ソ連スパイコード名「エコノミスト」 | 1234ネットの小ネタ

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(読者の声4)以下のご意見に感想です。
(引用)「貴誌前号の「読者の声3」で「東海子氏」が、「ゾルゲ事件を公開すればソ連から譲歩が得られたという意見には疑問です」と書かれましたが、これは全くその通りです。事実、一部情報を公開しましたが、全く動ぜずに否定しました。しかし、「この背信行為は日ソ平和条約廃棄に値する」と一言添えれば、状況は全く違います。東シベリアのソ連軍を西部戦線に動かせなくなり、対ドイツ戦で敗戦が必至だからです。当時のソ連側の状況に関してソ連崩壊後公開された資料を解析して、三宅正樹氏が平凡社新書で「スターリンの対日情報工作」で書かれています。また昭和29年に東京で駐日米国大使館の助けを得て亡命したソ連の情報将校ラスボロフ中佐の所謂ラスボロフ事件で明らかになった日本人情報提供者にエコノミストというコードネームで呼ばれていたものがいました。この「エコノミスト」は、その後、実刑判決受けて刑に服しています。三宅氏はこのエコノミストが戦前日本の機密情報をソ連に提供したエコノミストと同一人物であろうと推定しています。もしその説が正しいのなら、東海子氏が書かれた「なお、当時の日本政府内にはゾルゲ系統のほかにもコード名『エコノミスト』というスパイがおり、スターリンの手文庫から彼の真珠湾攻撃計画の通報が見つかっています。この人物は摘発されずに戦後世界に滑り込んでいます」とはいえなくなります。ただし同一人物であると断定できてはいません」
(引用止め)。

1.ソ連スパイコード名「エコノミスト」とは:この人物は商工大臣と昼食をとるような社会的に高位の人物でした。ソ連問題の専門家の間では、元老の血筋につながるS.Kではないかと言われています。英国留学中にスパイに誘い込まれた可能性があります。彼はスパイとして摘発されていません。資料、「東京新聞  2005年8月13日記事」
2.1941.4の日ソ不可侵条約の意味:これは、米国ルーズベルトの敵視圧力に対抗するための日本の必死の努力の結果でした。他方、スターリンは独ソ戦(1941.6.22)が間近に迫っていたので、東部国境が安全になるこの条約を大歓迎し、松岡洋右をモスクワ駅頭に見送りに来たことはよく知られています。当時スターリンは姿を見せない神秘の指導者を演出していたので、世界的な大きなニュースになりました。資料:加瀬俊一著「戦争と外交」上巻
 
米国の厳しい圧迫下にあった日本が、対米戦争直前(1941.12.8)にこの条約を破棄することなど戦略的にあり得ませんでした。戦前の国際関係は重大な国家的対立が複数、それも同時並行的に進んでいたことを忘れてはなりません。

3.ソ連極東軍のモスクワ戦投入の背景は次のようです。
(1)ゾルゲ功績の誤解:一般にゾルゲの功績として、彼が日本の南下方針を通報したので、スターリンが極東軍をモスクワ防衛に回すことができたと言われています。しかし疑問です。なぜなら、当時の戦況は西部戦線崩壊、モスクワ占領の危機的状況にあり、スターリンに、あえて極東を守る理由がないからです。
 ソ連は大陸国家であり、日本軍の北上、すなわち東西挟撃の危険性をもっとも恐れていました。そのためスターリンはすでに1937年には蒋介石に支那事変を起こさせて日本を泥沼に引き込み、さらに1939年にはノモンハン事件を起こして日本を威嚇し、その上米国の満洲狙いをそそのかして、1941年にはハルノート原案を作って対日戦争を始めさせようとしていたのです。このため日本はすでに支那事変4年目に加えてABCD包囲網で経済封鎖され、息の根を止められようとしていました。
 (2)ソ連の対日威嚇:こうした日本の苦境は、日本政府内部の複数のスパイ系統から逐一スターリンに報告されていたので、日本軍に北上の意図も軍事的能力もないことは全部スターリンには分かっていました。ゾルゲは日本の軍事力は旧式でソ連にとって脅威ではない、と報告しています。当時欧米軍事筋では日本の軍事情報に一番通じているのは、ソ連であると言われていました。今になれば納得です。スパイで日本はズブズブの状態だったのです。
(3)甘い日本の反諜報体制:日本の憲兵隊も特別高等警察も、防諜には大甘でした。よく左翼が拷問された、とか騒ぎますが、竹刀で殴るくらいで、ソ連KGBの血の凍るような尋問と比べると幼稚園レベルでした。ちなみに、ゾルゲは日本を評して、カニのようだ、と述べています。外は堅いが中は柔らかい。諜報防衛に向いていない民族という意味です。日本は、戦後65年、未だに最重要なスパイ防止法が無いのに平気です。国際常識を知らない大馬鹿間抜けです。
(4)独ソ戦:ドイツは1941年6月22日にソ連攻撃を開始しましたが、冬装備をしていませんでした。ヒトラーは3カ月でソ連を征服できると思っていたからです。しかしロシア奥地に攻め入ったドイツ軍は、11月には補給が絶えた上未曾有の厳冬に見舞われ、モスクワ近郊で力尽きました。優秀な戦車、大砲、兵器も潤滑油が凍りつき、機能しなくなりました。食糧もなくなりました。そこに完全装備のソ連極東軍24万が投入されたので、欧州戦以来歴戦の独軍最精鋭部隊は大損害を出し、ここにドイツ軍不敗の神話は消滅しました。
スターリンはもともとドイツ軍をロシアの奥深く誘い込み、厳冬をまって反撃する予定でした。だからこそ極東軍を温存していたのです。日本が北上する可能性は全くありませんでした。この誘い込み作戦は、ナポレオン戦争のクツゾフ将軍の戦略にならうものです。そして冬将軍の到来をまっていたのです。その通りの展開となりました。

4.スターリンの大芝居:1941.11、ドイツ軍が迫るモスクワは、スターリンの邸宅は爆破され、政府機関のボルガ河畔クイビシェフへの移転が終わりました。スターリンの娘スベトラーナは新しい身分証明書を受け取りました。混乱した市内では暴徒の放火、略奪が始まっていました。
するとスターリンは突然、モスクワを死守すると宣言、略奪犯は逮捕即刻銃殺され、政府機関はモスクワに戻りました。この宣言は前線のソ連軍将兵の意気を大いに高めました。しかしその裏では、極東軍を呼び戻すスターリンの用意周到な戦略が進んでいたのです。スターリンの側近フルシチョフは、スターリンはいつも事務室に地球儀をおいて戦略を練っていたと記しています。ただその内容を知っていたのはスターリンただ一人でした。
日本人は、大東亜戦争の多くがソ連による独ソ戦に備えた東部国境工作であったことを知っておく必要があります。
  (東海子)
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