The Operation Babylon | hiroチャンのブログ

The Operation Babylon


1981年6月7日
イラク原子炉爆撃事件発生。イスラエル空軍がイラク・タムーズのオシラク原子力施設を奇襲攻撃、原子炉を破壊する。


【イラク原子炉爆撃事件】

バビロン作戦
The Operation Babylon

戦争:イスラエル・アラブ戦争
年月日:1981年6月7日
場所:イラク、タムーズ
結果:オシラク原子炉を破壊
交戦勢力:イスラエルとイラク
戦力:イスラエルF-16戦闘機8機・F-15戦闘機6機出撃、イラク出撃なし
損害:イスラエル側なし、イラク側は原子炉全壊にイラク軍兵士10名、フランス人技術者1名死亡

イラク原子炉爆撃事件は、イスラエル空軍機がイラクのタムーズにあった原子力施設を、バビロン作戦(別名オペラ作戦)の作戦名で1981年6月7日に攻撃した武力行使事件である。
これはイラクが核兵器を持つ危険性があるとして、イスラエルが「先制的自衛」目的を理由にイラクに先制攻撃を行ったものである。

この攻撃に対して国際連合安全保障理事会決議487がなされ、イスラエルは非難された。

産油国でありエネルギー資源に不安があるはずもないイラクが原子力開発を行った理由として、イラクは将来の石油資源枯渇を見据えて開発したとしていたが、実際にはイスラエルへの対抗目的で、イラクのフセイン政権は核武装を狙っているという疑いがあった。
このイスラエルが核兵器を保有していると言う情報をPLOがパレスチナ系アメリカ人の書いた『イスラエルの核爆弾』と言う書籍によりイラク政府に売り込んだ事が、当時のフセイン大統領に核兵器開発を行うきっかけを与えた。

1960年代始めに、ソビエトから5Mwクラスの原子炉を導入したが、この原子炉にはフセイン大統領が必要としていた兵器グレードのプルトニウムを製造する能力は無かった上、不要な機材を含めたトン当たり幾ら方式の金額算定や、専門知識をもたず作業も行わない窓際族的な人員も含めた給料の請求、原子炉の運用に必要なメンテナンスは行わないといった技術を持たない衛星国相手の不誠実な取引を行った。この時期の具体的な成果の有ったイラク原子力エネルギー機構の仕事と言える物は、フセインの食事に使用される食材の毒味であった。
イラクは1970年代から核技術の研究を独自に行なっていたが、原子炉を建設するほどの工業力がなかったため、フランスから核燃料と技術者の提供を受け7万キロワットの原子力発電所を建設していた。
この原子炉(オシリス級原子炉、フランスはオシリスとイラクを合成した「オシラク」の名で呼び、イラクはバアス党が政権を奪取した月の名である「タムーズ1」と呼んだ)は1982年7月に稼動予定であったが、この原子炉を軍事転用して核兵器に必要となる濃縮ウランを生産することも可能であった。そのためイスラエルはイラクが核開発することに非常に強い危機感を持っていた。

当初、イスラエルは外交手段によって事態を収拾しようとし、フランス政府に技術供与を取りやめるように要請するが、 当時のフランス・ジスカール・デスタン大統領は平和利用のためだとして断った。
そのため、イスラエル諜報特務庁(モサッド)と国防軍の情報機関であるイスラエル参謀本部諜報局(アマーン)を使い、以下のような阻止工作をしたといわれている。
1979年4月、フランスのラ・セーヌ・シュルメール港の倉庫に格納されていたイラク向け原子炉格納容器が爆破された(犯行声明はフランスの過激派名義だった)。つぎに1980年6月には、イラクの核開発の責任者がフランスのホテルで撲殺され、8月には原子炉開発の契約企業のローマ事務所と重役の私邸が爆破され(イスラム革命保障委員会から犯行声明があった)、イラクの核開発に関係するフランスとイタリアの科学者宛にイラク差出の脅迫状が送付された。しかし、それらの妨害活動にくじけることなく原子力発電所の完成が近づいたため、イスラエルはあえて国際法に抵触する危険性がある武力攻撃を決意した。

作戦上の最大の障害として、当時イスラエル空軍の主力戦闘攻撃機であったF-4では必要な航続距離が得られないという問題があった。しかし折しも、アメリカからイラン革命によりキャンセルされた最新鋭のF-16戦闘機を購入する事となり、作戦実行が可能となった。

《バビロン作戦》
1981年6月7日午後4時、2000ポンド(908kg)のMk-84爆弾を2発ずつ搭載したイスラエル空軍第110飛行隊、第117飛行隊所属のF-16戦闘機8機が、護衛の第133飛行隊所属のF-15戦闘機6機を伴ってシナイ半島東部にあるエツィオン空軍基地から飛び立った。戦闘機部隊はヨルダン及びサウジアラビアを領空侵犯したうえでイラク領内に侵入した。この飛行ルートは事前に対空砲とレーダーの位置をモサッドの諜報員によって調べられたイラク防空網の死角であった。そして午後5時30分前に原子炉付近に到達し、イスラエル空軍機は16発の爆弾を投下して原子炉を完全に破壊した。
この際投下した爆弾16発のうち、14発が原子炉を直撃した。うち1発は原子炉を直撃するものの不発(時限信管が作動しなかった模様)、また別の1発は隣接施設内に落下し爆発した。 この攻撃に使用された爆弾は、一切の誘導装置を備えない自由落下型であった。この攻撃により原子炉を警備していたイラク軍兵士10名とフランス人技術者1名が犠牲になった。
戦闘機部隊は危惧されていたイラク空軍機の迎撃にあうことなく、往路と同じルートで全機が帰投した。
イラクは当初どこから攻撃を受けたか分からず、交戦中のイランからの攻撃も疑ったが、翌日イスラエル政府が空爆を認めたうえで、イスラエルの国民の安全確保のためにイラクが核武装する以前に先制攻撃したものであり、また原子炉稼動後に攻撃したのでは「死の灰」を広い範囲に降らせる危険があったため実行したと言明した。

この作戦は、イスラエルがイラクへの安保理武力制裁決議を経ないで行ったために、欧州を中心にイスラエルへの非難が沸き起こった。

イスラエルはこの攻撃を中東地域の核拡散を防ぐものとして正当化していたが、1986年には同国の元核技術者モルデハイ・ヴァヌヌにより、当のイスラエル自身が1960年代よりフランスの協力により核開発を行い、既に多くの核兵器を保有していた事が暴露された。

湾岸戦争では米空軍によるスカッド狩りも、ミサイル防衛システムによる迎撃も失敗してエルサレムはイラクの短距離弾道弾スカッドを被弾した。しかし、イスラエルはオシラク核施設を空爆してイラクの原爆生産を阻止してあったので、イラクの武器庫には核弾頭がなく、エルサレムは通常弾頭スカッドを被弾しただけだった。そのためエルサレムの被害は小規模で済んだ。

この事件を題材にして作られたフィクションのスパイ小説としてはイギリスのA・J・クィネル による『スナップ・ショット』 (Snap Shot)が1982年に出版された。

新鋭機F-16のパイロットの一人には、経験豊富なパイロットであったイラン・ラモーンがいた。のちに彼はイスラエル初の宇宙飛行士として2003年1月にスペースシャトル・コロンビアに乗り組むが、コロンビア号空中分解事故で落命した。

オシラク原子炉はその後も爆撃当時のままの姿で残っていたが、湾岸戦争でアメリカ空軍の攻撃を受け完全破壊された。

この爆撃作戦はイスラエル国内では政権党のリクードにプラスの方向で作用し、3週間後の選挙でメナヘム・ベギン率いるリクードは大勝した。



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