The Getaway | hiroチャンのブログ

The Getaway


Steve McQueen -4-

マックイーンはディヴィッド・マレルの1972年の小説『一人だけの軍隊』(原題:First Blood)の映画化が発表されると、「ジョン・ランボー」のキャラクターに対する関心を表した。しかしプロデューサーはマックイーンの年齢を理由にそれを拒絶した。
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1976年には『ボディガード』(ダイアナ・ロスと)への出演を打診された。しかし、映画はマックイーンの死後まで制作されなかった。(後にケビン・コスナーとホイットニー・ヒューストンで映画化)
『ブラッディ・ガン』の計画は1974年初頭に始まり、マックイーンの主演が考えられていたが、製作開始は1980年となり、その頃にはマックイーンは病床にあったため、トム・セレックが主演となった。
マックイーンは『レイズ・ザ・タイタニック』の主演もオファーされていたが、脚本は平凡であると感じられた。
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『タワーリング・インフェルノ』出演後にアーウィン・アレンと契約し、1980年に続編への出演を打診されたが、既に病床にあった。映画化は廃棄され、アレンはポール・ニューマン主演で『世界崩壊の序曲』を製作したが、興行的に大失敗した。マックイーンは『タワーリング・インフェルノ2』を辞退した直後に死去した。

《スタント、レース、飛行機》
マックイーンは熱心なオートバイとレースカー狂であった。映画の中で車を運転する機会があれば、彼は自身のスタントを行い、その中には『ブリット』におけるカーチェイスや、『大脱走』のオートバイチェイスが含まれた。『大脱走』の鉄条網を飛び越えるシーンでは保険の関係もあってバド・エキンズが代役を務めたが、マックイーンは650ccのトライアンフ・TR6トロフィーをかなりのシーンで運転している。スタントライダーとマックイーンの技量の差を見つけることは難しいが、編集されている部分で、マックイーンがドイツ兵の制服を着ている部分では別のオートバイを運転している。『ブリット』の運転シーンのおよそ半分はローレン・ジェーンズが担当した。

マックイーンとジョン・スタージェスはF1レースについての映画『Day of the Champion,』を製作する予定であった。しかしマックイーンは『砲艦サンパブロ』の撮影が遅れ、多忙であった。彼らはドイツのニュルブルクリンクとの契約があり、ジョン・フランケンハイマーがそこで『グラン・プリ』の撮影を行った後、リールはスタージェスに引き渡された。フランケンハイマーは予定でリードしており、マックイーンとスタージェスのプロジェクトは取り消された。

マックイーンはプロのレースカー・ドライバーになることを考えた。1961年にはイギリスツーリングカー選手権の第7戦、ブランズ・ハッチにBMCのミニで参加、3位でフィニッシュしている。
1970年のセブリング12時間レースではピーター・レブソンと組んでポルシェ・908/02をドライブ、2週間前にオートバイの事故で左足を怪我していたにも関わらず、3リッタークラスで優勝し、総合ではマリオ・アンドレッティ/イグナツィオ・ギュンティ/ニノ・ヴァッカレラ組の5リッターフェラーリ・512Sに23秒遅れの2位であった。このポルシェ・908/02はマックイーン自身のソーラー・プロダクションから『栄光のル・マン』用のカメラ車として1970年のル・マン24時間レースにエントリーした。
マックイーンはジャッキー・スチュワートとポルシェ・917をドライブしたがったが、映画の後援者はその場合サポートから手を引くと主張した。ル・マンで24時間ドライブするか、映画を製作するために夏の間ドライブするかを選択しなければならなくなり、マックイーンは後者を選択した。

マックイーンはオフロードのオートバイレースにも参加し、しばしばBSA・ホーネットを走らせた。彼はまた、1970年のロンドン-メキシコラリーにブリティッシュ・レイランドチームのコドライバーとしてトライアンフ・2500PIで参加する予定であったが、映画の契約のためそれを断念しなければならなかった。彼の最初のオフロードバイクは、エキンズから購入したトライアンフの500ccであった。マックイーンは西海岸で行われたオフロードレースの多くに参加し、その中にはバハ1000、ミント400、エルシノア・グランプリなどが含まれた。

1964年、マックイーンとエキンズは東ドイツのエアフルトで開催されるインターナショナル・シックス・デイズ・エンデューロのシルバーベース・カテゴリーに参加する初の公式アメリカチームの4名のライダー(プラス1名がリザーブ)に加わった。「A」チームは8月末にイングランドに到着し、使用する649 ccと490 ccのバイクをトライアンフのファクトリーから集め、オフロード用に改造した。当初古くからのイギリスのオートバイディーラーに輸送の手配を依頼したのが期待外れとなり、トライアンフのディーラーであったH&Lモータースが適当な車両を供給するのに踏み出した。チームはイギリスの臨時マネージャーと共にドイツに到着すると、「B」チームはヨーロッパ在住アメリカ人が個人的に加わり、ヨーロッパ製のマシンで参加していたことを知って驚いた。
マックイーンのISDTの競技番号は278で、それはトライアルのスターと順に基づいていた。両チーム共にクラッシュを繰り返した。マックイーンは事故のダメージを回復できずリタイアし、エキンズは脚を骨折し撤退した。両者とも3日目のことであった。「B」チームの1名のみが6日間のイベントを完走した。イギリスの月刊誌「Motorcycle Sport」は「トライアンフのツインに乗る...[チームは]、賞賛に値するスタイルとまではいかないが、何度も落車し、6日間の競技で多くの人々が誰が勝利するか(彼らはそれが彼ら自身で無いことを知っていた)を心配していたかを抜きにして、どこでも素晴らしいダッシュを見せたのは明らかだった。」とコメントした。

マックイーンは1978年にオフロードモータースポーツ栄誉の殿堂入りした。1971年、マックイーンのソーラー・プロダクションはクラシックバイクのドキュメンタリー『栄光のライダー』に資金を提供した。同作にはマックイーンが出演し、共演はマート・ロウウィルとマルコム・スミスであった。同年、マックイーンがハスクバーナのダートバイクに跨がった写真が「スポーツ・イラストレイテッド」誌の表紙を飾った。
マックイーンはモータースポーツ用のバケットシートを設計し、その特許は1971年出願された。

『エド・サリヴァン・ショー』用に、マックイーンはデューンバギーに乗って高速で砂漠のまわりをドライブした。その後、エド・サリヴァンは「それは『相当な』ドライブだった!」と語った。

マックイーンは、いくつかのクラシックオートバイといくつかのエキゾチックなスポーツカーを所有した。その一部は以下を含む:
ポルシェ・917, ポルシェ・908, フェラーリ・512(『栄光のル・マン』で使用された物)
1963年型 フェラーリ・250 ルッソ・ベルリネッタ
ジャガー・Dタイプ XKSS(右ハンドル)
ポルシェ・356 スピードスター
1962年型 コブラ
フォード・GT40
何度か試みたにもかかわらず、マックイーンは自身が『ブリット』で運転したフォード・マスタングGT390を購入することができなかった。それは駆動系がマックイーンのドライビングスタイルに合わせて改造された物であった。映画で使用されたマスタング2台のうち1台はひどく破損し、修理は不可能と判断されスクラップにされた。

マックイーンはまた飛行機も操縦し、いくつかを所有した。1945年型のステアマン(テイルナンバーN3188)や、1946年型のパイパー カブ、1931年型のピトケアン・PA-8複葉機(第一次世界大戦のエース・パイロット、エディ・リッケンバッカーが郵便サービスで使用した機体)などである。それらはハリウッド北西にあるサンタポーラ空港に駐機されていた。


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