バスセンターへ到着しない当該バスに対し、所内から何度も無線で当該バスに応答を求めていたが、当然応答がなかった。無線は北九州市門司区辺りまでが交信可能エリアだったため、山口県に入ってしまうと無線が途切れる可能性が高かった。西鉄は15時30分頃に、本社内に対策本部を設置し約20人が情報収集に当たったがこの時点ではまだなにも分からず、さらに乗っ取られた高速バスわかくす号は、予約制ではないため乗客の身元の確認に時間がかかった。また当日は博多どんたくの期間中で、バスセンターや高速バスの利用者も多かった。
バスは九州自動車道から関門橋および中国自動車道に入った。この頃には山口県警に事件は周知されており高速道路交通警察隊がバスを追尾していた。警察が追尾を開始していた頃、山口県小郡インターチェンジ付近で走行中のバスから高速道路に飛び降りて負傷している乗客を警察が発見し、乗客1名を救出。この乗客の証言により警察はバスで負傷者が出ていることを把握することとなった。バスは山口ジャンクションから山陽自動車道に入り、下松市の下松サービスエリア付近では警察車両に行く手を阻まれ減速したバスから身を乗り出した乗客1人が、警察に救出された。この頃にはマスコミ各社も事件の報道を開始しており、この男性乗客が救出される瞬間はテレビでも中継された。警察は山口県での解決を断念して封鎖を解除、バスを広島方向へ走らせた。その直後、犯人の少年は逃げた乗客の「見せしめ」として、更なる凶行へ及んだ。
バスは広島県へ入り、広島市安佐南区の武田山トンネル付近で男性客全員を解放した後、東広島市の奥屋パーキングエリアに入り数時間停車した。ここで警察の説得により犯人は差し入れを提供するという条件で負傷した人質3人を解放したが、うち1人はすでに失血死していた。こう着状態が続いた後、バスは再び動き出して隣の小谷サービスエリアまで行き、ここで長いこう着状態となる。
広島県警は、食料や簡易トイレ、毛布などを乗客に差し入れた。少年の家族も説得の為に現場に到着したが、少年は応じることを拒否した。
バスが停車中の小谷サービスエリア近くでは、福岡県警と大阪府警の特殊部隊 (SAT) によって、突入任務を帯びた機動隊員と機動捜査隊員に速成の訓練ならびに図上演習が施されていた。
事件発生から15時間半後の4日午前5時過ぎ、小谷サービスエリアで停車中、警察官による説得中に「手袋を路面に落とす」という突入の合図を受けた15名の隊員の突入により少年は逮捕された。この突入で、機動隊員1名が犯人に左足を切り付けられ負傷した。この事件の様子はテレビで生中継された。

犯人の少年が「ネオむぎ茶」の固定ハンドルネームを用い、犯行前にインターネット掲示板「2ちゃんねる」に書き込みを行っていたことや、SATが出動したことで話題となった。SAT隊が突入する際、特殊閃光弾(「スタングレネード」または「フラッシュバン」などと呼ばれているもの。閃光と爆音で犯人の視覚、聴覚を一定時間失わせ無力化する。)日本で初めて使用され、以後人質籠城事件で広く使われることになった。

その後、犯人の少年に対しては佐賀家庭裁判所で医療少年院への送致が決定した。2006年2月1日、加害者の元少年(成人していたため、「元少年」と記載)が先月中に仮退院していたと報道された。社会復帰への訓練を始めたとされる。

少年は中学校でいじめに遭遇、家庭内暴力で家族を悩ませた。親が学校にいじめの相談をするが、当の学校や教育委員会はいじめの事実を認めなかった。高校受験が目前に迫った1998年1月、クラスメイトたちの挑発を受けて、踊り場から飛び降りるも着地に失敗して腰椎を損傷する重傷を負い入院。病室で佐賀県立致遠館高等学校を受験して合格したが、入学後、校風が合わないという理由で9日だけ登校し、5月には中退した。
不登校となった少年は、大検を目指していたが、親にパソコンをねだり、2ちゃんねるに寝食を忘れるほど熱中、家庭内暴力がますます悪化していく。飼い犬を叩き、周辺住民は少年の妹の悲鳴も聞いている。危険を感じた親が警察や精神科病院に相談するも、事件を起こさない限り対処できないと双方から断られてしまう。そこで最後の頼みの綱として、頻繁にテレビに出演して著書を出している精神科医Mに連絡を取って相談、Mは親にも少年にも一切面会しなかったが親からの要請を受けて2000年3月5日、佐賀県警と国立肥前療養所に電話した。肥前療養所はすぐに少年の医療保護入院を許可し、即日入院となった。
国立肥前療養所に入院が決定した時、少年は親に絶対許さないと発言していたが実際に入院すると、医療スタッフや他の入院患者にも礼儀正しく、家庭内暴力で家族を悩ませていたとは思えないほどだった。やがて、少年と親と医者と話し合いの上で、少年の外出許可が出る。病院に帰ってから、愛知県で少年が老夫婦を殺傷する豊川市主婦殺人事件を知り、少年は手記にこの少年犯を褒め称え、自分も早く彼のようになりたいと書いた。この手記の内容をまったく知らなかった医者は、少年の外泊許可を出した。帰宅した少年は当初、自分がいじめを受けていた母校の中学校で無差別殺人を行う予定だったが(各教室で生徒を刺して籠城し、注目を浴びたら飛び降りて死ぬつもりだった)、ゴールデンウィークで休校だったため、バスジャックへと目的を切り替え実行に至ることとなった。
事件後、Mはマスコミや著書を通じて、少年や親を擁護する一方、国立肥前療養所を批判した。これを受けて、肥前療養所の記者会見では院長が、少年に一度も面会せずにテレビや雑誌で肥前療養所に対する批判を述べていたMに対して「こういう態度は臨床医としてあるまじき行動であり、Mに怒り心頭に発している」と述べた(後日、Mの態度が精神科関連の学会や家庭内暴力関連の団体から厳しく批判された)。

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