Homegrown terrorism ー2ー  | hiroチャンのブログ

Homegrown terrorism ー2ー 


【ボストンマラソン爆弾テロ事件】
Boston Marathon bombings


一般からの情報に基づいて、当局は容疑者を、2002年頃に難民としてアメリカに移民したチェチェン人の2人兄弟で、技師を目指しマサチューセッツ州で評価の高い2年制のコミュニティー・カレッジで工学専攻のタメルラン・ツァルナエフ(Tamerlan Tsarnaev、1986年10月21日生まれ、事件時26歳)と、マサチューセッツ・ダートマス大学で口腔学専攻のジョハル・ツァルナエフ(Dzhokhar Tsarnaev、1993年7月22日生まれ、事件時19歳)とした。捜査官は爆弾作成を、アルカイダがイスラム教徒をテロに勧誘する目的で発行したとみられるオンラインマガジン「インスパイア」("Inspire" )から学んだものと確信している。兄のタメルランはボクシングでオリンピック出場を目指しており、2009年と2010年にニューイングランド・ゴールデングローブ・トーナメントに優勝、全国大会となるナショナル・ゴールデン・グローブ・トーナメントに出場を果たしていた。

《探索と逮捕》
写真の公開後、容疑者はマサチューセッツ工科大学の26歳の警備警官ショーン・コリアー(Sean Collier) を複数の銃撃によって射殺したとみられる。その様子は暗殺と表現された。コリアーは4月18日、午後10時48分マサチューセッツ工科大学キャンパスのStata Center (MITビル 32)の横に停車したパトカーに乗っていた。コリアーは近接したボストン市内のマサチューセッツ総合病院に運ばれたが、死亡が確認された。
容疑者はベンツSUVをケンブリッジで乗っ取り、ベンツの所有者にATMの使用を強要して$800(7万円相当)を奪った。容疑者は荷物をベンツに移し、もう1人の容疑者がホンダ・シビックで伴走した。被害者はATM引き出しの上限に達したあと、ガソリンスタンドから警察に連絡した。車に残った携帯電話によって、警察は所在地を特定した。車乗っ取りの犯人は被害者に、彼らがボストン爆発とMIT警官殺害を実行したと明言している。

4月19日午前0時過ぎ、ウォータータウンの警官がホンダのセダンと盗まれたベンツSUVに乗車している兄弟を発見し、ローレルアベニュー(Laurel Ave)で、兄弟と到着した警官のあいだで「猛烈な」銃撃戦が展開された。200-300発の銃弾と、少なくとも一つの爆弾、それに幾つかの"粗雑な手榴弾"が使われた。兄のタメルランが銃弾を使い果たし、警官が兄を押し倒して逮捕するに伴い、弟のジョハルは盗まれたSUVを運転して警官に向けて突進し、そのためSUVはタメルランを轢いて、短距離ながら引きずった。シリアル番号を消されたルガー9mmピストル1丁が現場から検収された。
タメルランは警察によってBeth Israel Deaconess Medical Centerに運ばれ、同病院で死亡した。死因は、多数の銃創、自爆装置付きベストからの爆傷と思われる傷、およびジョハルによって轢かれた際の負傷だとされる。一方、ジョハルはSUVを乗り捨て、徒歩で逃走した。銃撃戦の際、MBTA(マサチューセッツ湾交通局)の警察官、リチャード・H・ドナヒュー・ジュニアが重症を負った。ドナヒューはMount Auburn Hospitalに運ばれ、「重体だが安定」(critical but stable condition)と診断された。

FBIは、ウォータータウンでの銃撃戦の最中、両容疑者の追加写真を公開した。
4月19日早朝、ウォータータウンの住民たちに、リバース911通報による屋内待機が呼びかけられた。同朝、パトリック・マサチューセッツ州知事も、ウォータータウンおよびその周辺地域(Allston-Brighton、ボストン、Belmont、ブルックライン、ケンブリッジ、ニュートン、ウォルサム)の住民たちに屋内退避を指示した。
ウォータータウンの20ブロック区域に非常線が張られ、戦闘装備の警官たちが一帯を捜索する間、住民たちは自宅に待機してドアの呼び鈴などに応じたりしないよう指示された。2機のブラックホーク・ヘリコプターが上空を旋回し、装甲車に乗ったSWATチームが隊列を組んで移動し、警官らが一軒一軒を調べた。

現場には、FBI、アメリカ合衆国国土安全保障省、マサチューセッツ州兵、ボストン市警察、ウォータータウン警察、マサチューセッツ州警察が駆けつけた。アメリカ同時多発テロ事件の発生後に組織された複数機関合同タスクフォースとしては、初の大規模実地行動となった。

MBTA管轄下の全ての交通機関、ボストン地域の大部分のタクシー、ボストン発およびボストン行きのアムトラックが運営を停止した。ローガン国際空港は運営を続行した。大学・学校は閉校、多くの企業・商店や施設も営業を停止した。数千人または数万人(原文: thousands)におよぶ警官らがウォータータウンで各建物を回る一方で他の手がかりも追った。ケンブリッジ市のツァルナエフ宅とウォータータウンの捜索を合わせ、最低7個の即席爆発装置が押収された。
両容疑者の父親が、ダゲスタン共和国マハチカラの自宅から息子に「あきらめろ。あきらめろ。おまえには明るい未来が待っているんだ。ロシアに帰って来なさい」と呼びかけるとともに、アメリカ合衆国に対しては「(ジョハルが)殺されたりしたら、大騒動になるでしょう」と警告した。メリーランド州Montgomery Villageに住む叔父(または伯父)も、ジョハルに自首するよう、テレビを通して懇願した。

4月19日夜、ウォータータウンのある民家の裏庭にあったボートのタープの下に隠れていたジョハルを警官たちが取り囲んだ。屋内退避命令が解除された直後、同宅の住人が外に出たところ、裏庭のボートにかけてあったタープが緩んでいることに気付き、血溜まりに横たわる体をボートの中で見つけたため、即座に警察に通報した。州警察のヘリコプターが前方監視赤外線熱線暗視装置を使用してジョハルの存在と動きを確認した。ジョハルがタープを突付くような動作を始めると、警官たちはボートに向かって大量発砲し、現場指揮官の命令によってようやく中止した。逮捕後、ジョハルが一切の武器を所持していなかったことが判明した。逮捕時刻は、現地時間(アメリカ東部標準時)午後8時42分である。その後、Beth Israel Deaconess Medical Centerに運ばれ、頭部、首、手足に多数の銃創がある重態だと診断された。当初、首の傷は自殺未遂による銃創だと報道されたが、逮捕時に武器を所持していなかったことと、SWAT隊員による描写では切創らしいということから、爆発時の破片によるものである可能性がある。
なお、この容疑者捜索による屋内退避は、18時間近くに及んだ。

《葬儀》
タメルラン・ツァルナエフの遺体は、住民の反対運動などによりマサチューセッツ州内の墓地に埋葬することができなかった。イスラム教徒であり、火葬にすることもできなかったため海外への移送を行うことも難航。最終的にはバージニア州に居住する叔父が遺体を引き取ることとなり、地域からの反発を受けないよう同州内に搬送され速やかに墓地に埋葬されている。

《裁判》
ジョハルの初公判はボストンの連邦裁判所で2013年7月10日に開かれ、4件の殺人を含む30の罪状で起訴された。ジョハルはすべての罪状について無罪を主張した。2015年4月8日に連邦陪審は全罪状に有罪を認定し、同年6月25日に連邦地裁は死刑判決を言い渡した。
この際、ジョハルは「爆弾事件は自分が、兄とともに、行なったものである」とはっきり述べ、「自分が人を殺し、苦しみを引き起こしたことについて申し訳ないと思っている」と、法廷内にいた事件の被害者や遺族らに直接謝罪したが、死刑判決には控訴するものと見られている。

《チェチェン共和国への関心》
容疑者のツァルナエフ兄弟がチェチェン共和国系であることから、イスラーム過激派やアルカーイダの本事件への関与が一時疑われたが、FBIの捜査によればテロ組織との関連は見つからなかった。


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