The Thomas Crown Affair | hiroチャンのブログ

The Thomas Crown Affair


Steve McQueen -2-


《海兵隊で・・・》
1947年、マックイーンはアメリカ海兵隊に入隊。
一等兵に昇進し、戦闘部隊に配属された。当初、彼はその反抗的な態度を顕わにし、二等兵に7回降格した。
彼は週末の休暇が終了した後、無断で隊に戻らずガールフレンドの家に二週間留まり、憲兵によって捉えられた。
彼は逮捕の際に抵抗し41日間営倉入りする。
この一件の後、彼は自己改善にエネルギーを集中させると決心し、海兵隊の規律を受け入れる。
彼は北極海での演習中に他の海兵隊員5名の命を救った。タンクの中にいた5名を流氷がタンクを突き破る前に助け出した。
彼は儀仗兵に任命され、トルーマン大統領のヨットの警備に配属された。
マックイーンは1950年まで海兵隊で勤務し、その後名誉除隊する。彼は後に海兵隊時代は楽しかったと語っている。

《俳優として・・・》
1952年、G.I.ビルによる援助金を得てマックイーンはニューヨークでサンフォード・マイズナーのネイバーフッド・プレイハウスで演劇の勉強を始めた。うわさによれば、後に「King of Cool」と渾名されるマックイーンの初めての台詞は、1952年にイディッシュ・シアターのスター女優であったモリー・ピコンがプロデュースした劇中でのダイアログであった。マックイーンの演じたキャラクターが発した短い台詞は「Alts iz farloyrn ("All is lost.")」であった。この間に彼はステラ・アドラーに演技を学び、そのクラスでジア・スカラと出会っている。

彼は週末にロングアイランド・シティ・レースウェイで行われるレースに参加して賞金を稼ぎ、所有した多数のバイクの最初となるハーレーダビッドソンを購入する。
彼はすぐに優れたレーサーとなり、毎週末におよそ100ドル(2017年時点の$900と同等)の賞金を稼いで家に帰った。その後ABCの『ジュークボックス・ジュリー』(1953-54シーズン)に音楽の審査員として出演する。
マックイーンは『Peg o' My Heart』、『結婚式のメンバー』、『Two Fingers of Pride』等の劇に端役として出演。ブロードウェイのデビューは1955年の『夜を逃れて』で、ベン・ギャザラが主役であった。

1955年後半に25歳のマックイーンはニューヨークを離れ、カリフォルニアに向かった。エコーパーク地区のベスタ通りに住み、ハリウッドでの演劇の仕事を探す。『ウェスティングハウス・スタジオ・ワン』のエピソード、「The Defenders」に出演すると、ハリウッドのマネージャーであるヒラード・エルキンス(マックイーンの最初の妻、ネリーをマネージメントしていた)の目にとまる。エルキンスはB級映画が若い俳優を評価するのに適した場所だと決めた。マックイーンはロバート・ワイズの『傷だらけの栄光』(ポール・ニューマン主演)に最初の端役を得た。続いて『ニューヨークの顔役』、『マックイーンの絶対の危機』(初の主演)、『セントルイス銀行強盗』に出演する。

マックイーンの最初のブレイクはテレビ映画であった。デイル・ロバートソン主演のNBCの西部劇『拳銃街道』に出演した。マックイーンのマネージャーとなったエルキンスはプロデューサーのヴィンセント・M・フェンリーへの売り込みに成功し、『トラックダウン』に賞金稼ぎのジョシュ・ランダル役で出演することとなった。『トラックダウン』の主役は古くからのニューヨークでのレース仲間であったロバート・カルプであった。その後マックイーン主演のパイロットフィルムが撮影され、それは『拳銃無宿』のタイトルで1958年9月にCBSで放送された。
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1960年代
『拳銃無宿』のDVDのインタビューで『トラックダウン』主演のロバート・カルプは、ハリウッドにマックイーンを連れてきて、ランダルの役がもらえるようにしたのは自分だと主張している。彼は、マックイーンに「早撃ちの芸術」を教えたのだと言うのである。そして撮影の2日目には、マックイーンが彼をたたきのめしたのだと付け加えている。マックイーンはこのシリーズに出演することでよく知られるようになった。
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ランダルの特別なホルスターは、典型的な西部劇のキャラクターがリボルバーを収めたのに対して、ソード・オフ(銃身切断)のウィンチェスターライフル(メアーズレッグと渾名される)を収めることができた。しかしながら、ガンベルトのカートリッジは「より手強く見える」ということで、ダミーの.45-70が選ばれた。賞金稼ぎの一般に否定的なイメージと結びついて、ミステリーと無関心で満たされるアンチヒーローのイメージを増し、この番組を典型的なTV西部劇から卓越させた。1958年から1961年前半まで続いた94のエピソードでマックイーンはロサンゼルス、チャッツワースのアイヴァーソン・ムービー・ランチのなじみとなった。『拳銃無宿』の屋外アクションの大半は同所で撮影された。

29歳のときにマックイーンは重要なブレイクを得る。
サミー・デイヴィスJr.がラジオでフランク・シナトラについて若干の否定的な発言をした後、『戦雲』からシナトラがデイヴィスを降板させ、その役がマックイーンに回ってきた。シナトラはマックイーンに特別な何かを感じ、マックイーンの好ましいレビューから、この若い俳優がクローズアップの多くを得たことを確実にした。マックイーンが演じたビル・リンガーは、ジープを高速で運転したり、飛び出したり、トミーガンを扱ったりした。
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『戦雲』の後、監督のジョン・スタージェスはマックイーンに次の映画の役を与え、「彼にカメラを与える」と約束した。『荒野の七人』(1960年)でマックイーンはヴィン・タナーを演じ、ユル・ブリンナー、ロバート・ヴォーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンらと共演。同作はマックイーンの初のメジャーヒット作となり、『拳銃無宿』からの撤退に繋がった。無口なマックイーンの集中的な描写は、彼の経歴を描き出した。彼は射撃の際にタッチを付け加えた。それはショットガンを振って弾丸をロードする際、ショットのバックグランドの間に銃を繰り返しチェックすること、帽子の縁を拭くことなど。その仕草は共演者のブリンナーを悩ませた。彼はマックイーンが場面を盗もうとしていると主張した。
本作の悪役カルヴェラを演じたイーライ・ウォラックは自叙伝で、ブリンナーとマックイーンのキャラクターが初めて出会う葬列シーンの撮影を見ている間、自分の楽しみを隠すのに苦労したと伝えている。ブリンナーはマックイーンがショットガンを大きく振るアクションに激怒した。それは観客の注意をマックイーンに効果的に回した。ブリンナーはマックイーンと同じ場面の中で銃を抜くことを拒否した。そして、彼のキャラクターが銃を速く抜くのを望まなかった。
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マックイーンはスタージェスの次の大作、『大脱走』(1963年)にメインキャストとして出演することとなった。同作は第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜収容所スタラグ・ルフト IIIで発生した脱走事件を元にした実話であった。マックイーンが演じるバージル・ヒルツはオートバイで鉄条網をジャンプするが、保険会社が契約に難色を示したためマックイーンは実際にジャンプできず、代役として友人でバイク仲間のバド・エキンズが行った。エキンズは遠目ではマックイーンによく似ていた。後にジョニー・カーソンが『ザ・トゥナイト・ショー』の放送でマックイーンのジャンプを祝福しようとすると、マックイーンは「あれは僕じゃない。あれはバド・エキンズだ。」と言った。本作は興行的に大成功し、マックイーンのスーパースターとしての身分を確実にした。
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