狙われた大使公邸 | hiroチャンのブログ

狙われた大使公邸


1997年4月22日
ペルーの日本大使公邸人質事件で大使公邸に軍が突入。立て籠っていたゲリラは全員射殺。軍人2人とペルーの政府高官1人が死亡。
1996年12月17日、ペルーの首都・リマで起きたテロリスト(MRTA)による駐ペルー日本大使公邸襲撃および占拠事件。翌年1997年(H9)4月22日に軍の突入によって事件が解決。近隣民家から公邸下までトンネルを掘っての突入作戦。ペルー海軍特殊作戦部隊(FOES)を中心とした軍・警察の特殊部隊が公邸に突入し、最後まで拘束されていた72人の人質のうち71人を救出、立て籠りのMRTA構成員14人全員死亡。



【在ペルー日本大使公邸占拠事件】
1996年(平成8年)12月17日(現地時間)に、ペルーの首都リマで起きたテロリストによる駐ペルー日本大使公邸襲撃および占拠事件。翌1997年(平成9年)4月22日にペルー警察が突入し人質解放されるまで、4か月以上かかった。在ペルー日本大使公邸人質事件ともいう。

1996年12月17日夜、ペルーの首都リマの日本大使公邸では、青木盛久駐ペルー日本国特命全権大使をホストとして、恒例の天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた。午後8時過ぎ、当時空き家となっていた大使公邸の隣家の塀が爆破され、覆面をした一団がレセプション会場に乱入し、制圧・占拠した。

一団は、ネストル・セルパをリーダーとするトゥパク・アマル革命運動(MRTA)の構成員14人で、その場にいた青木大使をはじめとする大使館員やペルー政府の要人、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600人を人質にした。



その後セルパは、「逮捕、拘留されているMRTA構成員全員の釈放」、「国外に退避するまでの人質の同行とそれに対するセーフ・コンダクト」、「フジモリ政権による経済政策の全面的転換」、「身代金の支払い」という4項目の要求を提示した。さらに公邸敷地内に対人地雷を設置するなど、軍及び警察による武力解放作戦に備えた。




当初MRTAは、ペルー政府要人や日本大使館員程度の少数の人質確保を目的としていた。しかし、600人以上という予想以上の多数の人質を確保してしまったため、MRTAは人質になっていたミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表の求めに応じて、早期にフジモリ大統領の母・ムツエを含む女性や老人(高齢者)、子供など200人以上の人質を解放し、その後も継続的に人質を解放した。またアメリカ人の人質も早期解放されたが、これは米国政府が自国民救出を理由に特殊部隊を投入する事を、MRTAが恐れたからではないかとの見方もあった。
それでも、多く人質が大使公邸に残された。

ペルーのフジモリ大統領とブラディミロ・モンテシノス国家情報局顧問は、事件発生翌日には武力突入を検討していた。これに対し、事件直後に日本の首相橋本龍太郎の命を受けてペルー入りした外務大臣池田行彦が「平和的解決を優先してほしい」と勧めたことにより、即時の武力突入を断念した。


事件発生から1か月ほど経った1997年(平成9年)1月下旬、事件が膠着状況に陥ったことによる国内外からの批判の高まりや、内政の不安定を嫌ったフジモリ大統領の意を受けて、ペルー警察当局は、武力突入計画の立案を始めた。警察当局は、大使公邸と同じ間取りのセットを造り、特殊部隊が突入するシミュレーションを重ねていた。また、派遣は現実的でなかったものの、日本のSATも大使公邸の間取りを一部再現して、突入訓練を実施していた。

人質の数は、1997年の始めには100人、4月の事件解決時には70人程度となった。最終的な人質の構成は、数名の閣僚やペルー軍の将校を含むペルー政府関係者と、駐ペルー日本大使館員、日本の大手企業の駐在員などが中心となっていた。

事件から3週間ほど経った1997年(平成9年)1月7日、テレビ朝日のニュースネットワーク(ANN)員として取材に当たっていた広島ホームテレビの取材クルーが、ANN代表としてMRTA側の声明を取材し全世界に発信するという目的でペルー大使館に突入を試みた。
しかしテレビ朝日の申し出はMRTA側から拒絶され、人質に危害が加えられることはなかったが、人質の安全を無視した行動として日本とペルーの両政府のみならず、各国の多くのマスコミから非難が寄せられた。当初テレビ朝日側は「テロリストとの対話を行おうとした」として批判を無視し続けたものの、後に同社の社長が正式に謝罪した。

1月7日に、ペルー警察当局はフジモリ大統領の発案による公邸周辺の家屋より公邸地下までのトンネル掘削を開始していた(合計7本)。なおトンネル掘削に伴う騒音を隠すために、大音量で軍歌を流し続けるなどのカモフラージュ作戦を行う。

2月11日にはペルー政府とMRTAの間で直接交渉が開始され、ペルー政府側代表のドミンゴ・パレルモ教育相と中立的な立場から交渉をサポートする保証人委員会の委員として、ミシェル・ミニグ赤十字国際委員会代表とフアン・ルイス・シプリアーニ大司教、アントニー・ビンセント駐ペルーカナダ特命全権大使が選ばれ、寺田輝介駐メキシコ日本特命全権大使も保証人委員会のオブザーバーとして参加した。
なお、シプリアーニ大司教は犯人と政府との間の交渉役としてだけでなく、人質への医薬品や食料の差入れ役としても活躍したものの、後にペルー政府側の意を汲んで、密かに人質となったペルー海軍のルイス・アレハンドロ・ジャンピエトリ提督(2006年に副大統領に就任)らに対して無線機などを手渡していた他、差し入れた医療器具やコーヒーポット、さらには聖書などの中にも多数の盗聴器が仕込まれていたことが明らかになっている。

《チャビン・デ・ワンタル作戦》
事件発生から127日後の4月22日に、ペルー海軍特殊作戦部隊(FOES/Fuerza de Operaciones Especiales)を中心とした軍・警察の特殊部隊が公邸に突入し、最後まで拘束されていた72人の人質(日本人の人質は24人)のうち71人を救出した。同年2月より掘削を進めていた公邸地下のトンネルを利用したことに特徴があり、作戦名も古代の大規模な地下通路で有名な世界遺産、チャビン・デ・ワンタル(Chav・n de Hu・ntar)に由来する。作戦の実行に際し、橋本首相への事前通告はなかったとされている。

4月22日午後、MRTAが日課となっていたサッカーを始め、このために1人を除くMRTA構成員全員が1階にいたことが、密かに持ち込まれた無線機を使用したペルー海軍のジャン・ピエトリ中将からの連絡により判明した。この連絡を受けて突入作戦の実行が決定され、その連絡を受けたピエトリ中将らは2階にいた人質の多くを急いで奥の部屋に押しとどめた。
人質が2階に集結したことを受けて15時23分に突入作戦は開始された。

掘削を進めていた作戦用トンネルの終着地となる1階の床の数箇所が爆破され、その穴と正門から部隊が突入した。







作戦は成功し、ほとんどの人質は無傷で解放されたが、フランシスコ・トゥデラ外務大臣や青木大使ら複数の重軽傷者を出した他、人質のカルロス・ジュスティ最高裁判事とファン・バレル中佐、ラウル・ヒメネス中尉の特殊部隊隊員2名が死亡し、MRTA構成員は14人全員が死亡した。







なおこの作戦は、大使館周辺に事件の報道のために集結していた世界各国のテレビ局のカメラによって世界中に生中継で放送され、映像には特殊部隊による突撃や人質の脱出などの映像が記録されている。






この際、協力関係にあったSASより突入訓練を受けたペルー海軍特殊作戦部隊が、PDWという新カテゴリー銃であるFN P90を使用して話題になった。






犠牲になった特殊部隊隊員のバレル中佐とヒメネス中尉のもとには、マスコミや市民団体を経由して日本人から義捐金が寄せられた。
ペルーを訪れる日本の国務大臣は、必ず2人の墓前を訪れている。
大使公邸は同じサン・イシドロ地区の別の場所に移転し、新公邸は二重の塀に四方の監視塔、防弾仕様のゲートなどセキュリティーが大幅に強化された。

フジモリ大統領がこの事件の解決時に果たした決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大きな賞賛を贈った。しかし後になって投降したMRTA構成員を射殺した疑惑が発覚し、フジモリ大統領も訴追された。
2000年(平成12年)11月19日、フジモリは反フジモリ運動の高まりから日本に事実上の亡命。
2001年(平成13年)3月、MRTA構成員の墓を掘り起こして再検死。
2002年(平成14年)5月、特殊部隊の指揮官ら12人に殺人容疑で逮捕状。13日、うち1人を拘束。
2003年(平成15年)3月、ペルー政府からの依頼を受けた国際刑事警察機構が、フジモリを人道犯罪の容疑で国際手配。日本政府は引き渡しを拒否。
2003年(平成15年)5月27日、ペルー政府側の嘱託を受けた東京地方裁判所が、MRTA構成員の生きたままの拘束を目撃していた元人質(当時の日本大使館一等書記官)を証人尋問。

.