不遇な生い立ちや環境で育っても立派な人はいる。恵まれた環境で育っても犯罪者は生まれる。 | hiroチャンのブログ

不遇な生い立ちや環境で育っても立派な人はいる。恵まれた環境で育っても犯罪者は生まれる。


犯した罪を生い立ちや環境のせいにしてはならない・・・。ならば、同じ境遇で育った方は皆が犯罪者となりうる予備軍なのか?


【金嬉老事件】
(きんきろうじけん、キムヒロじけん)
1968年2月20日に在日韓国人二世の金嬉老、改名後の本名:権禧老(クォン・ヒロ)、1928年11月20日 - 2010年3月26日、事件当時39歳が犯した殺人を発端とする監禁事件である。寸又峡事件とも呼ばれる。いわゆる劇場型犯罪の最初のケースである。
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「金嬉老事件」
場所:日本・静岡県榛原郡本川根町千頭298 ふじみや旅館
日付:1968年2月21日 (JST)
攻撃手段:立てこもり
攻撃側人数:1人
武器:豊和M300、ダイナマイト
犯人:金嬉老
容疑:殺人罪、監禁罪、爆発物取締罰則違反
動機:借金トラブル
管轄:静岡県警察

事件概要は、1968年2月20日、手形トラブルが高じて暴力団から借金返済を求められた金は、返済を約束して静岡県清水市(現・静岡市清水区)の歓楽街にあるクラブ「みんくす」で暴力団員と面会。その場で暴力団員2人(未成年の少年1人を含む)をライフルで 乱射して射殺、翌日には同県榛原郡本川根町(現・川根本町)寸又峡温泉の「ふじみや旅館」で経営者・宿泊客ら13人を人質として籠城した。金はM1カービン用の30発弾倉を取り付けた豊和工業製の猟銃「M300」に銃弾500-600発と約100本のダイナマイトで武装していた。88時間にわたった籠城の結果、2月24日に金は報道関係者に変装した静岡県警察の捜査員と記者らによって取り押さえられ逮捕された。


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事件の直接のきっかけは借金返済問題であったが、金がずっと以前に目撃したと主張する警察官による在日韓国人・朝鮮人への蔑視発言について謝罪することを人質解放条件として要求し、それ以外の要求をほとんどしなかったため、「差別問題」と絡めて報道されるに至った。金が籠城する様子はテレビやラジオで実況中継され、関連していたとされる警察官がテレビに出演するなどもした。連日各局のワイドショーは人質被害者の安否や被害者家族の意向などお構いなしにスタジオから「ふじみや旅館」へ独自に生電話を入れて視聴率を稼いだ。NETテレビ(現・テレビ朝日)などは、銃を持って戸外を警戒している金に対し「金さん、ライフルを空に向けて射ってくれませんか」と要望を出し、金が空に向かって数発、ライフルを乱射しているところをカメラで映して演出までした(のちに金本人が法廷陳述で一連のマスコミ報道の裏を暴露して不満を表明している)。また金の本国である韓国でも大々的に報道され、金は「差別と戦った民族の英雄」として祭り上げられた。
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金は静岡刑務所未決監独房に身柄を移され殺人罪、監禁罪、爆発物取締罰則違反で起訴された。裁判では金の在日韓国人としての生い立ちがどれほどの影響を与えたかとが主な争点となった。

裁判中に刑務所内での金に対する特別待遇の実態が判明する。金の独房は施錠されておらず散歩や面会なども自由で脱獄手段に用いられる出刃包丁、ヤスリ、ライターなどを持ち込んでいた。これは金が自殺をほのめかしたりして、規則違反がエスカレートしたものだった。
特別待遇は刑務所上級職員の間で申し送り事項になっていた事実も判明し、刑務所の管理体制が問題となって衆議院法務委員会でも責任追及がされる。その結果、法務省矯正局長以下13人の法務関係者上級職員、専従職員13人が停職・減給・戒告・訓告などの処分を受けた。包丁を差し入れたとされる看守が後に服毒自殺をしている。

自殺に追い込まれた看守に対して金嬉老は何の感情も反省も持っておらず、他人事のような態度をとったことに対して、特別弁護人を務めていた佐藤勝巳氏は非常に驚き愕然とし、原朝鮮人とも云うべき存在に初めて会ったと述懐している。
金の特別弁護人を務めていた佐藤は「民族差別があるから、この度の事件が起きたのだ」と主張する金に対し、「民族差別は在日朝鮮人全体に及んでいるが、殺人などほかの人たちはしていない。君個人にも責任があるのではないか」と反論した。これに対し「お前のような日本人にそんなことを言われる筋合いはない」「(他の在日朝鮮人は)勇気がないから(人を殺害しない)」と殺意を露わにして絶叫したエピソードを紹介している。

1972年6月、死刑求刑に対し静岡地裁は無期懲役の判決を下す。1974年6月、東京高裁が控訴棄却。1975年11月4日、最高裁が上告棄却し無期懲役が確定。熊本刑務所、府中刑務所、千葉刑務所などで服役。

1999年9月に、韓国に強制送還し二度と日本に入国しないことなどを条件に70歳で仮釈放。東京保護観察所を経て、韓国釜山に帰国させられた。これにより日本における特別永住者の立場を喪失した。

1999年9月7日、韓国政府から助力を得て、釜山にて新生活を始めた。本名を金嬉老から権禧老に再変更し、1979年に獄中結婚した女性としばらくして同居するようになる。2000年4月13日、韓国国民として国政選挙に投票して主権を行使した。4月25日、夫人が生活定着金など4750万ウォンもの現金をタンスや権の銀行口座から引き出して逃走、窃盗と私文書偽造の容疑で指名手配され1年5ヶ月逃走後の2001年9月25日に夫人は逮捕された。

2000年9月3日、講演会がきっかけで内縁関係になった愛人の夫に対し殺害を計画、凶器を持って押し入り乱暴を働いた上に家の中に火を付けて、夫への殺人未遂と放火および監禁事件を引き起こし、シャツとズボンに被害者の返り血が付いたままの姿で現行犯逮捕され服役した。そのため、韓国での金嬉老の人気は地に落ちたという。
晩年の権は「日本にある母親の墓参り」を理由に、2010年3月に日本の法務省に入国要請を、韓国政府を経由して日本に入国を認めてもらえるよう陳情する予定だった。しかし前立腺がんのため2010年3月26日に釜山市の病院で死去した。享年82。本人の希望により、遺骨は静岡県掛川市に納められている。

金嬉老は窃盗などを重ねて1943年に逮捕され、終戦まで相愛少年保護院で過ごした。また、1946年にも窃盗・横領罪で服役し、同年離婚、その後の約20年間も、窃盗、詐欺、強盗などの犯罪を繰り返し、刑務所を出たり入ったりするような生活だった。

金嬉老事件の人質監禁88時間は警察が包囲する人質監禁時間として日本の最高記録になったが、1972年に発生したあさま山荘事件の人質監禁216時間で更新された。
この事件を機に警察に狙撃隊が創設され、2年間で警視庁・北海道・宮城・愛知・大阪・福岡の各警察本部(機動隊)に100丁の豊和工業製ゴールデンベアライフル(狙撃用ライフル)が配備された(銃器対策部隊の創設)。狙撃隊が初めて出動したのは2年後の1970年に発生した瀬戸内シージャック事件であり、大阪と福岡から部隊が派遣された。

【豊和M300】
豊和M300/豊和NM300
種類:半自動式騎銃
製造国:日本
設計・製造:豊和工業
種別:カービン
口径:7.62mm
銃身長:495mm(20インチ)
ライフリング:エンフィールド型4条右転
使用弾薬: .30カービン弾
装弾数:5発
作動方式:ガス圧利用衝撃ピストン式
全長:960mm
重量:2,800g
銃口初速:600m/秒
設計年:昭和35年
豊和工業では1946年-1949年頃、日本国政府からの認可を受けてアメリカ軍が使用するM1/M2カービンおよびM1ガーランドの整備および交換部品の生産を担当していた。この際、アメリカ陸軍武器科では本国と同等の品質で部品を製造できるように豊和工業側の要員を訓練・監督し、設備の提供も行った。その後もアメリカ軍向けの部品生産を続けていたが、進駐軍撤退後は自衛隊で配備されるM1カービンおよびM1ガーランドの整備や製造について責任を負うこととなった。自衛隊向けの官給用M1カービンは「U3 M1」という製品名で5,000丁が製造された。
M300は、豊和工業がM1カービンを改良し、狩猟用として再設計したもので、1960年(昭和35年)に15丁の試作品が完成。翌年より一般販売が開始され、戦後初の国産ライフル銃となった。
M1カービンは、本来15発あるいは30発の箱型弾倉を装備するが、M300は日本の銃刀法に合わせ、装弾数5発の箱型弾倉に変更されている。海外向けには10発弾倉もオプションとして用意されている。弾薬は旭大隈工業製の.30 A.O.A.ソフトポイント弾(.30カービン弾)を使用した。