惚れた男の危険な香り・・・。 | hiroチャンのブログ

惚れた男の危険な香り・・・。

【ボニー&クライド】
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本名:Bonnie Elizabeth Parker
Clyde Chestnut Barrow
別名:ボニー・パーカー
クライド・バロウ
生誕:1910年10月1日(ボニー)
1909年3月24日(クライド)
アメリカ合衆国/テキサス州 ローウェナ(ボニー)
アメリカ合衆国/テキサス州 テリコ(クライド)
死没:ボニー/1934年5月23日(満23歳没)
クライド/1934年5月23日(満25歳没)
アメリカ合衆国 ルイジアナ州
ビヤンヴィル郡 アーケディア
死因:銃撃による射殺
犯行期間:1930年頃・1934年5月23日
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ボニーとクライド(Bonnie and Clyde)は、1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返した、ボニー・パーカーとクライド・バロウのカップルである。
ルイジアナ州で警官隊によって射殺されるまで、沢山の殺人に関与し、数え切れないほど多くの強盗を犯した。当時のアメリカは禁酒法と世界恐慌の下にあり、その憂さを晴らすように犯罪を繰り返す彼等の事を凶悪な犯罪者であるにも拘らず、新聞も含めて英雄視する者も多かった。後にボニーとクライドの犯罪は何度か映画化されている。

ボニー・パーカー
テキサス州ローウェナ出身。フルネームはボニー・エリザベス・パーカー(Bonnie Elizabeth Parker)。両親と兄妹の5人家族だったが、1914年に父親が死去したため、祖母の家があるダラス近郊のセメントシティーに引っ越す。
当時のボニーは学校の成績もよく感想文で賞状を取ったりもした。そして、高校の同級生だったレイ・ソーントンと16歳で結婚し、18歳の頃からカフェでウエイトレスとして働き始める。この頃のボニーは活発でよく働き、貧しい客には店のおごりにしたこともあったという。翌年に、レイが銀行強盗の容疑で刑務所に入れられたために離婚を考えるが、結局籍はそのままに、法的にはボニーとレイとの婚姻は生涯継続されている。

1930年に彼女はクライドに出会い、彼に「危険な香り」を感じて一目惚れし、以後行動を共にすることになる。

クライド・バロウ
テキサス州ダラス近郊のテリコ出身。フルネームはクライド・チェストナット・バロウ(Clyde Chestnut Barrow)。ミドルネームが“チャンピオン”だったこともある。貧しい農家に、8人兄弟の6番目の子として生まれる。忙しかった両親に代わって、姉が面倒を見ていたが、親戚に預けられることもあった。
クライドは、子供の頃から動物虐待を行っている所を近所の住民に目撃されるなど粗暴なことで有名だった。17歳の頃に兄も所属していたギャングに入っている。クライドの初めての犯罪は、クリスマス前に行った七面鳥泥棒だった。そして、1926年に自動車窃盗で逮捕されている。

クライドは友人の家でボニーに出会うまでの4年間に、ダラス近辺で強盗を続けていた。

2人が出会った直後にクライドは逮捕され、刑務所に収監されることになった。クライドは脱獄や保釈狙いの工作などをするが、結局2年の獄中生活の後に保釈されている。その後、クライドは更生することもなく、新しく仲間になったレイモンド・ハミルトンと共に再び犯罪に手を染めていく。繁盛していた商店へ強盗に入って主人のジョン・ブッチャーを殺害するなど、事件を起こしては逃走を繰り返し、ボニー(この頃彼女は別の強盗事件で逮捕、証拠不十分で釈放になっていた)に会う為にダラスに舞い戻っている。

ボニーとクライドが再会してからも強盗と殺人は続けられ、いつしかクライドは、犯罪集団「バロウ・ギャング」のリーダーとなっていた。メンバーには、クライドの兄のバックとその妻のブランシェもおり、他にも同じような犯罪を繰り返して来た者も居た。バロウ・ギャングのメンバーは、何度か入れ替わっているが、ボニーとクライドは常に一緒だった。それからも犯行は続けられ、強盗に入った商店の主人や保安官、警察官が次々と犠牲になっていく。

ボニーとクライドたちの強盗の手口は、クライドが店に入って金を奪い、ボニーが逃走用の車で待機。逃走経路を予め計画しておき、州境を越えてしまうというものだった。当時、警察が犯罪者を追跡出来る範囲は州内に限られており、州を越えられると手出し出来なかったからである。また連邦捜査局はまだ司法省の一部門「捜査局」に過ぎず、現在のような強力な法執行機関ではなかった。

2人は逃走用にフォード社の乗用車「フォードV8」を多用した(多くの場合、盗んで調達した)。この車はその名の通り強力なV型8気筒エンジンを搭載して1932年に発売されたばかりの最新モデルで、いわゆる「アーリー・フォードV8」。当時の大衆車の中で最高の速度と加速力を備えており、一味の周到な逃走計画とも相まって、警察の車では容易に追いつけなかった。
フォード社長に対し、「貴社で製造していらっしゃるこのV8が本当に良く走るので、我々も非常に仕事がし易く、感謝している」むねの手紙をボニーとクライドが送ったというエピソードが知られているが、真偽は不明である。

そんなボニーとクライド達の犯行を警察は黙って見過ごすはずもなく、常に逃げ回る日々が続くようになっていた。ボニーは逃走中の自動車事故で火傷を負い、警察との銃撃戦でクライドと兄のバックは重傷を負った。ブランシェは警察に捕まり、バックは傷が元で逃亡中に死亡。バロウ・ギャングのメンバーも逮捕者が相次いでいった。
仲間を次々失いながらも逃げ続けていたボニーとクライドだったが、1934年5月23日、ルイジアナ州ビヤンヴィル郡アーケディアの寂れた道路を1934年式フォードV8に乗って走行中、行方の情報を掴んで待ち伏せしていたテキサス・レンジャー4名およびルイジアナ州警察の警官2名から、短機関銃で150発以上もの連射を受けた。ボニーとクライドは車で逃げ去ろうとしたが、車体を貫通してきた80発余りの銃弾を浴びて死亡(車に命中した弾丸の数については諸説ある)。車内からは軍の兵器庫からの盗品であるブローニングM1918自動小銃をはじめ、ショットガン、大型拳銃など、殺傷力の高い強力な銃器類が多数発見された。
二人の遺体はダラスにそれぞれ別に埋葬されている。
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銃撃で蜂の巣にされたフォードV8と、クライドが最後に着ていたシャツは、ネヴァダ州プリムにある観光施設プリム・ヴァレー・リゾートで2009年から公開展示されている。

残虐な行為を繰り返してきたボニーとクライドだったが、意外にも彼等を支持した者は多かった。犯罪者となった彼等を家族は咎めることはしなかったし、逃亡中に匿った者も起訴されただけで23人に上ったという。そんな背景もあって、ボニーとクライドは事あるごとに家族の居るダラスに戻ってきていた。
もちろん、全てのアメリカ人が彼等を支持していたわけではない。時の連邦捜査局長官ジョン・エドガー・フーヴァーは「アメリカの狂犬たち」と表現している。
ボニーとクライドは波乱に富んだ人生を送ったため、映画をはじめ、様々なジャンルの作品において、題材として取り上げられることが多い。
《映画》
『俺たちに明日はない』(1967年) - ボニー(フェイ・ダナウェイ)とクライド(ウォーレン・ベイティ)の出会いから死までが描かれているアーサー・ペン監督の代表作。
『暗黒街の弾痕』(1937年)- フリッツ・ラング監督。ボニー(シルヴィア・シドニー)と前科者エディ(ヘンリー・フォンダ)に纏わる物語。
『拳銃魔』(Gun Crazy, 1949年) - バートとアニーという恋仲の追いはぎ2人組が主人公。バートの幼馴染クライドが物語に関わってくる。
『鉛の弾丸(たま)をぶちかませ』(The Bonnie Parker Story, 1958年)- ボニーを主人公にしたアクション映画。
ほか・・・。

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