暴走する狂気 | hiroチャンのブログ

暴走する狂気


【仙台アーケード街トラック暴走事件】
2005年(平成17年)4月2日に仙台市青葉区の商店街「中央通り(アーケード街)」にトラックが侵入、暴走し、歩行者7人が死傷した無差別殺人事件。

2005年(平成17年)4月2日午前9時05分、歩行者専用となっている仙台市青葉区の商店街「クリスロード」と「ハピナ名掛丁」に、レンタカーのいすゞ・フォワードトラックが侵入し、時速40~50キロの速度で暴走した。
目撃証言によると、トラックは歩行者を追いかけるように蛇行運転しており、付近の歩行者7名を次々とはね、約550メートル進んだところで、別のトラックに衝突し停止した。被害者のうち3名が死亡、4名が負傷した。 運転者である在日韓国人Aは焼身自殺しようと、着用していた服に灯油を掛け発炎筒で点火し燃え上がらせ、服を車のダッシュボードに放置したのち近くの仙台駅前交番に出頭し、業務上過失致死傷及び道路交通法違反(救護義務違反、報告義務違反)容疑で緊急逮捕された。

Aは、逮捕後の取り調べで「死にたいと思い故郷の仙台に来た、自殺を図ったが、死に切れなかった」「天の声が聞こえた」「信号無視をし、最初にはねた2名を避けようとして、アーケード街に入ってしまった」などと供述した。 現場検証では、最初に歩行者と衝突した現場からはブレーキ痕が発見されているが、アーケード街内部にはブレーキ痕がみられなかった。
このため仙台地検は、アーケード街内部ではねられた4名の事件について、殺人・殺人未遂で、入り口付近の3名分については業務上過失致死傷で起訴した。道路交通法違反(ひき逃げ)、建造物等以外放火でも起訴した。 検察側は無期懲役を求刑、被告側は心神喪失を主張し無罪を求めた。 一審の仙台地裁では被告の責任能力を認めたが、未必の故意と長年にわたって幻聴に悩まされ統合失調症だった可能性とそれゆえに離婚や転職を繰り返していたという情状を酌み、2007年(平成19年)3月15日に懲役28年の有罪判決が言い渡された。
双方、量刑不当を理由に控訴。 2007年(平成19年)11月20日の控訴審初公判で検察側は残虐性と身勝手さを主張し、再び無期懲役を求刑した。被告側は統合失調症により正常な判断が出来ず心神喪失か耗弱状態であったとして減刑を主張した。 2008年(平成20年)3月7日の判決公判で一審の未必の故意については確定的殺意があったと認定、統合失調症だった可能性はあるが正常な判断は出来たはずとして一審判決を支持、被告側の主張する事件当時の状態の主張を退けた。そして現地住民、地域社会に与えた影響は大きいとして一審判決を破棄し無期懲役判決を言い渡した。
被告は上告せずに刑が確定した。

遺族がレンタカー会社に対して賠償訴訟を起し、仙台地裁は6400万円を支払うよう判決を下した。こういった意図的な犯罪事案に関わった場合は、一切の補償制度を適用しないという一文を契約約款に加えたレンタカー事業者が増えたものの、秋葉原通り魔事件は発生した。

模倣犯:2005年(平成17年)12月25日午後6時50分、乗用車が仙台市道南光院丁線からマーブルロードおおまち(アーケード街)に侵入し暴走、7名が重軽傷を負い、運転していたBが業務上過失傷害と道交法違反(ひき逃げ)の容疑で逮捕されている。
商店街では、4月の暴走事件後に、自動車が侵入可能な交差点にプランターを置くなどの対策を行っていたが、このプランターのすき間から侵入しての犯行であった。
Bは傷害容疑で送検、起訴された。第一審では、被告の責任能力が認められ、2006年(平成18年)3月19日、懲役3年の実刑判決が言い渡された。

なお、2008年(平成20年)6月に起きた秋葉原通り魔事件の容疑者は当時仙台在住で事件現場のアーケード街に近い場所に住んでおり、通り魔事件の取調べでトラックで人を撥ねることについてこの事件を参考にしたと供述している。


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【ガリッサ大学襲撃事件】
場所:ケニア ガリッサ
日付:2015年4月2日
標的:非イスラム教徒の学生
攻撃手段:人質、銃の乱射
武器:AK-47と自爆ベスト
死亡者:152人(4人の襲撃犯を含む)
負傷者:79人

ガリッサ大学襲撃事件とは、2015年4月2日、銃で武装したグループがケニア・ガリッサのガリッサ大学に押し入り、148人を殺害、79人以上を負傷させた事件。
襲撃は、犯人らの主張によればアルカーイダ分派の武装グループアルシャバブによって行われた。襲撃犯は700人以上の学生を人質に取り、イスラム教徒を解放する一方キリスト教徒とみなした者を殺害した。襲撃は、4人の襲撃犯が殺害されたことでその日のうちに終結した。
後に五人の男が襲撃に関連して逮捕され、首謀者とみなされた者の逮捕に賞金がかけられた。
襲撃はケニアにおいてアメリカ大使館爆破事件以来最も被害の大きいものであり2002年のモンバサ襲撃事件、2013年のケニアショッピングモール襲撃事件、2014年のナイロビバス爆破事件、ギコマ爆破事件、ムペケトニ襲撃事件、ラム襲撃事件を凌いで史上2番目に悲惨な事件となった。

ソマリア国境から約200キロ離れた北東州の都市ガリッサは、軍の駐屯地と警察本部が所在し、当時「周辺地域で最も安全な場所のひとつ」と考えられていた。
アルカイダに関与しソマリアに拠点を持つ多民族武装組織アルシャバブは、ケニアショッピングモール襲撃事件などの攻撃により、今回の事件に先立ちケニア国内で200人以上を殺害している。これらの攻撃は、アルシャバブの結成以前に起こったモンバサ襲撃事件も観光客を狙ったものだったにもかかわらず、ケニアの観光産業に多大な影響をもたらした以前には、武装組織の攻撃の多くは大都市の人口集中地の外で行われていた。
ケニアの保安組織の治安戦略は外交官やアナリストから「高圧的であり、ソマリア系住民を無差別に大量拘束している」と批判されていた。またこのような十把一絡げな戦略は、イスラム教徒の怒りを買い、その状況をアルシャバブに利用されるだけだとも警告されていた。
事件に先立ち、「主要な大学に対する危険についての目立つ危険信号」があったと伝えられている。
近くの大学に通うグレース・カイは「ガリッサの町でテロリストと思われる不審者が発見された」こと、また「月曜日(2015年3月30日)に大学の学長が(中略)大学で不審者が目撃されたと言っていた」ことを証言している。火曜日、大学は閉校となり学生は家に帰されたが、大学はまだ開いており攻撃の対象となった。
襲撃の前日、ケニア大統領ウフル・ケニヤッタはイギリスとオーストラリアがケニアでの治安上の危険に対して渡航危険情報を更新したことを厳しく批判し、彼らが未だ植民地主義を保っていると糾弾した。

襲撃は現地時間の午前5時30分ごろ開始された。エントランスで2人の非武装警備員が殺害された。20人の生徒が兵士によって救助され、このうちのコリンズ・ウェタングラが少なくとも5人の覆面をし銃を持った男がいること、キリスト教徒が「その場で銃殺」されたと述べた。他の生存者は犯人らが生徒たちを寮の寝室を出て、グラウンドでうつぶせになるよう命じた上で処刑したことを伝えた。

ケニア自衛軍とその他の治安部隊が配置された。彼らは犯人の逃亡を阻止すべく大学を包囲、封鎖した。内務省とケニア自然災害対策センターは4つの寮のうち3つの避難を成功させたと伝えた。逃げ出してきた別の生徒ミシェル・ブワナは犯人らが隠れていると思われる残りの学生寮について、まだ中にいる者の多くが若い女性であると述べた。
夕暮れの直後に4人の犯人が殺害されたことで、占拠は約15時間後に終結した。
覆面をした襲撃犯たちはAK-47で武装し、体に爆発物を巻きつけていた。テロリストのうち4人はGSUのRecceコマンドー隊によって射殺された。残り1人のテロリストは自爆用ベストを起爆させるのに成功し、周囲の何人かのコマンドーを負傷させた。
148人の死者のうち、142人が学生、3人が兵士、3人は警官だった。約587人の学生が脱出し、79人が負傷した。当局によれば行方不明の学生はいない。


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