パンさんから、紐解く、
トゥバちゃん
Wikipediaよりお借りしました🙇🏻♀️⸒⸒
1972年8月9日、ソウル労働庁長と勤労福祉公団理事長を務めていた父親バン・グギュン(房極允)の長男として、ソウル特別市で生まれた。両親から音楽の道へ進むことを勧められており[6][7]、幼い頃から音楽へ情熱を注いでいた。
1989年京畿高等学校へ入学。
1991年京畿高等学校を卒業し、ソウル大学校(日本でいう東京大学)の美術学科へ入学後に大学在学中に作曲家としてデビュー。
1990年代半ばに、歌手で音楽プロデューサーのパク・ジニョンと出会い、しばしば楽曲制作のデュオを組んだ。
1996年、パク・ジニョンがJYPエンターテインメントを設立し、そこへ自身も作曲家、編曲者、プロデューサーとして入所[7][8]。
2003年~2004年、韓国内で大好評だったwonder girlsでエンターテイメントの本場である米国へ進出するべくキャンピングカーで朴ジニョンと米国内をどさ回りと洗濯係を担当しながら、アメリカンドリームを掴むべく、彼と男2人一間の部屋で過ごしていたが、まったく現地の人々にK-POPがなかなか受けず、1曲たりとも売れずで次第に金銭や生活等で大変な苦労を重ねていた時、朴ジニョンがシヒョクにいつも靴下を裏返しで洗濯を出すので、日頃のうっ憤も溜まっていた事もあり、「兄さん、靴下を裏返さないでとあれほど言ったのに!」と声を荒げて怒りが爆発して大喧嘩になった。
これをきっかけに「もうこれ以上師匠である朴ジニョンとwonder girlsを支える為に自分がついていくのは難しい」感じたシヒョクは朴とwonder girlsを置いて、先に母国である韓国へ帰国し、JYPエンターテインメントからの独立準備を始める。
色々、
トゥバちゃんの
アプローチの仕方に
合点が行かない所が、
多々あったのですが、
改めて、このパンさんの来歴を拝見して、
ああ、
芸術作品なんだなーと
活動その物が、芸術なんだと、
そういった結論に至りました。
だって、
されているんですよ(Ꙭ )!!
アメリカでの苦い体験もあり、
やはり
昨年のコラボラッシュの裏側には、
こういった過去の体験を
覆したい気持ちがあるんじゃないかと、、、
人として、
普通な感情だと思います。
他事務所の活動の仕方と
違ってあたりまえ!
パンさんと共に歩むトゥバちゃんの世界が、
やっぱり唯一無二で、私は好き☺️
チケット販売方法や、会場の事、
グッズやCDの販売の仕方、ファン層について、
他事業所のやり方を取り入れて欲しい点は、
多々見えてくるのですが、、、
孤高の生きる芸術、
トゥバちゃんの存在は、
何より尊い🥹
私の中で、ですが勝手に納得出来たのでシェアー( .ˬ.)"
ではでは、またー👋 ̖́-