Move Over | hiroチャンのブログ

Move Over


【ジャニス・ジョプリン】
Janis Joplin


アメリカ合衆国テキサス州ポートアーサー出身の女性ロックシンガー。魂のこもった圧倒的な歌唱力と特徴のある歌声により、1960年代を代表する歌手として活躍。
"Move Over(邦題;ジャニスの祈り)"の収録されたアルバム「Pearl」、ジャニスはこのアルバムのレコーディング中の1970年10月4日、「ドラッグの過剰摂取」にて亡くなる(享年26歳)。その後、このアルバムを「遺作」として、アルバムタイトルはジャニスの愛称である"Pearl"と名付けられ、1971年1月にリリースされた。アルバムは全米で9週連続No1、シングル「ミー&ボビー・マギー」も全米No1になっている。
死してなおロックの歴史を代表する女性シンガーとして、今日に至るまで人気を博している。

出生名:ジャニス・リン・ジョプリン
Janis Lyn Joplin
生誕:1943年1月19日
出身地:アメリカ合衆国
テキサス州 ポートアーサー
死没:1970年10月4日(満27歳没)
アメリカ合衆国
カリフォルニア州 ロサンゼルス
ジャンル:サイケデリック・ロック、ブルースロック
職業:歌手
担当楽器:ボーカル、ギター
活動期間:1966年 - 1970年
レーベル:コロムビア・レコード
共同作業者:ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー
 


「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第28位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第46位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第17位。

父のセスはテキサコに勤める労働者で、両親と本人、マイケルとローラの2人の弟妹を含む5人家族であった。ジョプリンは、小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聴いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加していた。
1960年に、ポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、テキサス大学オースティン校に入学。高校では、他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聴かされたのを契機に、ブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになった。
大学をドロップアウトしたジョプリンは、1963年にサンフランシスコへと向かった。フォーク・シンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の常習が始まったとされる。覚醒剤やヘロインの他にアルコールも大量に摂取していた。彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・カンフォート」であった。
当時の女性シンガーについて当てはまることであるが、ジョプリンの外的なイメージと内面には大きな隔たりがある。後に彼女の妹、ローラが著わした手記『Love, Janis』には、彼女が知的でシャイ、繊細な家族思いの人物であったことが記されている。

一時静養のためにポート・アーサーへ帰郷したが、1966年には再びサンフランシスコへと戻っている。ヘイト・アシュベリーを中心としたヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女は、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに参加する。バンドは、独立系レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表したが、売れ行きは不調でレコードは早々に倉庫にしまい込まれた。
しかし、このバンドはモントレー・ポップ・フェスティバルにおける演奏で大きな注目を集めるようになった。ジョプリンは、ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール・アンド・チェイン」を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。D・A・ペネベイカー撮影のドキュメンタリー『モントレー・ポップ』では、群衆の中に紛れたキャス・エリオットが“Wow, that's really heavy”と呟く姿が撮影されている。1968年のアルバム『チープ・スリル』では以前に増して生々しい歌声を披露し、その評価を決定づけることになった。スタンダード・ナンバーをブルース風にカバーした「サマータイム」や、前述の「ボール・アンド・チェイン」等、迫力のある歌が多く収録されている。

ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成。ブラス・セクションを加えた、よりソウル・ミュージックを意識した編成。1969年に『コズミック・ブルースを歌う』をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、このバンドもすぐに解散した。その後、ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブーギー・バンドを結成する。こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏をもとに、ジョプリンの死後制作された1971年1月発表のアルバム『パール』は、彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからは、クリス・クリストファーソンのカバー曲「ミー・アンド・ボビー・マギー」がビルボードのチャート1位を記録。ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された「ベンツが欲しい」もヒットした。


彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは、1970年6月と8月に放映されたテレビ番組であった。6月の番組で、彼女は高校の同窓会に出席する予定だと述べた。同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者だったとも語っている。一躍スターとなり彼女は同窓会に出席したが、その際も疎外感の中、孤独な表情がカメラにおさめられている。この一件は、ジャニスの孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られている。
1970年6月29日から7月3日、「フェスティバル特急」と呼ばれた列車に乗って、カナダ・ツアーを行った。ザ・バンドやグレイトフル・デッド、バディ・ガイ等が同乗した豪華なツアーで、この模様は、後に映画『フェスティバル・エクスプレス』として公開された。

1970年10月4日、アルバム『パール』の録音のため滞在していたロサンゼルス、ハリウッドのランドマーク・モーター・ホテル、105号室、ベッド横の床に倒れ死亡しているのが発見された。そのかたわらには4ドル50セントと、封の切られていないマールボロ (たばこ)が一箱残されていた。
発見者はフル・ティルト・ブーギー・バンドのロードマネージャー、ジョン・クックであった。
27歳没。使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされる。
録音中だったアルバムの収録曲のうち、「ベンツが欲しい」はアカペラの仮録音、そして「生きながらブルースに葬られ」は本人の歌が録音出来ないまま演奏だけが収録されている。遺体は火葬され、その遺灰は事件9日後の10月13日カリフォルニア州、マリン郡スティンソン海岸沖の上空から太平洋へと散骨された。

《ディスコグラフィ》
ファースト・レコーディング - Big Brother and the Holding Company (1967年)

チープ・スリル - Cheap Thrills (1968年)

コズミック・ブルースを歌う - I Got Dem Ol' Kozmic Blues Again Mama! - The Doors (1969年)

パール - Pearl (1971年)

白鳥の歌 - Farewell song (1982年の編集盤)

《映画》
ローズ - ジョプリンをモデルとした1979年の映画。ベット・ミドラー主演。

歌え! ジャニス★ジョプリンのように - 2003年のフランス映画。

ジャニス:リトル・ガール・ブルー - 2015年のアメリカ映画。

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