軍事的手段の行使・・・② | hiroチャンのブログ

軍事的手段の行使・・・②

イスラエル軍によるターミナル内のテロリスト及び管制塔内と、エプロン上にいたウガンダ兵に対する攻撃は1号機の着陸後の約3分間で終了し、6名のテロリストが死亡。105名の人質のうち3名が、ヘブライ語による「伏せろ」という指示を聞き取れなかったために、犯人グループと誤認されイスラエル軍による誤射で死亡したが、この事を事件解決後暫くの間遺族に対して隠していたことから遺族の怒りを買うことになった。
テロリスト制圧後もウガンダ兵はイスラエル兵に対して攻撃を継続し、残りの3機が到着しないために人数の上で劣勢に立たされている上、人質の保護を同時に行わなければならないイスラエル兵は苦戦したが、戦闘の最中に残りの3機のイスラエル軍の輸送機も着陸し、その増援を得たイスラエル軍が間もなく空港全域を制圧した。
この攻撃の最中に作戦司令官のネタニヤフ中佐(後のイスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフの兄)が死亡し、ウガンダ兵も20人から45名が死亡した。
また、イスラエル軍の輸送機に対する追尾をさせないために、ウガンダ軍のミグMiG-17戦闘機11機(とミグMiG-19戦闘機2機も破壊されたという)が駐機場で破壊された。イスラエル軍機に対する戦闘機や高射砲、地対空ミサイルなどによる攻撃はなかった。
攻撃開始からイスラエル軍機の離陸まで53分間の出来事であった。

救出された人質は、戦闘終了後にイスラエル軍のC-130輸送機によってエンテベ国際空港からナイロビのジョモ・ケニヤッタ国際空港に運ばれ、その後テルアビブのベン・グリオン国際空港に運ばれた。

この救出作戦を、イスラエル側では「オペレーション・エンテベ」、または「オペレーション・サンダーボール/サンダーボルト」とも呼ばれる。

人質の多くが生還したものの、イスラエル軍の攻撃時に先立ち、イスラエル人の人質ドーラ・ブロッホ(75歳)が呼吸困難のためカンパラ市内の病院に収容されていたが、事前にイスラエル軍は知らなかったため病院に取り残されてしまう。イスラエル政府は様々な交渉ルートを通じアミン大統領にブロッホの解放交渉を呼びかけたが、激怒したアミン大統領はイスラエル無視、大統領の命令を受けた2人のウガンダ軍将校が病院のベッドから引きずり出し殺害。ブロッホの遺体はアミン政権が打倒された1979年にカンパラの東32キロにある砂糖のプランテーションで発見され、イスラエルへ返還された。
アミン大統領はケニアが事件の際にイスラエルに協力したとして、ウガンダ在住の数百人のケニア人の殺害を命じている。

イスラエル軍の攻撃が成功した理由の一つは、人質が拘留されていたエンテベ国際空港の空港ターミナルビルがイスラエルの建築会社によって建築されたことが挙げられる。イスラエル企業がアミンの大統領就任前の1960年代から1970年代にかけ受注しており、空港ターミナルの施工会社は建物の図面を保有、その図面をイスラエル政府に提供した。また、解放された人質の多くが建物の内部やテロリストの数、ウガンダ軍の関与および他の重要事項を正確詳細に証言したため攻撃成功の大きな要因と言われる。

攻撃作戦立案の間、イスラエル国防軍は空港ターミナルビルの部分的な実物大模型を構築。模型の建設は実際にターミナル施工に従事した作業員が担当した。

ウガンダ政府は後に「主権を侵害された」としイスラエル軍の攻撃を非難し、国際連合安全保障理事会の招集を要求したが、アミン政権がハイジャック行為を積極的に支援したとし、安全保障理事会は最終的にこの問題に対するいかなる決議も下すことを拒絶した。またこれにより国家防衛と自国民保護における国の主権を強化する国際法上の重要な先例を確立した。

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救出に参加したサイェレット・マトカル(Sayeret Matkal)は、イスラエル国防軍(IDF)・参謀本部の特殊部隊。

主な任務はカウンターテロリズム、偵察、ミリタリー・インテリジェンスであり、戦場の敵陣地の戦略的偵察を真っ先に行う部隊である。
サイェレット・マトカルはまた、イスラエル国外での人質救出作戦を担当する。モデルとなったのはイギリス陸軍の特殊部隊・SASである。サイェレット・マトカルはイスラエル参謀本部諜報局(アマーン)に所属しサイェレット・マトカルの名は、1970年代の2つのハイジャック事件の人質救出作戦(アイソトープ作戦、サンダーボルト作戦)の電撃的成功で世界中に有名になった。

選抜により入隊が認められると、18~19ヶ月に及び小火器、格闘術、交渉術、カモフラージュ、偵察、アラビア語や英語など言語の訓練が行われる。

在籍していた著名人としては、エフード・バラック - 第14代イスラエル首相。
ベンヤミン・ネタニヤフ - 現イスラエル首相。兄であるヨナタン・ネタニヤフを含む兄弟が全員この部隊に所属していた。
モーシェ・ヤアロン - 国防大臣、第17代国防軍参謀総長。
ナフタリ・ベネット - 現ユダヤ人の家党首。経済大臣。

イスラエルの他の部隊
シャイェテット・13 - イスラエル海軍の特殊部隊。
シャルダグ - イスラエル空軍の特殊部隊。元はサイェレット・マトカルの一部として創設された。
オズ旅団 - イスラエル地上軍の統合特殊作戦旅団。

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【シャルダグ(イスラエル空軍)】
編成期間:1976年-現在
国籍:イスラエル
軍種:イスラエル空軍
任務:特殊部隊/コマンド部隊/空挺部隊
基地:パルマヒム空軍基地
シャルダグ (Shaldag) は、1976年に編成されたイスラエル航空宇宙軍所属のコマンド部隊。名称の"シャルダグ"はヘブライ語でカワセミを意味する。
5101部隊 (Unit 5101) やサイェレット・シャルダグ (sayeret Shaldag) と表記されることもある。
参謀本部直属のサイェレット・マトカル、海軍所属のシャイェテット・13と並ぶ、イスラエルでも最精鋭の特殊部隊の一つ。
シャルダグは1973年の第四次中東戦争の戦訓に基づいて創設された。この戦争の際、サイェレット・マトカルは参謀本部から直接命令を受けるという特性上、迅速な作戦行動が出来ず、その能力を十分に発揮する事ができなかった。
戦後、サイェレット・マトカルのベテラン隊員であったムキ・ベッツァー (Muki Betzer) は、戦時の迅速な作戦行動を可能にするため部隊再編に取り掛かる。1967年の第三次中東戦争ではイスラエル軍は緒戦の空軍の奇襲攻撃により航空優勢を手に入れていたが、第四次中東戦争ではシリア軍に配備されていた地対空ミサイルサイトにより空軍は甚大な被害を蒙っていた。この問題に対応するためムキ・ベッツァーは、戦時に敵地対空ミサイルをいち早く破壊するため敵地でのレーザー誘導を行う特殊部隊が必要と考え、サイェレット・マトカル内に空挺作戦を行う部隊を創設しこれがシャルダグの基礎となった。
1976年にムキ・ベッツァーを指揮官とする正式な部隊として発足し、1981年になるとシャルダグはサイェレット・マトカルから独立し空軍所属の特殊部隊となり、パルマヒム空軍基地に移動した。シャルダグは対テロ戦能力や人質救出能力も持つ部隊となる。
シャルダグの訓練期間は20ないし22ヶ月とされる。訓練はサイェレット・マトカルと同様にイギリスのSASを参考にしており、特にナビゲーション能力に重点が置かれている。訓練過程を終えた隊員にはSASの創設者である英軍人デビッド・スターリングの中東地域での戦いについて書かれた書籍"The Phantom Major"が贈られる。
《6ヶ月の基礎訓練課程》
パラシュート降下訓練
対テロ戦訓練・全天候、全地形におけるナビゲーション訓練・地上/空中の連携訓練、空挺作戦訓練・情報収集および偵察活動の訓練・医療、狙撃の特別訓練等。


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