The Silence of the Lambs
【ジョナサン・デミ】
Jonathan Demme1944年2月22日 - 2017年4月26日
アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。
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本名:Robert Jonathan Demme
生年月日:1944年2月22日
没年月日:2017年4月26日(73歳没)
出生地:アメリカ合衆国
ニューヨーク州ロングアイランド
死没地:ニューヨーク州
職業:映画監督
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《主な作品》
『メルビンとハワード』
『羊たちの沈黙』
『フィラデルフィア』
『レイチェルの結婚』
《受賞》
アカデミー賞
監督賞
1991年『羊たちの沈黙』
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ベルリン国際映画祭
監督賞
1991年『羊たちの沈黙』
全米映画批評家協会賞
ドキュメンタリー映画賞
1984年『ストップ・メイキング・センス』
ニューヨーク映画批評家協会賞
監督賞
1980年『メルビンとハワード』
1991年『羊たちの沈黙』
ブルーリボン賞
外国語作品賞
1991年『羊たちの沈黙』
その他の賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
監督賞
1991年『羊たちの沈黙』
ビリー・ワイルダー賞
2006年 優秀な演出に対して
《来歴》
ニューヨーク州ボールドウィン出身。映画監督のテッド・デミは甥にあたる。フロリダ大学で獣医学を学ぶが、自分の能力に限界を感じ、中退する。大学在学中に学内新聞の映画評を執筆した経験を生かそうと、地方新聞の職を得るが、父親の紹介で映画会社の宣伝マンとなり、数年間働く。その仕事を通じてロジャー・コーマンと出会い、1971年から1976年までコーマンの下で働く。
初期はプロデュースや共同執筆をし、ロジャー・コーマン監督作品の『レッド・バロン』に参加し、インディーズ映画の監督となる。
コーマンの設立した低予算インディペンデント製作会社ニューワールド・ピクチャーズで1974年『女囚刑務所白昼の暴動』で映画監督デビューし、1976年の『怒りの山河』まで3本の映画をここで撮った。
続く1980年公開の『メルビンとハワード』でニューヨーク映画批評家協会賞監督賞を受賞。1984年公開の『ストップ・メイキング・センス』で全米映画批評家協会賞・ドキュメンタリー映画賞を受賞。
1991年公開の『羊たちの沈黙』でベルリン国際映画祭監督賞とアカデミー監督賞をダブル受賞。作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優賞、主演女優賞の5部門を制覇した3本の映画の一本となった。
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ドキュメンタリー映画も10本以上撮っており、2007年のジミー・カーター元大統領を取り上げた『Man from Plains』では・ヴェネツィア国際映画祭バイオグラフィルム賞を受賞した。
『羊たちの沈黙』のインパクトが強すぎたせいで、低迷期には一発屋と揶揄されることもあったが、2008年公開の『レイチェルの結婚』はヴェネツィア国際映画祭に出品され高い評価を受けた。
2017年4月26日、食道がんと心臓病の合併症により死去。73歳没。
《主な監督作品》
女刑務所・白昼の暴動 Caged Heat(1974)
クレイジー・ママ Crazy Mama (1975)
怒りの山河 Fighting Mad (1976)
刑事コロンボ 「美食の報酬」 Murder Under Glass (1978)TV
メルビンとハワード Melvin and Howard (1980/TV放映のみ)
ストップ・メイキング・センス Stop Making Sense (1984)
スイング・シフト Swing Shift(1984/ビデオ・スルー)
サムシング・ワイルド Something Wild (1986)
愛されちゃって、マフィア Married to the Mob (1988/ビデオ・スルー、テレビ放映あり)
羊たちの沈黙 The Silence of the Lambs (1990)
フィラデルフィア Philadelphia (1993)
愛されし者 Beloved (1998/ビデオ・スルー)
シャレード The Truth About Charlie (2002/映画祭上映後、ビデオ発売)
クライシス・オブ・アメリカ The Manchurian Candidate (2004)
ニール・ヤング/ハート・オブ・ゴールド ~孤独の旅路~ (2006)
レイチェルの結婚 Rachel Getting Married (2008)
Neil Young Trunk Show (2009)
ニール・ヤング/ジャーニーズ(2012)
A Master Builder (2013)
幸せをつかむ歌 Ricki and The Flash (2015)
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【羊たちの沈黙 】
The Silence of the Lambs
1991年公開のアメリカ映画。
監督:ジョナサン・デミ
脚本:テッド・タリー
原作:トマス・ハリス
『羊たちの沈黙』
製作:エドワード・サクソン、ケネス・ウット、ロン・ボズマン
製作総指揮:ゲイリー・ゴーツマン
出演者:ジョディ・フォスター
アンソニー・ホプキンス
スコット・グレン
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撮影:タク・フジモト
配給:オライオン・ピクチャーズ/ワーナー・ブラザース
公開:1991年2月14日
1991年6月14日
上映時間 118分
製作国:アメリカ合衆国
製作費:$19,000,000
興行収入:$272,742,922
$130,742,922
次作:ハンニバル
第64回アカデミー賞で主要5部門を受賞。アカデミー賞の主要5部門すべてを独占したのは『或る夜の出来事』、『カッコーの巣の上で』に次いで3作目である。
《概要》
連続殺人事件を追う女性FBI訓練生と、彼女にアドバイスを与える猟奇殺人犯で元精神科医との奇妙な交流を描く。
《あらすじ》
カンザスシティ(ミズーリ州)ほかアメリカ各地で、若い女性が殺害され皮膚を剥がれるという連続猟奇殺人事件が発生。逃走中の犯人は“バッファロー・ビル”と呼ばれていた。
FBIアカデミーの実習生クラリス・スターリングは、バージニアでの訓練中、行動科学課 (BSU)のクロフォード主任捜査官からある任務を課される。クロフォードは、バッファロー・ビル事件解明のために、監禁中の凶悪殺人犯の心理分析を行っていたが、元精神科医の囚人ハンニバル・レクターは、FBIへの協力を拒絶していた。クラリスは、クロフォードに代わって事件に関する助言を求めるため、レクターの収監されているボルティモア州立精神病院に向かう。
レクターは、当初は協力を拒んでいたものの、やがてクラリスに彼女自身の過去を語らせることと引き換えに助言することを約束する。そして、クラリスは、父親の死を受けて伯父に預けられた過去を話し、そこで明け方に伯父が羊たちを屠殺するのを目撃したことがトラウマとなっていることを明かす。
一方、新たに上院議員の娘がバッファロー・ビルに誘拐される事件が発生した。上院議員である母親は、捜査協力の見返りとして、レクターを警備の緩い刑務所へ移送させることを約束する。しかし、レクターは移送の隙をついて病院の職員や警察官を殺害し脱獄を果たす。
クラリスは、レクターの協力によって、バッフォロー・ビルの自宅へ踏み込み、暗闇の中、間一髪で犯人を射殺し、人質を無事に助け出す。
事件は解決し、その後、正式にFBI捜査官となったクラリスの元に、逃亡中の身であるレクターから電話が入る。レクターは、事件解決と捜査官への就任を祝福し、冗談めいた言葉でチルトンの殺害を予告し電話を切る。
当初、レクター博士はスタジオ側がショーン・コネリーを希望したが、コネリーはオファーを拒否、第2候補だったホプキンスに役が回ってきた。
クラリス役はジョナサン・デミがミシェル・ファイファーを希望していたが、本人がオファーを辞退、当初から売り込んでいたジョディ・フォスターが役を得る。
タイトルの「羊たち」が指すのは、クラリスの幼少期に救えなかった子羊たちであり、彼女のトラウマである。彼女がFBI捜査官となり上院議員の娘を救うことによって、トラウマを克服する(羊たちの悲鳴が止む)という物語である。
クラリスとレクター博士が対面したのは4シーン、レクター博士の登場時間は11分間に過ぎない。
クレジットでも確認できるように、本作は元々は1990年に公開予定だった。しかしオライオン・ピクチャーズは同じく1990年に公開だった『ダンス・ウィズ・ウルブズ』とアカデミー賞を分け合うことを嫌い、1991年に延期された。そして1991年2月14日のバレンタインデーに公開された。年の早い時期の公開はアカデミー賞には不利と言われていたが、主要5部門を受賞した。
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