※この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 | hiroチャンのブログ

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【足立区首なし女性焼殺事件】
1996年1月に発覚した殺人事件。過去に殺人事件で起訴されて無罪を勝ち取った男が殺人事件を犯した事件として注目された。
《概要》
1996年1月9日、足立区の駐車場で布団に包まれた女性の首なし焼死体が発見された。女性死体は陰部が切り取られていた。警察は被害者が41歳女性であり、当時同居していたのがOだったことをつきとめた。Oは1968年から1974年に発生した首都圏女性連続殺人事件で犯人視され、その内の松戸市の1事件で殺人罪で起訴され1986年に一審で無期懲役判決が出たが、1991年に無罪を勝ち取っていた。その後、Oは代用監獄や自白偏重捜査を批判する冤罪のヒーロー的存在となっており、刑事裁判の過程で出来た支援団体の存在があった。そのため警察は慎重に捜査を進め、遺体に付着していた体液と照合しようと、浮浪者に変装するなどして彼の唾液を採取した。

4月26日、Oが5歳の幼女に性的暴行を加え首を絞めた殺人未遂罪の容疑で逮捕される。DNA鑑定により、首なし遺体に付着していた体液のDNAと、OのDNAが一致。

5月2日、Oの家宅捜査で、裏庭の地中から首なし遺体と切断面が合致する頭蓋骨と遺体切断に使われたノコギリ、さらに切り取られた陰部を冷蔵庫から発見。これによりOが殺害の自供。

供述によると「女性と公園で出会い同居生活を始めたが、1月5日の夜、女性が家事をしないことで口論となり、頭をバットで殴ったところ死亡してしまった。せめて彼女の実家に骨だけでも返したくて、遺体を焼いたがなかなか骨にならず、頭部だけ持ち帰った」という。

1999年2月9日、Oに対して殺人罪で有罪とし、無期懲役が確定した。

《その他》
この事件では、無罪となった松戸事件を始め、その他の首都圏女性連続殺人事件の中にも、Oが関与した事件もあったのではないかという疑念も出た。

【首都圏女性連続殺人事件】
《概要》
1968年から1974年にかけて、千葉県、埼玉県、東京都の首都圏で多発した連続女性暴行殺人事件。
事件内容は1人暮らしの女性が深夜、強姦された上で殺害されるというものであった。被害者の大半は20代で、現場に残されていた加害者とされる血液型はO型の事件が多く、殺害方法は暴行焼殺9件に暴行穴埋め2件と手口に類似点があったため、同一犯によるものという見方が強かった。
1974年9月12日、茨城県行方郡北浦村(現行方市)生まれの元建設作業員、O(当時37歳)が窃盗容疑で千葉県警松戸警察署に逮捕され、連続焼殺事件への関与を追及された。

Oは窃盗・詐欺・住居侵入・傷害・常習累犯窃盗などによる8回の前科と合計13年間の服役歴を持ち、その中にアパート専門の放火が数回あること。

Oは数年前、東京都内のアパートに侵入し、寝ている女性を強姦しようとした過去があること。
連続殺人放火犯の血液型はO型または非分泌型と断定されたが、Oの血液型もO型であること。
松戸や綾瀬で起きた連続殺人放火事件の現場付近の地理にOが明るいこと。
Oはアリバイが明らかでなく、連続殺人放火事件後、親類や知人宅を転々としていること。
同事件の犯人は現場に侵入するときハシゴを使っていたが、Oも職業柄ハシゴの扱いに慣れていると見られること。
など、他の事件でもOと結びつく状況証拠があったため、マスコミがOを首都圏女性連続殺人事件の犯人に擬して報道した。

《一連の事件》
以下の事件は、捜査線上にOの名が浮上したもの。
1968年7月13日、足立区の空き地で26歳のOLが暴行の上、焼殺された。事件の数日後、Oが犯人だと密告電話が入るも、物証がないため逮捕断念。
1973年1月26日、北区のアパートで就寝中の22歳のOLが絞殺されて放火。事件発生2日前に事件現場近くを深夜、バールを持って歩いていたOが逮捕された。
同年2月13日、杉並区のアパートで放火事件。22歳の男性と67歳の女性が焼死。
1974年6月25日、千葉県松戸市在住の30歳の主婦が失踪。8月10日に同市内の造成地で絞殺体で発見。
同年7月3日、松戸市の信金OL(19歳女性)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された(#松戸OL殺人事件)。
同年7月10日、松戸市内のアパートで21歳の教師が暴行の上、焼殺された。現場近くでOが目撃された。その後、殺人罪で立件。
同年7月14日、葛飾区で48歳の料理店経営の女性と58歳の店員女性が暴行された上、焼殺。別の真犯人が逮捕されて解決した唯一の事件。
同年7月24日、埼玉県草加市内のアパートで22歳の薬局店店員女性が暴行されて放火。東武伊勢崎線草加駅の始発電車にOに似た男性を駅員が目撃。しかも、7月1日に彼は現場の向かいのアパートに暴行目的で女性の部屋に侵入するも、騒がれて逃走していた。
同年8月6日、足立区内にある42歳の会社員男性宅に侵入して、24歳のOLが暴行された上、焼殺。Oによく似た男が現場から逃走する姿が目撃されている。またOは1年前に会社員宅に侵入していたことが判明。
同年8月9日、埼玉県志木市内のアパートで21歳のOLが暴行の上、焼殺された。後年のDNA判定の結果、犯人の血液型がA型またはAB型であることが判明する。また、一連の事件における模倣犯の可能性も指摘されている。
松戸OL殺人事件
1974年7月3日、千葉県松戸市の信金OL(19歳女性)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された。
首都圏連続女性暴行殺人事件が発生していたが、どれも犯人を確定する物証が乏しく、多くの事件で目撃情報などが寄せられていた足立区のO(当時38歳)のほかに、数百人の人間がリストアップされていた。
同年7月10日に事件現場の付近で発生した女性暴行未遂事件現場から発見された足跡の一致、信金OLの遺体から検出された犯人の血液型がO型だったことから、Oを犯人と特定、9月12日に窃盗の別件逮捕に踏み切り、殺人容疑で再逮捕する。逮捕時、マスコミが連続女性暴行殺人事件の犯人であると誤報。その後、検察が殺人事件としては松戸事件の1件しか起訴されなくても、連続女性殺人事件の犯人であるかのような報道を続けた。これが後の冤罪支援運動の火種となる。
逮捕後、物証能力に乏しいと判断した地検はいったんOを釈放するも、警察は彼の自白によって被害者の所有物が発見できたことや、犯人とOの類似性(血液型や毛髪など)を強調して再逮捕。1975年3月12日、Oを信金OL殺人で起訴。この起訴と時を同じくして、冤罪支援運動のためAなどの文化人、宗教関係者、弁護士らが「Oさん救援会」を結成。Oの弁護人を担当したNは代用監獄など自白の信用性そのものを突き崩す弁護戦略を行った。
1986年9月4日、千葉地裁松戸支部で無期懲役の判決が下る。
1991年4月23日、東京高裁で松戸市の殺人事件において、自白に信用性が乏しいと無罪判決を言い渡し、松戸市殺人事件の無罪が確定した。別件の窃盗罪と婦女暴行で懲役6年判決が出ていたが、未決勾留日数が参入されたため刑務所に服役することはなかった。16年ぶりの釈放であった。未決拘置期間6068日のうち別件で有罪となった6年を差し引いた3871日を対象として総額約3650万円がOに支給された。
その後
1991年に無罪が確定したOは冤罪のヒーローとして冤罪被害の集会などで講演をしていたが、1992年に窃盗を働いたため2年間服役した。出所後の1996年に足立区首なし女性焼殺事件で41歳女性を殺した殺人犯として逮捕された。決定的な証拠を警察から突きつけられたため、Oは犯行を認め、1999年に裁判で無期懲役が確定した。

首都圏女性連続事件については、後に1件だけ犯人が逮捕されて解決するも、他の10件は全て公訴時効を迎えて未解決事件となった。
なお、足立区の殺人事件が発覚後、松戸事件のOの弁護人だったNは「弁護人としては当時口が裂けても言えなかったが、(松戸事件の)一審の途中からOを疑い始めていた」と告白し、所属弁護士会から戒告処分を受けた。
O自身は足立区首なし殺人事件について犯行を認めて以降も、首都圏女性連続殺人事件には関与していないと無実を主張している。
なお、松戸事件は仮に時効がなかったとしても、一事不再理の原則により、Oに対して刑事事件で再審理は行うことはできない。

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