Full Metal Jacket | hiroチャンのブログ

Full Metal Jacket


【スタンリー・キューブリック】
Stanley Kubrick
アメリカ合衆国の映画監督。のちにイギリスに移住した。
Stanley Kubrick
1940年代末の自身による撮影
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生年月日:1928年7月26日
没年月日:1999年3月7日(70歳没)
出生地:アメリカ合衆国 ニューヨーク州マンハッタン
死没地:イングランド ハートフォードシャー
職業:映画監督

《主な作品》
『突撃』
『スパルタカス』
『ロリータ』
『博士の異常な愛情』
『2001年宇宙の旅』
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『時計じかけのオレンジ』
『バリー・リンドン』
『シャイニング』
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『フルメタル・ジャケット』
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『アイズ ワイド シャット』

《受賞》
アカデミー賞
視覚効果賞
1968年『2001年宇宙の旅』
ヴェネツィア国際映画祭
栄誉金獅子賞
1997年
ニューヨーク映画批評家協会賞
作品賞
1971年『時計じかけのオレンジ』
監督賞
1964年『博士の異常な愛情』
1971年『時計じかけのオレンジ』
英国アカデミー賞
作品賞
1964年『博士の異常な愛情』
監督賞
1975年『バリー・リンドン』
ゴールデングローブ賞
作品賞(ドラマ部門)
1960年『スパルタカス』
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オーストリア=ハンガリー帝国に起源を持つユダヤ人の両親の長男として、ニューヨークのマンハッタンで生まれる。少年時代は、チェス、ジャズに興味を持ち、特にカメラは、彼の経歴の出発点となる。1941年から1945年にかけてウィリアム・ハワード・タフト高校に在籍した。高校時代のIQは平均以上だったが、成績は平均以下だった。
ニューヨーク市立大学シティカレッジに入学するが、すぐに中退している。一時はジャズ・ドラマーを目指していたが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの死を伝える一枚の写真が写真雑誌『ルック』誌1945年6月25日号に売れ、見習いカメラマンとして在籍するようになる。
『ルック』に載った自身のフォト・ストーリーを元に、短編ドキュメンタリー『拳闘試合の日』を製作し、映画の道を歩み始める。この映画は3900ドルかかったが4000ドルで売れ、この成功をきっかけに『ルック』誌を退社する。
1953年、親類から借金をして初の長編劇映画『恐怖と欲望』を製作するも、この映画は赤字になる。続いてキューブリックは『非情の罠』を製作する。ただし、この映画も製作費を回収することはできなかった。
26歳の時、同い年のジェームス・B・ハリスと組み、ハリス=キューブリック・プロダクションズを設立。
SF三部作と呼ばれる『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』の成功で、世界の批評家から映像作家としての才能を認知される。
12年ぶりの監督作品となった『アイズ ワイド シャット』(原作は、シュニッツラーの『夢小説』)の完成後、公開を待たずにハートフォードシャーの自宅で心臓発作で死去。70歳であった。
キューブリックの死は監督作品『アイズ ワイド シャット』の試写会5日後の事だった。
『アイズ ワイド シャット』と同時期から企画を温めていた『A.I.』は、2001年にスティーヴン・スピルバーグがそのトリートメントを基に脚本を完成させ、製作・公開された。
映画監督を目指した理由として「今の奴ら(現役の監督たち)よりは上手く撮れる自信があったからだ」と発言している。
初期のころより、監督のみならず映画製作全般にわたり、すべてを掌握する姿勢をとり続けた。「完全主義者」といわれ、特に晩年は映画製作に時間がかかることでも有名だった。
『博士の異常な愛情』以降の脚本、編集、選曲のいずれも独特なセンスと切れがあり、自作の公開に関して上映の劇場の地理的状況から上映システムに至るまでコントロールしようと努めている。日本での公開では字幕の翻訳も再英訳を校閲する方法で監修した。
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よく動くカメラ、大画面で深い奥行きの出る広角レンズの使用、『時計じかけのオレンジ』以降のカラー作品では自然光を利用した、あるいは自然光を模した照明も特徴で、自身並みの映画撮影者より遥かに安定した手持ち撮影ができた。
また作品中の恐怖演出として陰影を強く演出した上で、上目遣いで画面を睨み付けるという役者の演技がある。この手法を映画評論家のロジャー・イーバートは「キューブリック凝視(Kubrick stare)」と名付けた。
写真雑誌の見習いカメラマン時代に数多くの映画を観て過ごし、セルゲイ・エイゼンシュテイン、チャールズ・チャップリンから影響を受ける。キューブリック自身は「どちらかを選ばなければならないとしたら、チャップリンだ」とコメントしている。
キューブリックは映画『スパルタカス』の大成功をきっかけに有名監督になるが、その後のインタビューで、最終決定権が監督ではなくスタジオやプロデューサーが握るハリウッド・メジャーの製作システムにあるとして、これを度々批判している。
これに懲りて、以降の作品では製作も自身が行うようになり、アメリカの映画システムと決別してイギリスへ渡り、アメリカの会社の資本のもとで独自に映画製作を続けることになる。『博士の異常な愛情』以後は他人の脚本で映画作りをすることはなかった。
その後、キューブリックは『スパルタカス』についてインタビューなどで自らの功績を誇示し、関係者の反感を買った。
キューブリックが最もこだわっていた企画が『ナポレオン』で、『2001年宇宙の旅』の次回作として製作も決定し、脚本も完成し撮影を残すのみとなっていた。ところが先に公開された『ワーテルロー』が興行的に失敗し、『ナポレオン』の出資者が引き揚げたために製作中止に追い込まれた。
ほかにホロコーストをテーマにした『アーリアン・ペーパーズ』(原作は『五十年間の嘘』)という企画も、脚本の執筆中にスピルバーグの『シンドラーのリスト』が公開されたため、キューブリックの前作『フルメタル・ジャケット』が『プラトーン』と何かと比較され大ヒットとオスカー受賞のチャンスを逸した経験から、製作中止を決めた(『プラトーン』は『フルメタル・ジャケット』より先に公開された)。
自身は飛行機の免許を持ち操縦経験もあったが、操縦中に事故を起こしかけた経験と、墜落事故に巻き込まれた知人のカメラマンの焼け焦げたカメラを見て以来、ジェット機の旅行を極度に嫌ったため、ロケが必要な映画なども、遠くでロケをすることはなく、ベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』のフエのシーンもロンドン近辺の工場跡を使い、輸入してきたヤシを植えて撮影し、ニューヨークが舞台の『アイズ ワイド シャット』もそのシーンの多くをロンドン近郊の大規模なスタジオ撮影で制作している。
スティーヴン・スピルバーグとは特に親交が深く、『A.I.』についての打ち合わせのためにスピルバーグが自家用機で向かい、キューブリック邸のキッチンで話しあったことがあり、それ以外は電話かファックスでやりとりをしていた。
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《監督作品》
拳闘試合の日 Day of the Fight (1951年)
空飛ぶ牧師 Flying Padre (1951年)
海の旅人たち The Seafarers (1952年)
恐怖と欲望 Fear and Desire (1953年)
非情の罠 Killer's Kiss (1955年)
現金に体を張れ The Killing (1956年)
突撃 Paths of Glory (1957年)
スパルタカス Spartacus (1960年)
ロリータ Lolita (1962年)
博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb (1964年)
2001年宇宙の旅 2001:A Space Odyssey (1968年)
時計じかけのオレンジ A Clockwork Orange (1971年)
バリー・リンドン Barry Lyndon (1975年)
シャイニング The Shining (1980年)
フルメタル・ジャケット Full Metal Jacket (1987年)
アイズ ワイド シャット Eyes Wide Shut (1999年)

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