3.16 二つの虐殺事件 | hiroチャンのブログ

3.16 二つの虐殺事件


『ソンミ村虐殺事件』
ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士がクアンガイ省ソンミ村(現:ティンケ村)で非武装のベトナム人住民を虐殺した事件。

ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。

1968年3月16日に、南ベトナムに展開するアメリカ陸軍のうち第23歩兵師団第11軽歩兵旅団・バーカー機動部隊隷下、第20歩兵連隊第1大隊C中隊(機動部隊には他に第1歩兵連隊第3大隊所属のA中隊と第3歩兵連隊第4大隊所属のB中隊、そして砲兵部隊があった)の、“意地悪カリー”ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県にあるソンミ村のミライ集落(人口507人)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を無差別射撃などで虐殺した。

集落は壊滅状態となり3人が奇跡的に難を逃れた。
さらにC中隊が何ら抵抗を受けていなかったにもかかわらず、B中隊が増派され、近隣の村落で虐殺を行っている。

この際、ヒュー・トンプソン・ジュニア准士官が操縦するOH-23偵察ヘリコプターが村落上空を通りがかり、多数の死者と民間人への攻撃を目撃した。彼は上官への報告・救助ヘリの派遣要請・生存者の救出を行い、さらにC中隊の狼藉を止めるため、上空から攻撃すると脅している。

当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌1969年12月に、フリーランスジャーナリストのシーモア・ハーシュが、雑誌『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことが端緒となり、ライフ誌の報道などでも、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。ハーシュの記事は「My Lai 4: A Report on the Massacre and its Aftermath」としてまとめられ、1970年度ピューリッツァー賞を受賞した。

この虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、アメリカ世論をベトナム反戦運動の方向へ導く可能性が高いことなどから、事件を隠蔽し続けた。

1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。

事件から40年経った2008年3月16日、事件現場跡に建てられた記念館にて追悼式典が開かれ、事件の生存者や元アメリカ軍兵士、地元住民が参加した。


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『ハラブジャ事件』
1988年3月16日にイラク、クルディスタン地域東部のハラブジャにて化学兵器が使われ、多数の住民が死亡した事件。

イラン・イラク戦争の末期、クルド人が多数を占めるクルディスタン地域のハラブジャ住民が、イラン側に協力したとして、サッダーム・フセイン政権が化学兵器を使用し、住民の殺害を図ったとされる。

使用された化学兵器は、マスタードガス、サリン、VXガスなど複数の種類が極めて大量に用いられたとされているが、詳細は不明である。ただ、当時イラクはこれらの化学兵器をまだ所有・開発しておらず、ジャーナリストのケネス・ツィンマーマンによれば、ドイツ人顧問の指導の下で化学兵器工場で生産されたシアン化水素化合物(青酸ガス)を使用したとの見方が有力だという。このガスはナチス・ドイツがユダヤ人に対してガス室で使用した物と酷似しているという。

元CIA分析官のペレティエ米陸軍大教授(当時)らは1990年の報告書で「イラン・イラク両軍が化学兵器を使った。現実にクルド人を殺したのはイラン軍の爆撃である可能性が高い」と指摘した。彼によると、死者はシアン(青酸)ガス中毒の兆候を示していたが、シアンガスを使っていたのは、イラン軍だったという。
犠牲者の数に関しては、死者5,000人、負傷者10,000人との推定もあるが、詳細は不明である。ただし、多数の負傷者の存在は、イラン・イラク戦争停戦後に取材した外国人ジャーナリストや医師により確認されており、多数の住民が巻き込まれたことは確実とされている。

この事件についてイラク政府からの正式発表はなく、難を逃れた住民が抵抗組織などを通じて世界にアピールし判明した。
イラン・イラク戦争においてスンナ派諸国、欧米諸国などの多くがイラク側を支持していたことから、ほぼ黙殺される状況になった。
ヨーロッパの企業や研究機関が、イラク側に化学兵器の元となる原料を売り、それがクルド人に対して使用されたことが明らかになりつつあるとし、軍事目的に使用されることを知りながらイラクに売却した当時の関係者の責任を問う声があがり、旧政権のために化学兵器を調達したオランダ人ビジネスマン、フランス・ファン・アンラート(Frans Van Anraat)が逮捕され、禁固刑を受けた。
サッダーム政権は一貫して、「事件はイランの仕業」と関与を否定した。

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