悲劇は繰り返される | hiroチャンのブログ

悲劇は繰り返される

【ロバート・ケネディ暗殺事件】
場所:アンバサダーホテル(アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス)
日付:1968年6月5日
午前0時15分(太平洋標準時)
標的:ロバート・ケネディ
武器:アイバージョンソン22口径
死亡者:1
負傷者:5
犯人:サーハン・ベシャラ・サーハン

ロバート・ケネディ暗殺事件とは、アメリカ合衆国上院議員であり、暗殺されたアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの弟であるロバート・ケネディが、大統領選挙のキャンペーン期間中であった、1968年6月5日の夜にカリフォルニア州ロサンゼルスで銃撃された事件。ケネディは、カリフォルニアおよびサウス・ダコタのアメリカ合衆国大統領予備選挙を勝ち抜いたあと、アンバサダーホテルの調理場を通過途中に銃撃を受け、26時間後に病院で死亡した。
犯行を行った24歳のパレスチナ移民サーハン・ベシャラ・サーハンは終身刑を言い渡され、2013年の時点でも刑務所に服役中である。勝利演説の直後に起きた事件であったため、その場にいた記者によって銃撃直後の様子が録音されており、映像もテレビカメラに収められている。
また、銃声がフリーランスの新聞記者によって録音されていたことが2004年に明らかになった。
ケネディの遺体は、告別式が行われた6月8日まで2日間、ニューヨークのセント・パトリック大聖堂に安置され、のべ10万人以上もの人間から弔問を受けた。ケネディの遺体はアーリントン国立墓地の兄ジョンが眠るそばに埋葬された。ケネディが暗殺されたことを契機に、シークレットサービスは大統領候補も警護するよう変更された。

兄ジョンの死同様、ロバートの死についても陰謀論を含むさまざまな議論が巻き起こった。アメリカ合衆国上院議員として暗殺された人物は、2014年の時点でケネディの他にはヒューイ・ロングだけである。

ケネディは1948年、22歳の時にボストン・ポストの特派員としてイギリス委任統治領パレスチナを訪れており、地域に住むユダヤ人に共感を抱くようになった。上院議員になると彼はイスラエルの強力な支持者となっていった。
ケネディは1961年1月からアメリカ合衆国司法長官を務めていたが、アメリカ合衆国上院議員選に出馬するため1964年9月3日に辞任し、11月の選挙を勝ち抜き1965年1月3日にニューヨーク州選出議員としてオフィスを構えた。
現職の大統領リンドン・ジョンソンは1968年の大統領選挙で民主党からの候補者指名をもくろんでいた。1968年3月12日、対立候補であるユージーン・マッカーシーがニューハンプシャー州の予備選で、ジョンソンの49%に対し大きく迫る42%を得票した。ニューハンプシャー州はジョンソンが圧倒的に有利と見られており、この結果は「マッカーシーの大勝利」とも報じられた。その4日後、ジョンソンでは選挙に勝てないと踏んだケネディは同じ民主党員でありながらも大統領選出馬を表明する。3月31日、これを受けてジョンソンは再指名を諦め、選挙からの離脱を表明した。
副大統領のヒューバート・H・ハンフリー(民主党)は立候補の表明を遅らせたが、最終的にハンフリーは4月27日に出馬を表明する。事件直前のカリフォルニア州予備選が終わった段階では、ハンフリーが561票、ケネディが393票を獲得し、ケネディは後塵を拝していた。

1968年のカリフォルニア州予備選挙は6月4日火曜日に実施された。先に同日実施されたサウスダコタ州予備選でのケネディ勝利が伝えられ、カリフォルニアでのケネディの勝利は11時過ぎになってから明らかとなった。投票終了から4時間後、6月5日の深夜0時10分ごろ(太平洋標準時)、ロサンゼルスのミッドウィルシャーにあるアンバサダーホテルのエンバシー・ルームで、ケネディは支持者に向けて勝利演説を行った。当時の政府は現職大統領にはシークレットサービスによる警護を行っていたが、候補者への警護は行っていなかった。ケネディの周りにはFBIの元エージェント、ウィリアム・バリーと2人のボディーガードだけであった。
ケネディはスピーチを終えると次の場所に向かおうとしたが、バリーとダットンは調理室に通じるスイングドアから広い通路に出るよう指示し、ケネディはホテル支配人のカール・オイカーについていった。
オイカーはケネディの右手首を掴みながら配膳室へ先導したが、スチームテーブルや製氷機が並ぶ狭い通路に差し掛かったケネディが皿洗いのジュアン・ロメロと握手するため左に向きを変えたその時、サーハンは突進してオイカーをかわすとアイバージョンソン製の22口径回転式拳銃をケネディに連射した。
銃声と硝煙が立ち昇るのを見て、周りにいた人間がサーハンから拳銃を取り上げようと組み付いた。取っ組み合いの最中にもサーハンは発砲を繰り返し、ケネディ以外にも5名が負傷した。
バリーはケネディの下に駆け寄り、自分の上着をケネディの頭の下に置いた。
ジュアン・ロメロはケネディの頭の裏から手を差し伸べ、頭にロザリオを乗せた。ケネディがロメロに「みんな大丈夫か?」と聞くと、ロメロも「はい、全て問題ありません。」と答えた。ライフとロサンゼルス・タイムズのカメラマンはこの瞬間を撮影し、暗殺事件の象徴的な写真となっている。
ケネディの妻、エセルは人だかりの外に立ち、助けを求めていた。彼女は夫の元に連れて来られひざまずいた。ケネディは妻を見ようと頭の向きを変えた。数分後、救急隊員が到着しケネディをストレッチャーに乗せると、ケネディは「持ち上げないでくれ」とささやいた。これが彼の最後の言葉だった。ケネディは意識を失い、セントラル・レシービング・ホスピタルに運び込まれたときは死亡と診断されてもおかしくない状態だった。医師の一人が彼の顔を叩きながら「ボブ、ボブ!」と声をかけ、もう一人の医師が心臓マッサージを行った。ケネディの鼓動が回復すると、医師は夫の鼓動を聞いて少しでも心を鎮めるよう、聴診器をエセルに手渡した。
およそ30分後、ケネディは数ブロック先のグッド・サマリタン・ホスピタルに手術のため運び込まれた。手術は午前3時12分に開始され、手術時間はは3時間40分にわたった。それから10時間半経った午後5時30分、報道官のフランク・マンキーウィッツは医師の説明として「回復の見込みが少なく、極めて危険な状態」と伝えた。
ケネディは3発撃たれており、1発は数センチの至近距離から撃たれ、弾丸が右耳後方から入り、炸裂した弾頭は脳内で砕け小さな破片となっていた。他の2発は右腋下の裏から入り、1発は腰で留まり、もう1発は首の裏で止まっていた。脳から弾丸の破片を取り除く大がかりな手術が行われたが、ケネディは6月6日午前1時44分、事件発生からおよそ26時間後に死亡した。
6月6日午前2時、マンキーウィッツは公式発表を伝えた。
“ ロバート・フランシス・ケネディ上院議員は1968年6月6日、本日午前1時44分に亡くなりました。その最後は妻のエセル夫人、姉のステファン・スミス夫人、パトリック・ローフォード夫人、義理の兄であるステファン・スミス氏、義理の姉、ジョン・F・ケネディ夫人に看取られました。42歳でした。 ”

サーハン・サーハン
エルサレム生まれのヨルダン国籍を持つ、アラブ人キリスト教徒、サーハン・サーハンはシオニストに強い憎悪を抱いていた。家宅捜索の結果、見つかった日記の5月19日には、「RFKを殺害する決意が日増しにゆるぎないものとなっていく。RFKは死ぬべきだ。RFKは殺されるべきだ。ロバート・F・ケネディは暗殺されるべきだ・・・。ロバート・F・ケネディは68年6月5日までに暗殺されるべきだ。」と記されていた。暗殺の日付は、イスラエルと近隣アラブ諸国との間で第三次中東戦争が始まった日であり大きな意味を持ったと思われる。

サーハンは1969年4月17日に有罪判決を受け、その6日後に死刑を宣告された。
1972年のアンダーソン事件においてカリフォルニア州最高裁判所は、死刑が残虐または異常な刑罰で違憲であるという判決を下し、これによってカリフォルニア州において1972年以前の未執行の死刑宣告は無効とされ、サーハンは終身刑となった。2011年までにサーハンは仮釈放を14回申請したがいずれも認められず、2013年の時点ではサンディエゴ郡のリチャード・J・ドノバン刑務所に収監されている。
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