「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない・・・。」 | hiroチャンのブログ

「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない・・・。」


1961年4月11日
イスラエルでユダヤ人虐殺の責任者で元親衛隊大佐、アドルフ・アイヒマンに対する「アイヒマン裁判」を開始。12月に死刑判決。

【アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann)】
1906年3月19日 - 1962年6月1日
ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。

戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。

1961年4月11日より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。


第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、捕虜収容所から脱出。1947年初頭からドイツ国内で逃亡生活を送り、1950年初頭には難民を装いイタリアに到着。反共産主義の立場から元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたフランシスコ会の修道士の助力を得る。
リカルド・クレメント(Ricardo Klement)名義で国際赤十字委員会から渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、1950年7月15日、当時親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていたアルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸した。その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。上記のアイヒマンの偽造渡航証は2007年5月にアルゼンチンの裁判所の資料庫から発見された。

1957年、西ドイツのユダヤ人検事フリッツ・バウアーは、イスラエル諜報特務庁(モサド)にアイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を提供した。

ブエノスアイレスに工作員が派遣されたが、アイヒマンの消息をつかむことは容易ではなかった。しかし、アイヒマンの息子がユダヤ人女性と交際しており、彼女に度々父親の素性について話していたことから、モサドは息子の行動確認をしてアイヒマンの足取りをつかもうとした。

2年に渡る入念な作業のすえ、モサドはついにリカルド・クレメントを見つけ出した。
モサドのイサル・ハルエル長官はラフィ・エイタン率いる作業班を結成させ、エイタンらと共に長官自らブエノスアイレスへ飛んだ。作業班はリカルド・クレメントに「E」とコードネームを付け行動確認した。クレメントも慎重に行動していたが、最終的に作業班が彼をアイヒマンであると断定したのは、アイヒマンの結婚記念日に、クレメントが花屋で妻へ贈る花束を買ったことであった。1960年5月11日、クレメントがバス停から自宅へ帰る道中、路肩に止めた窓のないバンから数人の男がいきなり飛び出し、彼を車の中に引きずりこんだ。車中で男たちはナチスの帽子を出して彼にかぶせ、写真と見比べて「お前はアイヒマンだな?」と言った。彼は当初否定したが、少し経つとあっさり認めたという。

その後アイヒマンは、ブエノスアイレス市内のモサドのセーフハウスに置かれた後に、アルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空のブリストル ブリタニアで、5月21日にイスラエルへ連れ去られた。

出国の際に彼は、酒をしみこませたエル・アル航空の客室乗務員の制服を着させられた上に薬で寝かされ、「酒に酔って寝込んだデッドヘッドの客室乗務員」としてアルゼンチンの税関職員の目を誤魔化したという。
さらに同機は当初ブラジルのサンパウロ市郊外にあるヴィラコッポス国際空港を経由して同空港で給油する予定だったにもかかわらず、空港への到着前に同機にアイヒマンが搭乗していることが知られた場合、元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者を含むドイツ系移民が多く、ドイツ系移民が一定の影響力を持つブラジル政府により離陸が差し止められる危険性があることから、ヴィラコッポス国際空港での給油を行わずにセネガルのダカールまで無給油飛行を行うなど、移送には細心の注意が図られた。

イスラエル政府は暫くの間、サイモン・ヴィーゼンタールをはじめとする「ユダヤ人の民間人有志によって身柄を拘束された」として政府の関与を否定した。しかしながら最終的にその主張は覆された。
ダヴィド・ベン=グリオン首相は1960年5月25日にクネセトでアイヒマンの身柄確保を発表し世界的なニュースとなった。

獄中のアイヒマンは神経質で、部屋や便所をまめに掃除したりするなど至って普通の生活を送っていた。
この逮捕および強制的な出国については、イスラエル政府がアルゼンチン政府に対して犯人逮捕および正式な犯罪人引き渡し手続きを行ったものではなかったため、後にアルゼンチンはイスラエルに対して主権侵害だとして抗議している。

アイヒマンの裁判は1961年4月11日にイスラエルのエルサレムで始まった。「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。275時間にわたって予備尋問を行われた。裁判の中でヒトラーの『我が闘争』は読んだことはないと述べている。
証言にしばしば伴ったドイツ政府による残虐行為の記述はホロコーストの現実および、当時ドイツを率いていたナチスの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。一方で、自分の不利な証言を聞いている人物が小役人的な凡人であったことが、ふてぶてしい大悪人であると予想していた視聴者を戸惑わせた。裁判を通じてアイヒマンはドイツ政府によるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。

この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残した(ソ連の指導者で数十万から数百万人とも言われる政敵を粛清したことで知られるヨシフ・スターリンも同じような言葉を残したとされるが、実際にはこの言はスターリンではなく、ドイツの反戦作家のエーリヒ・マリア・レマルクの言葉だった事が近年証明された)。アイヒマンは死刑の判決を下されてもなお自らを無罪と抗議しておりその模様は記録映像にも残されている。

1961年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑の判決が下された。翌1962年6月1日未明にラムラ刑務所で絞首刑が行われた。

イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑である。遺体は焼却され遺灰は地中海に撒かれた。

処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われ、「ユダヤ教徒になる」と答えた。何故かとたずねると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と返答をした問答の逸話もある。と言われているが、彼にネガティブな戦犯としての印象を与える創作ではないかとの指摘もある。最期の言葉は「ドイツ万歳、オーストリア万歳、そしてアルゼンチン万歳」であったと伝えられている。


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