Christopher Scott "Chris" Kyle -1- | hiroチャンのブログ

Christopher Scott "Chris" Kyle -1-


【クリス・カイル】

Chris Kyle
アメリカ合衆国の元軍人。狙撃手。
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本名:クリストファー・スコット・"クリス"・カイル
Christopher Scott "Chris" Kyle
渾名:ラマーディーの悪魔
伝説の狙撃手
生誕:1974年4月8日
アメリカ合衆国、テキサス州オデッサ
死没:2013年2月2日(38歳没)
アメリカ合衆国、テキサス州グレンローズ
所属組織:アメリカ海軍
Navy SEALs
SEAL Team 3
軍歴:1999年 ・ 2009年
最終階級:上等兵曹
除隊後:民間軍事会社
墓所:テキサス州立墓地

「ラマーディーの戦い」における目覚しい戦果によりイラク武装勢力から「ラマーディーの悪魔(シャイターン・アル・ラマーディー)」という異名で恐れられた。アメリカ側では「伝説の狙撃手」と呼ばれている。2014年に公開された映画『アメリカン・スナイパー』(原作は著書『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』)のモデルである。

《生い立ち》
1974年4月8日、アメリカ合衆国テキサス州オデッサに、教会の執事であったウェイン・ケネス・カイル(Wayne Kenneth Kyle)の長男として生まれる 。父は聖職者だったが狩猟には肯定的で、息子であるクリスにも幼い時から銃を扱わせている。8歳の時に初めての銃として.30-0 6スプリングフィールド弾を使用するボルトアクションライフルをプレゼントされ、もう少し成長してからはショットガンも買い与えられた。父とよく銃を持って狩猟に出かけ、また弟と共に牧場で牛を育てるなど牧歌的な日々を過ごしていた。
将来希望していた職業はカウボーイか軍人であったという。テキサス州ミッドロジアンの高校を卒業すると、ブロンコ・ロデオのプロ競技者として生計を立て始めたが、腕を痛めた事を契機に断念せざるを得なくなった。腕の怪我が回復した後、次の道を模索する中で思い当たったのが軍人というもう一つの夢だった。

《軍への入隊》
1996年、軍への入隊を決意したカイルは在籍していた大学を中退し、軍の募集事務所に出向いてアメリカ海兵隊に志願しようとしたが、担当官が不在だったため代わりにアメリカ陸軍の担当官と話した。しかし、希望していた特殊部隊(SF)には軍曹以上の階級でないと入隊できないことを知ったカイルは落胆した。担当官にはレンジャーを勧められたものの志願する気にはならなかった。その時にアメリカ海軍の担当官にNavy SEALsなら選抜試験さえ突破すれば入隊できることを教えられ、海軍への入隊を決心することになった。かつての怪我の治療で腕にピンが入っていることが分かると、1度は入隊を断られたが、諦めずに志願して1999年に海軍に入隊を認められた。
1999年、腕に残った障害を乗り越えて24週間に亘るシールズ水中破壊工作基礎訓練課程(BUD/S)への推薦を勝ち取り、突破した。訓練終了後、Navy SEALsのチーム3に配属された。

《ラマーディーの悪魔》
2003年にイラク戦争が始まると、2009年に除隊するまで4回に渡りイラクへ派遣され、ナシリヤ、ファルージャ、ラマーディー、サドルシティとイラク戦争の中でも激戦地を転戦。イラク軍およびアルカーイダ系武装勢力の戦闘員を160人(公式戦果のみ、非公式255人)を殺害した。その間に多数の叙勲を得て、味方からは「史上最高の狙撃手」、敵側からは「悪魔」と評され懸賞金が懸けられた。狙撃手となったのは1回目の配備後のスナイパースクールを経てからであった。
最初に狙撃した相手は、イラク戦争中に海兵隊の前進経路上に手榴弾を仕掛けていた女性(子供をつれた母親)であり、彼によるとそれが最初で最後の女性の標的であった。
著作のなかでは子供がどうなったのか一切書かれていないが、これについては映画化に際してクリント・イーストウッドが本人に会って話をした時に子供も同時に殺害していたことを告白している。これは映画のなかでも重要なシーンとして登場する。
激戦となったファルージャの戦いにおいては、地上を掃討する海兵隊を建物の屋上から狙撃で援護するという「退屈な」任務に就いたが、特殊部隊と比べてあまりに稚拙なテクニックで屋内に突入し、そのたびに武装勢力の反撃を受けて死傷していく海兵隊員たちの姿を見ているうちに我慢できなくなり、命令を無視して地上で海兵隊と共に掃討作戦に参加するようになった。共に戦うだけでなく休憩時間にもテクニックを教え込んだり練習をさせたりしたが、若い海兵隊員たちは皆文句を言わずに教えに従ってくれたという。

ある時、撃たれた海兵隊員を助けようとして抱きかかえたものの、敵の銃火の中で身動きが取れなくなってしまい、まだ10代の海兵隊員が「母さんに僕が苦しんで死んだと言わないで」と言い残して絶命してしまった。励ましの言葉を言おうとした瞬間だったという。後に仮想現実で戦闘を追体験することがPTSDの治療に役立つかどうかの実験を受けた際に、若い海兵隊員が戦死するシーンがあり動揺したことが著作の中で語られている。更にこの仮想現実での戦闘体験では戦闘時は血圧と心拍数が下がり、戦闘が終了すると心拍数が上がるという奇妙な反応を見せた。
アメリカに帰還して妻のタヤを連れて自分の車のオイル交換に行ったときに、客の一人がカイルを見つけて「ファルージャの時に助けてくれた恩人だ」と父親と共にお礼を言ってきたこともあった。
ラマーディーの戦いでも、目の前で親友のライアンが武装勢力の攻撃を受け両目を失明したり、マーク・リーが戦死するなどの壮絶な体験をしたためか自分が殺傷した相手を「悪人」と呼び、撃ったことに一切罪悪感は無いとしている。また、もっと敵を倒せればもっとたくさんの味方の命が救えたと書いている。
同じシールズ隊員のマイケル・モンスーアが投げ込まれた手榴弾に覆いかぶさり仲間を守って戦死した際には、葬儀の手配や遺体が帰国した際の出迎えをしている。著作の中ではシールズの伝統で新人隊員だったマイケルを坊主頭にしたときの話が書かれている。なお、マイケル・モンスーアは後に名誉勲章を受勲し、ズムウォルト級ミサイル駆逐艦の2番艦には彼の名前が付けられている。
4度に渡る戦地派遣は心身を蝕み、除隊する頃には体のあちこちの故障や原因不明の高血圧、飛蚊症等に悩まされるようになっていた。

《除隊後》
除隊後は、軍や法執行機関の隊員に軍事訓練を行う民間軍事会社「クラフト・インターナショナル社」を立ち上げた。また、講演、執筆活動を行い、戦闘体験を綴った回想録『ネイビー・シールズ最強の狙撃手(原題:American Sniper)』は、後にベストセラーになった。
一方、こうして得た資金の一部を元に、PTSDに悩む帰還兵や退役兵のためのNPO団体「FITCO Cares Foundation」を設立。社会復帰に向けた支援活動に取り組んでいた。著作の中でも帰還兵の多くがPTSDなどにより社会復帰できずにいることと、社会がそのことに無関心でいることに対して嘆いており、余暇のほとんどをそうした慈善事業に当てていた。
両目を失明して除隊した親友のライアンとは交友を続けていたが、ある日ライアンに「星条旗の見える所に連れて行ってくれ」と頼まれたカイルは、「ゴミ箱の前に連れて行かれても分からんぞ」とからかいながら車椅子を押して星条旗の見える場所に連れていった。するとライアンは目が見えないにもかかわらず半時間もずっと星条旗の方を眺めていたという。それからしばらくしてカイルはライアンが病状の悪化で死んだという知らせを聞くこととなった。ライアンの娘が生まれる直前の出来事であった。
なお、イラクで戦死したマーク・リーのバディであったロブ・グッゾも2013年にPTSDで自殺している。

《死去》
2013年2月2日、PTSDを患う元海兵隊員エディー・レイ・ルースの母親からの依頼で、同じく退役軍人のチャド・リトルフィールドと共にテキサス州の射撃場でルースに射撃訓練を行わせていたところ、ルースが突然カイルとリトルフィールドに向け発砲、両名は撃たれたことで死亡した。ルースは現場から逃走したものの保安官によって逮捕された。

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