歴史に名を刻む男 | hiroチャンのブログ

歴史に名を刻む男



【ジョン・ウィルクス・ブース】
(John Wilkes Booth, 1838年5月10日 ・ 1865年4月26日)は、アメリカ合衆国の俳優(シェークスピア役者)。

エイブラハム・リンカーンの暗殺者として有名。南北戦争の結果に不満を持つ、南部連合の支持者であった。


父ジュニアス・ブースは当時のアメリカ演劇界でよく知られた俳優(シェイクスピア役者)の一人だった。兄エドウィン・ブース(Edwin Thomas Booth)はアメリカで初めて『ハムレット』などを脚本どおり演じたシェイクスピア役者であり、「演劇界の貴公子」と呼ばれた。
暗殺前にリンカーンの息子ロバート・トッド・リンカーン を汽車の事故から救ったことがあり、妻メアリー・デブリンは娘エドウィナを生んで亡くなっていた。妻の死や弟の起こした暗殺事件後に2度引退したが、その後カムバックしている。

【リンカーン暗殺事件】
ジョンは姉エイジアにリンカーンが共和制を廃止し、絶対君主制をもたらす可能性を危惧していると話しており、ブースは自らを「ブルータス」になぞらえていた。
ブースは演劇一家に生まれた。イギリス出身で、1821年にアメリカへ移住した。1838年5月10日北軍に属していたメリーランド州ベル・エアの近くの農場でジョンは生まれた。家族には兄エドウィンと姉エイジアがいた。彼のミドルネームは、18世紀イギリスの急進主義者ジョン・ウィルクスに因んだもので、ブース家はウィルクスの遠縁にあたるとも言う。
ブースはジョージ・アツェロット、ルイス・パウエル、ジョン・サラット、マイケル・オローレン、エドマン・スパングラーなどの共犯者とともにリンカーン、ワシントンに帰還したグラント将軍の他多数の政府高官を同時に殺害する計画を立てた。しかし、グラント将軍夫妻は当日夕方に観劇を中止し不在であった。
1865年4月14日フォード劇場で『われらのアメリカのいとこ』(Our American Cousin)(イギリス貴族遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)を観劇中のリンカーンに対し1.2mの至近距離からデリンジャーピストルで後頭部左耳後5cmに1発撃った。ブースは羅: “Sic semper tyrannis!”(専制者は常にかくのごとし、バージニア州のモットー)と叫び(「これで南部の報復は果たされた」と叫んだともいわれる)、共に観劇していたヘンリー・ラスボーン少佐がとびかかるもナイフで腕を切って振り払い、バルコニーから舞台へと飛び降り、劇場の裏手に用意していた馬に乗って海軍基地の橋まで逃走した。この橋は夜9時以降通行禁止だったため、守衛のコップ軍曹に通行をとどめられたが、なんとか言いくるめて橋を渡った。このあと、南軍の協力者たちの家を転々としながら、ポトマック川を渡ることに成功した。しかし、深南部に逃げ込むという計画は果たせず、10日間の逃走と潜伏の後、4月24日にリチャード・ギャレットという男の農場に辿り着いたが、25日夜にタバコ小屋の中で寝ていたところをギャレットの家族によって閉じ込められ、追ってきた29名の騎兵隊に包囲された。騎兵隊はブースに投降を呼びかけたが、ブースは拒否。やがてデイヴィッド・ヘロルドのみ投降し、エヴァートン・コンガー大佐の指示によって小屋の周りに火がつけられた。その火によって照らされたブースを騎兵隊の一員ボストン・コーベット軍曹が後方から射撃したため、このときの首の傷が致命傷になって4月26日朝、ブースは命を落とした。

ブースの死体と日記などの持ち物は汽船でワシントンに運ばれ、軍艦モントーク号の甲板に保管した後、死体はスタントン陸軍長官の命令で、4月27日の夜、秘密警察本部長ベイカー大佐、ベイカー中尉(大佐の甥ギャレットの農場に踏み込んだ警官)により秘密裏に埋葬された。このため自分がブースと主張する者が多くあらわれたという。1867年、ベイカー大佐の『特務機関の歴史』によれば以前の監獄の地下牢の床下に埋めたという。
ブースの日記については、裁判でスタントン陸軍長官は発見されていないとしていたが、のちに発見されたと裁判に提出した。ただし日記には暗殺事件の期間24ページが破られていた。

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【禹範坤事件 - 韓国史上最悪の大量殺人事件】
禹 範坤(ウ・ポムゴン、1955年2月24日-1982年4月27日)は、1982年4月26日から翌日にかけて、韓国南部の慶尚南道宜寧郡宮柳面で57人(55人、56人、61人などの説もある)を殺害、35人に重軽傷を負わせた事件を起こした。

1982年4月26日、警察官である禹は酒に酔って帰宅したところ、同棲していた女性が禹の胸に止まったハエを取るために叩いたことがきっかけとなって口論になり、宜寧警察署宮柳支署(現在の宮柳治安センター)へ戻るなり武器庫に入り込んでウイスキーを多量に飲み泥酔状態となった。そして午後9時30分頃、武器庫からM2カービン銃2丁と実弾180発、手榴弾7発を持ち出した。
禹は、まず警察署の近くにある郵便局に押し入って電話交換手3人をカービン銃で射殺した。その後に路上に飛び出して近隣の5つの集落の家々を次々に回り、手当たり次第に家人に対してカービン銃を乱射し、また閉店前の市場など人の集まる場所に手榴弾を投げ込み、爆発で驚いて表へ飛び出してきた人達に対してカービン銃を乱射して次々と村人を射殺した。
結局、禹は翌日の午前2時頃まで付近一帯をカービン銃を乱射して回り、虐殺の限りを尽くして5集落合計56名の人々を殺害した。
禹がまず最初に郵便局に押し入って電話交換手をカービン銃で射殺したのは外部との連絡を絶つ為であり、これにより、この無差別大量殺人の一報が外部に伝わったのは、事件発生後1時間以上も経った午後10時40分だった。そして武装警官が被害の発生した現場へ到着したのは、さらに遅れて午後11時50分頃となったが、この時には既に禹は付近の集落での殺人をほぼ終えた後であり、警察の対応は完全に後手に回ったかたちとなってしまった。

武装警察隊が到着したのち禹は武装警官により山に追い込まれた。日付が変わって4月27日午前5時30分頃、禹は残りの手榴弾2発の安全ピンを抜くと、最後の犠牲者となった人質3名を抱きかかえて自爆した。

現職の警察官による大量殺人に加え初動捜査の遅れから被害を拡大させたとの非難が高まり、このため徐廷和内務部長官が事件発生直後に辞任し、当時の宜寧警察署長が事件発生中に遊興で不在だったことから職務怠慢で起訴されたものの、最終的には無罪が確定している。

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【エアフルト事件】
Amoklauf von Erfurt
場所:ドイツ連邦共和国テューリンゲン州エアフルト
日付:2002年4月26日
標的:教師
攻撃手段:銃撃
武器:自動式拳銃、散弾銃
死亡者:17人(犯人を含む)
負傷者:6人
犯人:元生徒
動機:自分を退学にした教師への恨み

エアフルト事件(独: Amoklauf von Erfurt)は、ドイツ・テューリンゲン州の州都エアフルトで2002年4月26日に発生した大量殺人事件。死者17人、負傷者6人を出し、ドイツでは第二次世界大戦以降最大の民間人殺戮となった。
犯人の少年は裕福で問題のない家庭に育ったが、コンピュータゲームに耽溺し通っていた高校では問題行動のために退学になっていた。このことから教師を恨み、2002年4月26日の午前11時ごろにショットガンと自動式拳銃で武装し目出し帽をつけてかつての母校へ向かった。そこで教室を移動しながら教師13人、生徒2人、駆けつけた警官1人を射殺した。
その後、鉢合わせした教師の前で目出し帽を脱いで素顔を見せている。少年を知っていた教師は「自分を撃て」と言ったが、少年は「先生、今日はもう充分です」と答えた。教師は少年を空き部屋に閉じ込めて鍵をかけ、直後に少年は自殺した。
死体解剖では薬物もアルコールも検出されなかったが、彼の部屋からはアメリカ合衆国の大量殺人事件に関する資料が見つかった。

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