親友家(お寺)から「仕事がひと段落したのなら久しぶりに飯でも食いに来ないか」とお誘いを受け、数ヶ月ぶりで奥様(坊守)と娘さんの手料理をたらふく食べて来た。
飯を食った後は深夜までよもやま話。
例のごとく話は美術談義から始まり、やがては差別に話は展開する。
絶対的な正義はあるのか?
例えば、人を殺してはならないには誰もが明確に「駄目である」と即応するが、中東で、ウクライナでパレスチナで人殺しは英雄的な行為としていとも簡単に老若男女を殺しまわっているが、イスラエルやロシアは「国土を守る自衛権」との大義を持ち出し人殺しを正当化し行なっている。
例えば、豚肉を食ってはならないや牛を食べてはならない。そしてビーガン(動物系食品を食べない人たち)の主張は否定しないが、だからと言って他の者たちにそれを強要することは間違っているのではないのか?
正しいとする意識や常識は、それぞれの思想信条や所属する国や地域によって異なことはあるし、それらの違いは認める。
だが、どんな思想があろうが、どんな社会的政治的システムの中に生きていようが、人殺しは「絶対悪」であるという「常識」を人類は獲得することは可能なのだろうか?
差別は絶対悪であると規定しよう。
では、民族や人種や障害者への差別を公然と表明して今尚反省もせず繰り返している一部の政治屋(例えば杉田水脈・故石原慎太郎)は「悪」と切り捨てるのは簡単であるが、悪であることを理解させることは可能なのか?
例えば、所属している国家の法律に基づいた死刑判決は正しいのか?国家による人殺しではないのか?
ではそれら「絶対悪」と規定する「常識」は正しいのか?
・・・・・・こんなことを70を超えたジジイが夜更けまで話していた。