Iran hostage crisis - 奪われた大使館 - | hiroチャンのブログ

Iran hostage crisis - 奪われた大使館 -



1980年
アメリカがテヘラン駐アメリカ大使館人質救出の為『イーグルクロー作戦』を行う。

【イーグルクロー作戦】
イーグルクロー作戦(Operation Eagle Claw)は、1979年11月4日にテヘランにあるイランアメリカ大使館人質事件で人質となとた大使館員及びその家族ら53人を救出する目的で1980年4月24日から4月25日に行われた「テヘラン駐アメリカ大使館人質救出作戦」の通称である。

【イランアメリカ大使館人質事件】
Iran hostage crisis

1979年11月にイランで発生した、アメリカ大使館に対する占拠及び人質事件である。
革命前のイランは、パフラヴィー朝の皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーが、アメリカをはじめとする欧米諸国からの支援を元に開発独裁と親欧米化路線を進め、並びに西洋化改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止するなどイランの世俗化を進めた。しかしこれらの政策はルーホッラー・ホメイニーらイスラム法学者の反発を招いた。これに対してパフラヴィー皇帝はイスラム原理主義者をはじめとする急進派を中心にした反体制派を弾圧、投獄するに至った。このため、反体制派はフランスのパリに亡命を余儀なくされていた。
しかし、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化などを受けてイラン経済が不調に陥ったことや、国内の貧富の差が広まったことなどを受けて皇帝に対する国民の不満が高まったことなどを追い風に、次第に国民からの支持を受けることとなった。
なお、アメリカを後ろ盾とするパフラヴィー皇帝の西洋化と開発独裁体制に対する反体制運動は、ホメイニーをはじめとするイスラム主義者のみならず、モジャーヘディーネ・ハルグやソビエトなどが支援したイラン共産党(トゥーデ党)などの左翼なども参加して激化し、国内ではデモやストライキが頻発した。
さらにホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)のイスラム法学者が支柱となった反体制勢力が国内外から帝政打倒を目的とした活動を行い、1979年1月にイラン革命が発生した。その結果、1月16日に「休暇のためにイランを一時的に去る」と称して、パフラヴィー皇帝が政府専用機のボーイング727を自ら操縦し、皇后や側近とともにエジプトに亡命した。
その後、2月1日にホメイニーとその一派はエールフランスの特別機で亡命先のパリからテヘランに戻り、ただちにイスラム革命評議会を組織した。2月11日に評議会はパフラヴィー皇帝時代の政府から強制的に権力を奪取し、イランにおける唯一の公式政府となり、ここに革命は成功した。

パフラヴィー元皇帝とその家族、側近らは一旦はエジプトのカイロに亡命した後、モロッコ、バハマ、メキシコを転々とした。その後、パフラヴィー元皇帝は「癌の治療」のためという名目でアメリカへの入国(事実上の亡命)を求め、アメリカ政府に接触した。
アメリカのジミー・カーター大統領は、この要請を受けることでイランの新政権との間で軋轢が起きることを憂慮し、この要請を退けようとしたが、パフラヴィー元皇帝の友人だったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけを受け、最終的に「人道的見地」からその入国を認め、元皇帝とその一行は10月22日にニューヨークに到着し、アメリカに入国した。

《アメリカ大使館占拠》
ホメイニーらが敵視するアメリカが、同じく敵視する元皇帝を受け入れたことにイスラム法学校の学生らが反発し、テヘランにあるアメリカ大使館を囲んだ抗議デモ行った。これに対して新政権は何も対処せず黙認した。
その後デモ参加者は増え続け、11月4日に学生たちの一部が大使館の塀を乗り越えて大使館の敷地および建物内に侵入したものの、新政権および警察はこれに対して静止活動などは一切行わなかった。
また、大使館の警備にあたっていたアメリカ海兵隊員もこれに対して静止、発砲することはできなかったため、学生たちは間もなく大使館を占拠し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元皇帝のイラン政府への身柄引き渡しを要求した。
実際にはこの学生らによる行動は、シーア派の原理主義者が実権を握ったイラン政府が裏でコントロールしていた。なお、人質になった外交官とその家族らは大使館の敷地内に軟禁状態に置かれ、行動の自由を奪われただけでなく、占拠当初は興奮した学生らから暴力を受けるなどした。

当然これらの行為は外交関係に関するウィーン条約による、「接受国(大使館所在当該国)は、私人による公館への侵入・破壊及び公館の安寧・威厳の侵害を防止するために、適当なすべての措置をとる特別の義務を負う(同22条2)」という規定に違反していたため、これを放置するのみならず支援していたイラン政府は諸外国からの大きな非難を浴びた。

この占拠事件発生の際、6名のアメリカ人外交官達が大使館からテヘラン市街に脱出し、カナダ大使公邸や出入国管理局高官の公邸やスウェーデン領事のアパートに分散して匿われた。この6名に対しカナダ政府はカナダのパスポートを発給、更にカナダ政府とアメリカ政府の緊密な協力のもと、依頼を受けたCIAが彼らを「アルゴ」という架空の映画のカナダ人の映画撮影スタッフに変装させて脱出させる作戦を実行に移した(カナダの策謀)。

1980年1月27日、6名のアメリカ人外交官たちはイラン政府の目を掻い潜ってテヘランのメヘラーバード空港にてスイス・チューリヒ行きの航空機に搭乗し、脱出に成功した。

《人質救出作戦の失敗》
アメリカ政府はイラン政府を懐柔するために、パフラヴィー元皇帝を12月5日にアメリカから出国させてパナマへ送ることで事態の打開を図った。しかし、ホメイニー率いる保守派が実権を握るイラン政府は大使館の占拠を解くどころか、それを支援するなどアメリカに対して強硬な態度を取り続けた。
これに対してカーター大統領は、1980年4月24日から4月25日にかけて人質を救出しようと、ペルシャ湾に展開した空母と艦載機による「イーグルクロー作戦」を発令し、軍事力による人質の奪還を試みた。
しかし、作戦開始後に作戦に使用していたヘリコプター、シコルスキー・エアクラフトRH-53D シースタリオンが故障した上に、ロッキードC-130輸送機とヘリコプターが接触し、砂漠上で炎上するという事故が起き作戦は失敗した。これによってイラン政府はさらに態度を硬化し、事態は長期化する傾向を見せた。

アメリカ政府は軍事力による人質の解放を諦め、サウジアラビアやヨルダンなどのイスラム諸国などによるイラン政府の説得を試みるが事態は膠着したままであった。
ところが、1980年7月27日にパフラヴィー元皇帝が亡命先のエジプトのカイロで、アンワル・アッ=サーダート大統領の保護下で死去したことで、学生らによる大使館の占拠の理由が薄れ始め、アメリカ政府とイラン政府は水面下で交渉を続けた。
その後アメリカで行われた大統領選挙で、再選を狙ったカーターが共和党のロナルド・レーガンに敗北した。その後、イランは仲介国と人質の返還でアメリカと合意し、レーガンが就任し、カーターが退任する1981年1月20日に人質は444日ぶりに解放され、アメリカ政府が用意した特別機でテヘランを後にした。


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