わらの犬 | hiroチャンのブログ

わらの犬


【サム・ペキンパー】
Sam Peckinpah
アメリカ合衆国の映画監督。  


別名義:Bloody Sam 
生年月日:1925年2月21日 
没年月日:1984年12月28日(59歳没) 
出生地:アメリカ合衆国 カリフォルニア州フレズノ 
死没地:アメリカ合衆国 カリフォルニア州イングルウッド 
職業:映画監督、脚本家 
ジャンル:映画 
活動期間:1954年 - 1984年 

活動内容:1955年:『ガンスモーク』でテレビ脚本家、監督デビュー 


1961年:『荒野のガンマン』で劇場映画監督デビュー 

1969年:『ワイルドバンチ』を発表 


主な作品 

『ワイルドバンチ』  

『わらの犬』  

『ゲッタウェイ』  
『ガルシアの首』 
『戦争のはらわた』 

本国アメリカではその残酷な作風から「血まみれのサム」(原文:Bloody Sam)と呼ばれた。日本では最後の西部劇監督、もしくはバイオレンス映画の巨匠として知られる。暴力描写とそれを写し出す映像技法は映画界に留まらず、ジャンルを超えて多くの人々へ影響を与えた。


本人はインディアンの血を引いていると自慢していたが、実際はドイツ系移民の子孫で、一族の本来の苗字はベッケンバッハ(Beckenbach)だったが、米国に移民してからペキンパー(Peckinpaugh)と改め、曾祖父の代からPeckinpahとなった。少年時代は読書好きで繊細な性格だったという。
第二次世界大戦では海兵隊として従軍する。戦後南カリフォルニア大学に入学し、そこで演劇を学んだ。卒業後しばらく舞台演出家として活動する。その後テレビ局の裏方としてスタジオに入り、ドン・シーゲルのもとに弟子入りする。『ガンスモーク』、『ライフルマン』、『風雲クロンダイク』といった脚本がテレビ局に買われ、西部劇のテレビシリーズのディレクターになった。
ペキンパーが初めて監督した劇場映画は、『荒野のガンマン』(1961年)である。翌年に公開された『昼下りの決斗』(1962年)で監督としての力量を認められたものの、『ダンディー少佐』(1965年)では編集権をめぐりプロデューサーと衝突、以後しばらく映画界から干されてしまった。しかしテレビ映画『昼酒』(1966年)での優れた演出が認められ、無事復帰することになる。

『ワイルドバンチ』(1969年)では、スローモーション撮影を多用とした独特のバイオレンス描写でアクション映画に新境地を切り開いた。その反面、一般客や保守的な批評家からは、その過激な暴力表現に対する批判を招いた。

『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(1970年)はペキンパーによってベスト・フィルムであることを宣言された作品であり、彼の穏やかな一面が見られる。

『わらの犬』(1971年)はペキンパー作品でも特に暴力描写が激しい作品で、公開後物議を醸した。

『ゲッタウェイ』(1972年)は人気俳優スティーブ・マックイーンを主役に迎え初の大ヒットを記録。ペキンパー監督作品としては最も娯楽色の強い映画である。 


『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973年)はボブ・ディランが音楽を担当していることで話題になった。ペキンパー本人も棺桶屋の役で出演している。 

『ガルシアの首』(1974年) はアメリカでは惨敗したが、日本ではヒットした。しかしその次の監督作品『キラー・エリート』(1975年)『戦争のはらわた』(1977年)もアメリカでは興行的にいまひとつだったが、ヨーロッパや日本では高く評価されオーソン・ウェルズやマーティン・スコセッシらに絶賛された作品でもある。 


監督として精力的に活動を続ける半面、ペキンパーの体は徐々にアルコールや麻薬で蝕まれていた。『コンボイ』(1978年)はペキンパーのキャリアで最大のヒット作となったものの、撮影中にスタジオで見せた狂態が映画会社に嫌われてしばらく監督業から遠ざけられてしまう。

結局その5年後の『バイオレント・サタデー』(1983年)が最後の監督作品となった。 


1984年12月28日に59歳で死去。死因は心不全だった。 

バイオレンス映画、アクション映画の原点にして頂点とも言える作品を数多く世に送り出した。  


予算やスケジュールを度外視してまで作品の完成度を追求し、気に入らないことがあれば関係者を容赦なく叱咤した。 
ペキンパーの作品は、トラブルメーカーだった本人自身の経験や人生が色濃く反映したものである。 
ペキンパーはスローモーションや細かいカットを自在に編集するセンスで、映画中に過激な暴力描写を生み出した。ペキンパー独自の演出は、マカロニ・ウェスタンや同じ暴力派のドン・シーゲルの影響を受けたと言われた。また、斬新な映像表現はジョン・ウーやクエンティン・タランティーノ、ジョニー・トーに代表されるフィルム・ノワール的な作品やウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』など、今日に至るまでのアクション映画における表現手法に多大な影響を及ぼした。 
ペキンパー曰く、映画人生を通じて影響を受けた監督はドン・シーゲル、ジョン・フォード、黒澤明とのことである。特に黒澤の『羅生門』はこれまで作られた映画の中で最も優れた作品、とインタビューの中で語っている。 

俳優の高倉健はアメリカ映画を語ったインタビューで、ペキンパーも好きな監督に挙げ、『キラー・エリート』への出演オファーがあったというエピソードを披露した。 


スローモーションによる強烈な印象の『ワイルドバンチ』ラストのバイオレンスシーンは黒澤の『七人の侍』と『椿三十郎』、アーサー・ペン『俺たちに明日はない』を手本にしたものである。 

《主な作品》 
1955年 
『ガンスモーク』(TVシリーズ) 監督 

1956年 
『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』  脚本/出演 

1958年 
『ライフルマン』(TVシリーズ) 監督 

1960年 
『遥かなる西部』(TVシリーズ) 監督 

1960年 
『風雲クロンダイク』(TVシリーズ) 監督 

1961年 
『荒野のガンマン』 - The Deadly Companions 監督 

1962年 
『昼下りの決斗』 - Ride the High Country 監督  

1965年 
『ダンディー少佐』 - Major Dundee 監督/脚本 

1965年 
『栄光の野郎ども』 脚本 

1966年 

『昼酒』(TV映画) 監督 

1968年 
『戦うパンチョ・ビラ』  脚本 

1969年 

『ワイルドバンチ』 - The Wild Bunch 監督/脚本 


 
1970年 
『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』 - The Ballad of Cable Hogue 監督/製作 

1971年 
『わらの犬』 - Straw Dog 監督/脚本 


1972年 
『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』 - Junior Bonner  監督 

1972年 
『ゲッタウェイ』 - The Getaway 監督 



1973年 
『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』 - Pat Garret and Billy the Kid 監督/出演 

1974年 
『ガルシアの首』 - Bring Me the Head of Alfred Garcia 監督/脚本 


1976年 

『キラー・エリート』 - The Killer Elite 監督  



1977年 

『戦争のはらわた』 - Cross of Iron 監督 


1978年 
『コンボイ』 - Convoy 監督 

1979年 
『訪問者』 - The Visitor 出演 

1983年 
『バイオレント・サタデー』 - The Osterman Weekend 監督 


.