An Enemy of the People | hiroチャンのブログ

An Enemy of the People


Steve McQueen -5-


《私生活》
1972年にアラスカで撮影された"マグショット"。マックイーンは、飲酒運転で逮捕された際、その写真撮影でピースサインを行い、公権力を挑発した。
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ニューヨークでステラ・アドラーの学校に通う間、マックイーンはジア・スカラと交際していた。1956年11月2日に彼は女優のニール・アダムスと結婚した。アダムスとの間には娘のテリー・レスリー(1959年6月5日 - 1998年3月19日)、息子のチャド(1960年12月28日生)がいた。マックイーンとアダムスは1972年に離婚した。自叙伝「My Husband, My Friend」でアダムスは結婚生活が破綻をきたしていた間の1971年に彼女は流産したと述べている。
1973年8月31日、マックイーンは女優のアリ・マッグロー(『ゲッタウェイ』で共演)と結婚した。しかし、この結婚生活は1978年の離婚で終わった。マッグローはマックイーンとの間にできた子供を流産している。
1980年1月16日、その死の1年足らず前にマックイーンはモデルのバーバラ・ミンティと結婚した。マックイーンの4人の孫のうちの1人は、俳優のスティーブン・R・マックイーン(『ヴァンパイア・ダイアリーズ』のジェレミー・ギルバート役で最も有名)である。
1971年から1972年、アダムスと離婚しマッグローに出会う前の間に、マックイーンは『ジュニア・ボナー』で共演したバーバラ・リーと関係を持っていた。彼女は妊娠し、中絶している。
女優でモデルのローレン・ハットンは、1960年代初期にマックイーンと関係を持ったと語っている。
マミー・ヴァン・ドーレンはマックイーンと関係を持ち、彼と幻覚剤をためしたと主張した。
マックイーンは毎日2時間の運動が日課であった。それはウエイトリフティングと5マイルのランニングが含まれた。
マックイーンは各種の薬物を使用していたことで知られていた。ウィリアム・クラクストンは彼がほぼ毎日マリファナを吸っていたと語っている。
伝記作者のマーク・エリオットは、彼が1970年代初期に相当量のコカインを使っていたと主張している。そして、彼はヘビースモーカーでもあった。マックイーンはしばしば過度に飲酒し、1972年にはアラスカのアンカレッジで飲酒運転のため逮捕されている。
チャールズ・マンソンの信者が1969年8月9日にシャロン・テートの自宅でテートとジェイ・セブリングを含む5名を殺害した。テートとセブリングはマックイーンの友人であり、マックイーンも犯人の潜在的標的であったと報じられた。最初の妻によると、マックイーンはいつでも人前で拳銃を携帯し始めるようになり、セブリングの葬儀でも携帯していた。殺人の2か月後、警察は殺人の対象者リストを発見し、その中にはマックイーンの名があった。その結果、マックイーンの会社はマンソンの脚本を拒絶した。2011年にセブリングが事件当日にテートの家で行われたパーティーにマックイーンを招待していたことが明らかにされた。マックイーンによると、彼はパーティーに参加しようとしてガールフレンドを誘った。しかし、彼女はパーティーの代わりに自宅で親密に過ごすことを提案した。それによって彼は命を救われることになった。ちなみにこのパーティには、パラマウントの重役ロバート・エヴァンズも誘われていた。

マックイーンは映画の出演に同意した際、スタジオに大量の無料アイテム(例えば電気カミソリ、ジーンズやその他のアイテム)を要求するという変わった評判を持っていた。マックイーンはこれらのアイテムを、自身が10代に過ごしたボーイズ・リパブリックの矯正施設に寄付していたことが後に明らかになった。マックイーンはしばしば施設を訪れ、生徒達と時を過ごし、ビリヤードをしたり自身の経験を話したりしていた。

マックイーンと『大脱走』で共演したジェームズ・ガーナーはお互いにレースに対して関心を持っていたことから親友となった。ガーナーはマックイーン宅の下手に住んでおり、マックイーンは回想している。「私はジムが自宅できちんとしているところを見ることができた。花は手入れされ、庭には紙くずも無く・・・芝はいつも刈られていた。それで、私は彼をいらつかせるため、彼の通り道にビールの空き缶を投げ捨て始めた。彼は家を出ると、道をきちんときれいにしなければならず、全ての空き缶を持って家に帰った。犯人が私だと分かるまで、彼は長い時間がかかった。」

マックイーンの3番目の妻、バーバラ・ミンティは自著「Steve McQueen: The Last Mile」で、マックイーンが晩年に福音主義に改宗したことについて述べている。彼が改宗したのは飛行インストラクターのサミー・メイソン、その息子ピートと、バーバラの影響を受けたためであった。マックイーンは地元のヴェンチュラ宣教師教会に出席し、彼の死の直前には福音伝道師のビリー・グラハムが訪ねてきた。

《病気と死》
マックイーンは1978年に持続性の咳に悩まされるようになった。彼は禁煙し、抗生物質による治療を受けたが改善できなかった。息切れはより顕著に増加し、『ハンター』撮影後の1979年12月22日に精密検査で胸膜中皮腫(既知の治療法がないアスベスト露出と関連した癌)が発見された。数ヶ月後、マックイーンは医学インタビューで、彼の状態はアスベスト暴露が原因だとした。マックイーンはアスベストが映画スタジオの防音材に使われたり、レーシングドライバーのスーツやヘルメットに含まれていると信じていた。しかし彼は、海兵隊で兵員輸送船のパイプからアスベストを除去する際に大量に曝露されたことが病気の直接的な結果であったのでは無いかと考えた。
1980年2月までには広範囲にわたる転移が発見された。彼は病状を秘密にしようとしたが、「ナショナル・エンクワイヤラー」誌は1980年3月11日にマックイーンが「末期癌」に罹っていることを明らかにした。7月にマックイーンは、アメリカの医師達が彼を延命させる方法は何も無いと話した後、非標準的な治療法を受けるためにメキシコのロサリトビーチに向かった。マックイーンはウィリアム・ドナルド・ケリーの治療を求めたため、メキシコへの旅行は論争となった。ケリーはコーヒー浣腸、シャンプーによる頻繁な洗浄、牛や羊の生きた細胞を含んだ液体の毎日の注入、マッサージ、レートリルを用いたゲルソン療法のバリエーションを進めており、主流の医師からは典型的な偽医療だと非難されていた。マックイーンは3ヶ月間のメキシコ滞在で、ケリーに対して1ヶ月に少なくとも40,000ドル(現在の119,000ドル)の現金を支払った。ケリーが持っていた唯一の医療ライセンスは(1976年に取り消されるまで)歯列矯正のみであった。マックイーンが患者であったことが明らかとなり、ケリーの治療法は従来の新聞やタブロイド紙においてセンセーションを引き起こした。
マックイーンは10月上旬に帰国した。癌の転移にもかかわらず、ケリーはマックイーンが完全に治癒し通常生活に戻ると公的に発表した。マックイーンの病状はすぐに悪化し、「巨大な」腫瘍が腹部に生じていた。
1980年10月下旬、マックイーンはメキシコのチワワ州シウダー・フアレスに向かった。肝臓に腫瘍(およそ5ポンドの重さ)が発見され、アメリカの医師からは心臓が手術に耐えられないと警告を受けたにも関わらず、摘出手術を受けるためであった。マックイーンは「サム・シェパード」の偽名でフアレスの小さなクリニックに入院した。クリニックの医者とスタッフは彼の正体を知らなかった。
フアレスのクリニックで腹部と首の多数の転移性腫瘍を除去する手術を受けた12時間後、マックイーンは1980年11月7日午前3時45分に心停止のため死去したという。50歳であった。
「エルパソ・タイムズ」によると、彼は睡眠中に死去したという。
ヴェンチュラ宣教師教会のレナード・デウィットはマックイーンの追悼式を統轄した。
マックイーンは火葬に付され、遺灰は太平洋に散骨された。
“LOP RABBITS as pets”(意訳『ペットとしてのロップ・ウサギ』)によると、マックイーンは死期間近の晩年を動物介在療法で用いられるロップイヤー・ウサギの一種であるフレンチ・ロップ(耳が垂れた大型のカイウサギ)とともに過ごしたという。

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