ジブリ映画について(2) | 菫風日記

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以下は、私が別名義でnoteにUPした文章です。内容が此方で書いた記事の延長線上にあるので、amebaにも同じものを上げて置く事にしました。これは、前回の記事の続きです。

 

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 「ジブリ映画について(1)」で書いたように、宮崎駿の映画において「空」を「飛ぶ」事と世界を肯定的に捉える事は深く結び付いている。特に飛行機など人間社会が生み出した技術で「人為」的に空を飛ぶ場合、「飛行」は「男性」的もしくは「父性」的な自己実現の象徴でもある。その一方で「女性」的なものは、「水」や「海」、「大地」といった「自然」のイメージや「母」のイメージとの結び付きが強い。だが「女性」的なものが「水」や「大地」などの「自然」や「母」のイメージと繋がっており、それに対して「男性」的なものには「社会」や「父」や「天」のイメージが付随しているというのは決して宮崎駿の作品だけに見られる特徴ではなく、それどころか人が初めて「神話」という形で物語を生み出した頃から随所に見出す事が出来る。私達が「母なる海」や「母なる大地」などの言葉を何の違和感もなく用いるのに対して「母なる空」といった表現をあまり使わない事からも窺えるように、これらは今日の私達の無意識下にも深く浸透している強力なイメージであり、しかし私達の人格が真の意味で完成する為には最終的に後にしなければならない幻影である。それと言うのもこれらのイメージは、自己について考えずにはいられない生き物でありながら自身がどのようにして成り立っているのかを自分では知る事の出来ない私達の、その内側にある世界がどのようにして成り立っているかを朧気ながら伝えてくれる一方、私達が作り出す社会に投影されて今現在も歪に肥大し続ける事により、多くの無用な混乱を生み出してもいるからだ。そこで本記事では、ジブリ作品全体に見られるこれらのイメージを理解し、最終的には解体するため、まずは物語の歴史の最も根底にある「神話」について考えてみようと思う。

 

 私達の歴史に物語が初めて現れた時、それは「神話」という形態を取っていた。そして「神話」とは字面の通り、宗教と切り離せない関係にある物語だった。そのため「神話」について考えるなら、必然的に宗教についても考察する事になる。宗教がいつから私達の歴史に存在していたのかは不明だが、いずれにせよ唐突に出現した訳ではなく、ジャレド・ダイアモンドの『昨日までの世界』にも述べられている通り、長い時間を掛けて少しずつ、脳の進化に伴って人類の間に見られるようになったと考えられている。何万年も狩猟採集生活を送っていた人類は、獲物や捕食者に対処するため、高い推論能力を獲得する方向に脳を進化させて来た。その結果として、人間の脳内には非常に複雑な推論システムが生まれる事になった。宗教は、私達の中にあるこの推論システムと深く関わっている。つまり宗教について考える事は、自分の内側にある推論システムについて考えるという事でもある。ダイアモンド氏によれば、自分が何かの行動を起こせばそれに応じた結果が生まれる事や、そうやって自分が様々な出来事を引き起こす主体になれる事を私達が理解できるようにしているのは、私達の内側にある推論システムである。お陰で私達は、自分以外の人もまた同じくらい様々な出来事を引き起こす主体になれる事、そして自分には自分の意図というものが存在するように、どの人にもその人ごとに異なる意図が存在する事を理解できる。それどころか私達は、同種のヒト以外の動物もまた様々な出来事を引き起こす主体になり得るという事すら理解できる。私達の脳はこうした機能を総動員して他人を理解しようと試み、更には人間や動物以外の対象にも意図や主体性が存在するのではないかという推論を生み出す。私達が事象の生起の主体になり得ると見做す事の出来る対象は、川や太陽、月といった動く無生物から、花や山、岩などの動かない物体まで多岐にわたり、それらの推論からやがて超自然的信仰が生まれる。(中には、或る出来事の原因が自分の行動にあるという推論から生じた超自然的信仰もある。例えば不作に見舞われた農耕民が、今まで多くの収穫が見込めた農地から今年はあまり収穫できなかった時、その原因を自分のイレギュラーな行動に求めるような場合などがこれに該当する。)私達が太陽の動く仕組みや川の流れる理由を知らなかった時には、これらの推論が周りの物事についての説明を私達に提供していた。またパスカル・ボイヤーの『神はなぜいるのか?』によれば、私達の推論システムの一部は、私達の周囲に今生きている何かがいるかどうかを検知したりとか、木の枝が動いたのを見た時や背後で予期せぬ物音がするのを聞いた時には即座にその出来事を引き起こした何かがいるに違いないと推論したりとか、そういった事に特化している。この検知システムは過剰なまでに鋭敏で、他の解釈(例えば風が木の葉を揺らした、木から小枝が落ちたなど)が同様に有り得る場合でも其処に何かがいるという結論に飛びついてしまう。そのためこの検知システムは、本当は何もいない場所に何かを見出してしまう事もしばしばある。しかし狩猟採集生活をしていた頃の私達にとっては、獲物や捕食者が本当はいるのに見逃してしまうよりも、過剰なほど周囲に何かを検知してしまうくらいのシステムの方が遥かに有利だった。『昨日までの世界』から引用するなら、例えばサハラ以南のアフリカに生息するサバンナモンキーにとって、この猿たちを捕食するニシキヘビは大敵である。そのためサバンナモンキーはニシキヘビを目にすると特別な警戒音を出し、仲間達に危険を知らせる。そして仲間達は、この警戒音がした時は木に飛び乗ってニシキヘビの危険から逃げなければならないという事をよく承知している。だがサバンナモンキーには、ニシキヘビが通った跡を示す草むらの痕跡から敵がまだ近くにいるかも知れないという事を推測し、こんな痕跡があるという事は襲われる危険があるかも知れないといった推論をする事が出来ない。これに対して過剰検出の傾向がある人類の検知システムは、草原の中に何かが通った痕跡のような些細な手掛かりから、獲物や捕食者の存在を推論できる訳だ。とは言えこの過剰検出システムが私達にとって有利だと言えるのは、もし何かがいると思った場所に実のところ何もいなかった場合、すぐさま勘違いを修正できる性質を私達が持ち合わせていたからでもある。そうでなかったら、私達は恐怖でいつも尻込みばかりしていなくてはならなかっただろう。ボイヤー氏も述べている通り、これは明らかに適応的ではない。…ところでこのような書き方をしていると、まるで私達の内側にある過剰検出システムの修正機能が機械のように精確であるかのようなイメージを持ってしまいそうになるが、実際の仕組みは其処までかっちりしたものではない。私達には、何かがいると思った場所に実は何もいなかった…と言うか少なくとも何かがいたという確かな証拠は見出せなかったのにも拘わらず、一度「いた」と感じたら例え勘違いでもなかなかそれを手放せないような事も往々にしてある。そういう時、私達は自身の過剰検出システムの見出した検出結果を誤解だったと捨て去る代わりに、超自然的な何かが「いた」のだと思ったりする。ボイヤー氏は、こうした推論が超自然的信仰の生まれる下地になると主張している。更にボイヤー氏は、此処で言う超自然的とはどういう事であり、超自然的な概念は「セイウチ」や「金槌」のような他のありふれた概念とどのように違っているのかについても触れている。しかしそれについて理解するには、まず私達の脳が普通はどうやって様々な概念を生み出しているかを把握しなければならない。ボイヤー氏の述べる所によると、私達が何かを見たり聞いたりすると、私達の脳内ではそれに応じた特定の推論システムのセットが活性化される。どのシステムが活性化するかによって、そのものは様々な存在カテゴリーに分類される。例えば私達が「ハイエナを食べるのはズーゴだけ」という文を目にしたとする。(現実にはそんな名前の生き物など存在しない。これは思想実験の為に生み出された架空の動物名だ。)私達の脳はこの文の中の「ズーゴは生きる為に食べ物を必要としている」という情報に反応して活性化し、その活性化のパターンから「ズーゴ」を「動物」だと判断して「動物」のカテゴリーに振り分ける。「ズーゴ」が「動物」のカテゴリーに送られると、今度はそのカテゴリーに所属するもの全てが共通して持っている性質についての知識が、新しく知った「ズーゴ」という情報に付け加えられる。そのため私達は先程の一文だけで、「成長していつかは死に、特定の形をしており、ズーゴから生まれ、ズーゴとだけ交配し、生きる為に食べ物を必要としていて、ハイエナを食べる肉食動物ズーゴ」という新しい概念を作る事が出来る。実際に「ズーゴ」を見られたら、付け加えられる情報はもっと多くなるだろう。もしかすると私達はその時、「ズーゴ」がライオンを食べている場面と出くわすかも知れない。すると私達は誰に教わらなくても、目の前にいる「ズーゴ」だけではなく全ての「ズーゴ」がライオンも食べるのだろうと自然に情報を一般化して、「ズーゴ」についての知識に付け加える事が出来る。これが超自然的ではない通常の概念の形成される過程だ。新しい何かについて知る度、その何かについて全てを一から学ばなくても自然とそれだけの情報量を補完できるこのシステムは、私達が情報を人から人へと伝達する上でとても有利に働いた。では、超自然的な概念の場合はどうなのだろうか。例えば、アンデスのインディオの一民族であるアイマラの人々は、或る山を特別な超自然的存在だと信じている。アイマラの人々の間では、この山は「他の普通の山」とは違って血を流したり捧げられた供物を食べたりするなど、動物や人間のような特徴を「部分的に」持ち合わせていると思われている。またスーダンのウドゥク語を話す人々は、黒檀が「他の普通の植物」と違って他人の内緒話を聞き取り、黒檀占いという手順を通してその内容を占い師に明かすなど、「部分的に」人間のような能力を持つと信じている。このように、通常の概念と同じく何らかの存在カテゴリーに所属していて、そのカテゴリーに属するものに特有の性質なら大体全て兼ね備えているにも拘わらず、一部の性質だけがその存在カテゴリーに属する他のものとは異なっているというのが超自然的概念の特徴である。此処でのポイントは、同じ存在カテゴリーに属する他のものと比べて「一部だけが」特殊であるという事だ。そのせいで特殊さがより際立って見えるからこそ、超自然的な概念は私達の印象に残り易いのである。もっと付け加えるなら、沢山の想像を生み出す余地があればあるほど、その特殊さはより印象に残り易くなる。例えば、「或る王子が蛙そのものになってしまった。この新しい蛙は蛙のする事なら何でもする」という話と、「或る王子が蛙の姿になってしまった。王子は人間の心を持ったまま蛙の身体に囚われている」という話があったとしたら、より様々な想像を巡らせたり共感したり出来そうな後者の話の方が恐らく印象に残るだろう。なお、此処までに挙げられた例を見てみると、或る一つの共通点が目を引く。それは超自然的な存在のその特殊な部分が、どれも人間に似ているという点だ。この事からも窺えるように、人間の心には擬人化の一種とも言える傾向があり、多くの超自然的存在が自分達と同じ人間のような心を持ったものとして思い描かれるようである。(このように所属する存在カテゴリーから「部分的に」逸脱した概念を生み出し理解する能力は、日常生活でも様々な場面で活躍している。例えば、私達が「切り込みの入った円」や「棘の生えた正方形」のような図形を理解できるのは、私達の脳がこれらを「或る存在カテゴリーに属するものと多くの点で共通している」+「しかし部分的に共通していない点がある」という組み合わせで認識しているからだ。これらは厳密に言えば「円」や「正方形」には分類できないので、同じ事をコンピューターにやらせようと思ったら沢山の巧妙なプログラミングが必要になるらしい。)


 此処までは、「神話」の苗床となる超自然的信仰について何が分かっているかという話だった。次は「神話」について考える上で超自然的信仰という要素と同じくらい重要な、私達の物語に関する能力についての話だ。スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバックの著書『知ってるつもり 無知の科学』によれば、物語を理解する為にはその中に含まれる幾つもの出来事の間にある目には見えない因果関係を推論し、登場キャラクターの一つ一つを追ってそれぞれのファイルを頭の中に保持しつつ展開をなぞり、「直観心理学」なるものを働かせて誰が何を考えているのか把握できなければならない。人が木や壁にぶつかったら擦り抜けたりせずに衝突するといった推論をすぐさま働かせられる「直観物理学」の能力も求められる。狼が羊を追い掛けている場面が出て来たら、狼を動かしている力がその頭の中にある獲物を仕留めたいという欲求である事をすぐに推し量れるような、「目標指向的な動きを検知する」能力もなくてはならない。物語の中にネジ回しが登場した時は、それについて一から説明されなくても「用途から考えてそれは硬くて尖った形状をしているに違いない」と即座に予測したり、猫の爪を見たらそれが獲物を切り裂く為にある事をすぐに推測できるような、「構造と機能を関係づける」能力も重要だ。対象が同じ一つの物でも、その対象をどう見做すかで所属するカテゴリーが移り変わる事もあるので、それに応じて頭の中で行われる推論の種類を切り替えられる能力も必要である。例えば餌を探して海の中を動き回っている時の魚は生き物だが、食材として調理された魚は人工物の一種で、凍らせて誰かの頭を叩くのに使えば一風変わった道具に変化するといった具合だ。私達の意識に上がらない水面下で働いているこうした多くの推論の積み重ねの結果として、私達は物語のように複雑な情報を理解する事が出来るのである。そして何より、物語を理解する為には反事実的思考が出来なければならない。上述のような様々な推論を、本当に羊を追い掛ける狼や猫の爪やネジ回しを見た時だけでなく、そういうものが出て来る物語しか見聞きしていない時にも、言い換えると実際にそれらの出来事が起こっている訳ではない時にも働かせなくてはならないのだ。それは突き詰めれば世界の因果関係のメカニズムに対する理解に基づいて頭の中に全く別の世界を構築する能力であり、その能力があるからこそ私達は物語を楽しむ事が出来る。私達がこのような能力を持ち合わせている元々の理由は、恐らく別の行動シナリオを検討する為だったのではないかと考えられている。ちょっとした脳内シミュレーションを行い、その場の状況に相応しい因果法則の理解に基づいて異なる行動シナリオがどのような結果をもたらしそうか検討する事は、私達がどのような行動を取るべきか意思決定する上で役立って来たのだろう。またデイヴィッド・J・リンデンの『脳はいいかげんにできている』によれば、人間の脳は進化の結果、首尾一貫した破綻のない物語を作り上げるように出来ている。例えば、何か物を見る時の私達の目は、無意識の内に忙しなく動いてあちこち視点を移している。この現象は「サッカード」と呼ばれている。そんな風に忙しなく動き続ける目で見ていたら、普通ならその目を通して認識される世界もぎくしゃくした途切れ途切れのものになってしまいそうに思える。目が動いている途中には目から脳への信号が無視されるので、真っ暗に映ってもおかしくない。ところが、実際に私達が生きているのはそのような世界ではない。私達の脳が目から送られて来た細切れの映像を編集し、信号が無視された空白部分は後から情報の埋め合わせをして、途切れの無い映像が見えているように感じさせているからだ。私達に絶え間なく見え続けているように思えるのは、実際には脳が作り出した「物語」に過ぎないのだ。こうした私達の認識を調整する為の物語作りを担うのが、抽象的思考や言語、算術演算などに特化した左大脳半球である。(右大脳半球は空間把握や幾何、顔の識別などに特化しており、また言葉や音楽、表情から感情を読み取る能力も有しているらしい。)この左大脳半球の、僅かな知覚や記憶の断片を集めて物語を作ろうとする機能は、例え眠っている時でもオフに出来ないとリンデン氏は考えている。私達がレム睡眠中に夢を見るのも、恐らくはそのせいだ。睡眠は記憶の統合や定着、断片的な記憶同士の関連付けに関して恐らく重要な役割を果たしており、したがって睡眠中に見る夢と、記憶の処理にも何らかの関係性があるのではないかと推測されている。この時に何が起こっているのかはまだ明らかではないが、そうやって記憶を処理している時に左大脳半球が記憶の断片を繋ぎ合わせて破綻のない物語を作ろうとするせいで、夢は生まれるのだとされている。しかし本来なら互いに無関係だった筈のバラバラな記憶の断片を一つの物語に纏め上げようとすれば、当然ながらその内容は自然の法則を無視した超自然的な内容になる。そのため夢の中では、覚醒時には絶対に起こり得ないような出来事が起き、覚醒時と全く異なる体験をする事になる。(けれどもレム睡眠中は、論理的思考や判断、計画などを司る前頭前野、特に背側前頭前野が休んでいるため、睡眠中の私達は夢の内容が超自然的である事に疑問を抱かない。)なお、この部分は最初に書いた超自然的信仰の話とも関わりがある。何故なら夢と超自然的信仰は、どちらも本来は無関係な考えや事物の断片同士を繋ぎ合わせて一貫性のある物語にしようとする左大脳半球の機能によって生み出され、日常の知覚や認知の構造、枠組みをはみ出すような超自然的要素を含んでいるという点で同じだからだ。リンデン氏によれば宗教儀式の中には、左大脳半球がそんな超自然的な物語を生み出し易くする為に、薬物や踊り、瞑想、音楽などで人々の幻覚を誘発したり、或いはトランス状態にしたりして、通常の覚醒状態から夢を見ているような状態に移行させるものもどうやら沢山あったらしい。

 

 上述の通り、私達の内面で起こったどのような働きの結果として「神話」が生まれるのかに迫る研究は、様々な方面で行われている。その一方で、逆に私達が生み出した「神話」から私達自身の内面がどのように成り立っているのかを推し量ろうとするアプローチもある。例えばユング派の精神分析家エーリッヒ・ノイマンは、物語に於けるイメージ同士の結び付きに意味があり、その意味を分析する事によって私達の内面がどのように成り立っているのかを理解できると考えていた。物語には私達の身体から発信される情報の一種という側面もあるし、したがって発信元である私達の内側で起こる出来事の影響を必ず受けている筈なので、全く納得できない主張ではない。ただし発信された情報だけから分かる事はどうしても曖昧で限定的なので、其処から本当に何かを読み取ろうとするなら発信元である私達の身体そのものの解析も併せて行う必要がありそうには思える。ノイマンの著書『意識の起源史』では、冒頭に記したような「神話」の中の「女性」的イメージと「水」や「大地」のイメージの結びつきや、「男性」的イメージと「天」のイメージの結びつきについても述べられている。それによれば、「女性」的なイメージが「水」や「大地」や「母」のイメージと結びつくのには以下のような経緯がある。まず、私達の心は何かが生まれて来る源を「母」のようなものとして感じるように出来ている。実際に母親は今まで何処にもいなかった生命をこの世に生み出す源としての側面を持っているのだから、そう連想するのも不自然ではないのかも知れない。母親の胎内に誕生したばかりの私達は、自分を包み込んでいる円くて暗い子宮と、その中に満たされた羊水として「母」を感じている。その事から私達はやがて、「母」のイメージを「原初」や「闇」や「円」、「水」、後は子宮のように暗くて閉じた空間という連想から「洞窟」などのイメージと結びつけるようになる。「水」は「海」のイメージにも繋がっており、「海」は海霊型説話(時に洪水を起こす事もある蛇、もしくは鰻や鰐などの水棲生物の姿をした水霊が海中にいるという神話)にも見られる通り、「蛇」のイメージとも結びついている。そのようにして「原初」=「母」=「海」=「蛇」というイメージ間の結びつきが生じる。(此処での「母」=「海」=「蛇」というイメージの繋がりは、私達の先祖が魚から両生類への進化を経て水棲生物から陸棲生物になった歴史を思い起こさせなくもない。)「原初」=「海」=「蛇」のイメージが垣間見えるような神話としては、後藤明氏の『「物言う魚」たち』や『南島の神話』いわく、原初大海を泳ぐ蛇の頭上に土を盛る事で陸地が出来るボルネオ島やスマトラ島の創世神話、同じく原初大海の蛇神マライが海上に珊瑚礁を浮上させて陸地を作り、更に最初の男女を造るニューギニアの創世神話などが挙げられる。また「母」=「蛇」のイメージの繋がりが見られる神話としては、蛇女神の姿で表現される原初大海ナンムから世界の全てが始まったとするメソポタミア神話などがある。(メソポタミア神話は、旧約聖書の創世記やギリシャ神話など広範囲に影響を与えたとされている。)やがて「母」の胎内から産道を通って「穴」をくぐり抜け、外の世界に生まれて来た子どもは、母親と母胎の中で一体になっていた状態から、母親とは別個の存在になる。そしてそれまで「水」や「円」に感じられていた「母」が「女性」的な存在でもあるというように教えられる。子どもは母親の母乳を飲んで成長し、其処から豊満な乳房を持った肉体にも「母性」が見出されるようになる。乳離れして土から実った物を食べるようになると、食べ物を育み私達に生きる糧を与える「大地」も「母性」的なものとして感じられるようになる。大地は私達が死後に還って行く場所でもあり、「大地」=「母」という連想は「母」=人が生まれ、やがて還って行く場所=私達を「受け入れるもの」というイメージにも重なっている。ユングやノイマンは、全ての人が心の中に抱いているこうした「母なるもの」のイメージを「グレートマザー(太母)」と呼び、そのイメージが人の心の内側の世界に於いて何を表しているのかを辿って行くとやがて無意識の世界に辿り着くのだと考えていた。この無意識の世界というのが何なのかを理解する為には、私達が自分の内側には様々な臓器が収まっていて多様な働きをしているのだと理解しているのとはまた別に、しばしば自分の内側には一つの世界があるように感じていて、しかもその内的世界の中心には自我意識というものが存在しているのだという世界観を抱いている事について把握する必要がある。この自我意識は私達が生まれた時にはまだ存在していないが、その種は最初から私達の中にあって、成長と共にどんな人間にも芽生える。そうなると私達は、まだ自我意識が芽生えていなかった頃の私達の内側に広がっていたのは自我意識が無い世界、つまり無意識の世界だったのだと感じるようになる。そんな無意識の世界に今や自我意識が生まれ、「此処から其処までは私の自我意識が及ぶ範囲だ」と言えるような小さな領域が私達の内的世界に生まれる。私達が「私」だと認識しているのは、その領域の範囲内にあるものの事である。成長と共に自我意識が発達して行くと、その自我意識の及ぶ範囲もまた多少ながら広がる。しかしあらゆる物事についてそうであるように、私達自身の内的世界について私達が知り得る範囲も結局はごく僅かである。私達が把握できるようになった範囲のその外側には、常に私達の理解の及ばない未知の領域が広がっている。無意識という言葉が表しているのは、恐らく私達の内側にあるそういった未知の領域の事だと思われる。無意識は、私達が本能的だとか動物的だと感じて普段は抑えているような暗い衝動がやって来る場所でもあり、私達の中にあってまだ未開の「内なる自然」の領域でもある。また、「性悪説」で有名な中国の荀子は人が誰に教えられずとも先天的に持っている性質を「性」と呼んだそうだが、それと同じように誰に何を教えられるよりも前から私達の内側に存在している事を思えば、荀子の言う「性」のようなものだとも言えるのかも知れない。私達は成長するにつれて、そのように「無意識」とか「内なる自然」とか「性」などと呼ばれ、私達の自我意識がその中から生まれて来た事から「グレートマザー」のイメージで思い描かれて来た何かが私達をそう在らしめようとするままに在る事を「悪」だと見做し、其処から離れて反対方向へ行こうと葛藤するようになる。そうしようとする時、私達は自分が前方とか、もしくは「鳥」のように上方の「天」に向かって進もうとしているように感じる。この時に私達の中で生じる、自身の「内なる自然」を離れて反対の方向に向かおうとする性質を、荀子は「偽」…つまり「人為」的な「善」の性質だとしている。その性質は私達が自我意識の芽生える生き物である限り、人間なら誰もが生まれ持っているものである。けれども最初に私達が無意識の世界を「母性」的もしくは「女性」的なイメージで思い描いた事や、また恐らく私達の社会に於いて長らく成人男性が「人間」の基本形として想定されて来た関係上、物語の世界に於いてその性質はずっと「父性的」または「男性的」イメージで思い描かれて来た。だがそうなると必然的に、「女性」的イメージにはネガティブなニュアンスが、そして「男性」的イメージにはポジティブなニュアンスが生まれる事になる。この部分は、ユング派の理論を元にして物語について考える上で最大の闇でもある。私が今のやり方でずっと考え続けるなら、恐らく最終的にはこの事についても考えずにはいられないだろう。…話を戻すが、私達がそうして「天」に関連するイメージで思い浮かべるものは、現実には手の届かない幻のようなものである。何故なら私達が生き物である以上、「内なる自然」から完全に離れる事は出来ないからだ。しかし私達が私達自身の定義する「人」で在り続ける為には、実体の無い「天」に向かって絶えず進み続けなければいけない。それでいて、無意識に振り回されないくらいに「人」として確立したら、私達は自分自身の無意識とも上手くやって行く方法を知らなくてはいけない。自分の生き物としての「性」を完全否定したまま生きて行く事は出来ないからである。誰もが辿らなければならないとは言え、これは思いの他に困難な道のりだ。この、私達の心が誰しも辿らなければならない道のりを形にするのが物語である。

 

 最古の物語の一つとも言えるメソポタミア神話では、上述の通り蛇女神のシンボルで表される原初大海ナンムから世界が始まったと考えていた。しかしメソポタミア神話に於いて「水」を司る神として圧倒的な存在感を放っていたのは、地下の淡水海アプスーに住む男性神エンキだった。この辺りは、メソポタミア神話に影響を受けたと考えられる後のバビロニア神話ではより整理された形になっており、海水の女神ティアマトと淡水の男神アプスーの交合から世界が始まって、エンキ(エア)はその時に生まれた事になっている。此処までの流れを見ると、まるで最初は「母」なる存在だった「海」が「原両親」的なものに変化して行ったかのように捉えられなくもない。(何かが生まれて来るには、「生むもの」だけではなく「生ませるもの」が必要だ。それに気付くようになると、私達は「生むもの」=「母」から、「生ませるもの」=「男性」の機能も兼ね備えたものとして「原初」をイメージするようになる。それが「原両親」だ。)エンキはメソポタミアで最古の都市とされるエリドゥの守護神で、その名前は「大地の主」を意味していた。エンキの最も古くからある性格は恐らく淡水の神としてのものだった筈だが、この名前はどちらかと言えば「水」より「土」を思わせる。しかしエンキの住処が「地下」の淡水の海であった事を考えれば、それほど不思議な事ではないのかも知れない。なお、エリドゥはキスカヌと呼ばれる樹木が神聖視されていた事でも知られている。(旧約聖書に出て来る生命の樹の原型は、この樹木だと言われる事もある。)紀元前3000年紀(約5000~4000年前)末に作られたエンキを讃える詩ではエンキがこのキスカヌに例えられ、「王よ、アプスーのただ中に植えられ、大地を支配する高貴な樹木。その樹は勝ち誇った竜のように、エリドゥの町にそびえ立ち、その影はあまねく世界を覆う。その小枝を国の隅々にまで張り巡らせる果樹園!」(ジャン・ボテロ『最古の宗教―古代メソポタミア―』)と謳われている。このようにキスカヌがエンキのシンボルとして考えられる事が珍しくなかったとしたら、エンキの「地の主人」としての一面を象徴していたのはこの樹だったのかも知れない。キスカヌの樹は、後に鳥や蛇に取り囲まれた姿でデフォルメされ、色々な絵や物語の中に現れるようになった。例えばシュメール版『ギルガメシュ叙事詩』には、洪水で流されかけた樹木(この物語では樹の名前はフルップだとされている)を見つけた女神イナンナが、彼女の守護する都市国家ウルクに樹を持ち帰るという物語が残っている。樹はやがて巨木となり、梢にはメソポタミアの最高神である「風の主」エンリルを象徴する鳥アンズーが、樹の中ほどには嵐の精リリトゥが、根には蛇が棲み付く。ウルクの王ギルガメシュが根元の蛇を殺すと、アンズーは子を連れて山へ、リリトゥは砂漠へ逃走する。(キリスト教の悪魔リリスの原型になったともされるリリトゥは、元々は北風を司るエンリルの妻である南風の女神ニンリルだったとも考えられている。)他にはキシュ王エタナが「生誕の草」と呼ばれるものを求めて天界へ向かう話にも、梢に鷲のアンズーが棲み根元に蛇が棲む一本の樹木が登場する。ウルクとキシュの話に共通しているのは、樹木の根元には「蛇」がいて梢には「鳥」がいるというモチーフだ。「鳥」はエンリルを象徴する鷲である事が分かっているけれども、「蛇」が何の象徴だったのかは、明確には分かっていない。ただ「蛇」からは海を司る始原の蛇女神ナンムが連想されるし、この樹の大元がキスカヌである事や、蛇のいた場所が「地」に近い根元であった事には、何処となく地下の淡水の海に住む「大地の主」エンキが思い起こされる。このようにしてメソポタミアの神話に於けるイメージの変遷を辿って行くと、次のようなイメージが思い浮かぶ。まず、「母」=「原初」=「海」を司る「蛇」が「水」の中を泳いでいる。「水」は次第に「生むもの」=「母」から、「生ませるもの」=「男性」の側面を内包した「原両親」的な性格を帯びて行く。その「蛇」は「水」だけでなく「大地」をも司っている。やがて「蛇」は、まるで私達の意識が無意識の中から生まれて来るように地下の水中から大地を突き破って伸び上がり、そびえ立つ巨大な樹木になる。樹木は「大地」に根を張り、地下に満ちている「水」を吸収するため、下方へと根を伸ばす。ただしあまり根を深くまで下ろして「水」を吸い過ぎると、樹木は根元の方から腐って行ってしまう。その一方で樹木は、私達の心が何らかの力で無意識の重力とは反対方向に向かって引っ張られるように、「海」や「大地」とは反対方向の「鳥」が飛ぶ「天」に向かい枝を伸ばす。樹木は地下から「水」を吸い上げ、上空から降り注ぐ光を浴びてどんどん大きくなって行く。しかし目指す先の「天」は虚空であり、「水」や「大地」と違って幾ら枝を伸ばしても掴めない。それでも樹木は「天」を目指して上に伸び続けない事には生きていけない。そんな風に捉えると、私達の心がどのように成り立っているのか、ぼんやりとだが見えかけて来るような気がしなくもない。

 

 ギリシャのペルセウス神話では「グレートマザー」的なものから離れようとする力がメソポタミア神話よりも更に強く、「グレートマザー」的なものは頭から髪の毛のように「蛇」を生やした「女性」の怪物メドゥーサや、「海」の怪物ケートスなどの立ち向かい倒すべき存在として描かれる。これらの存在は、「グレートマザー」の否定的な側面である「呑み込む太母」を具現化したものだと思われる。「グレートマザー」には「子」を生み育てる「原母」としての側面だけでなく、「子」を支配し呑み込んで自分と同一化しようとする破壊的な側面もあるのだ。そして自我意識が強まり、「母」なるものから自身を切り離そうとする力が強まれば強まるほど、「グレートマザー」は「原母」の側面より破壊的な「呑み込む太母」の側面が目立つようになる。「グレートマザー」は次第に「子」を無条件に「受け入れる」優しい母親から、生贄を支配して引き裂く恐ろしい魔女や、犠牲者を丸呑みにする山姥へと姿を変える。もっとネガティブなイメージが強くなると、人間ですらない蜘蛛や竜などの動物の姿になる。「呑み込む太母」と蜘蛛が結び付いているのは、糸で獲物を束縛し捕食する姿に、「子」を縛り付け呑み込む「グレートマザー」の否定的な側面が連想されるからだろう。糸を織る行為に「女性」的なイメージがあったからというのも影響しているかも知れない。竜と「呑み込む太母」の繋がりは、上述した「母」=「蛇」のイメージの繋がりにも由来する部分があると考えられる。動物の姿だけでなく、「呑み込む太母」は「女性」的もしくは「母性」的なものに支配された「男性」の姿を取る場合もある。「女性」的もしくは「母性」的なものとは、この場合「グレートマザー」の姿でイメージされる私達自身の無意識の事である。つまり「女性」もしくは「母性」的なものに支配された「男性」のイメージが表しているのは、私達の無意識の領域からやって来る本能的な暴力性や欲求や制御できない激しい感情などに支配され、「グレートマザー」の破壊道具としてそれらが命じるままに暴力を振るう、人間性を喪失した存在の事だと考えられる。物語的に表現するなら彼等は「グレートマザー」の男性従者、もしくはギリシャ神話の魔女キルケによって豚に変えられた船乗りの男達のように、「グレートマザー」によって動物に変えられ支配された男性達に該当すると言える。(「グレートマザー」の力で動物に変えられるというモチーフには、「怪物と闘う者は、そのため己自身も怪物とならぬよう気を付けるが良い。お前が永い間深淵を覗き込んでいれば、深淵もまたお前を覗き込む」というニーチェの格言が連想される。この「深淵」とは、恐らく「グレートマザー」=無意識の闇の事だ。無意識と向かい合って意識化しようとする行為に失敗すると、逆に呑み込まれて無意識に支配され、「グレートマザー」の破壊道具=「怪物」に成り下がるという事だろう。)ペルセウス神話では、アンドロメダにケートスを遣わせるポセイドンがこれに該当する。それと言うのも此処でのポセイドンは、娘アンドロメダが女神ヘラや海のニンフより美しいと自慢したカシオペアに対し、女神達の怒りの代弁者として「海」の怪物を送り込むからだ。ペルセウスはヘルメスとアテナの助力を得て、「グレートマザー」に属するこれらの力に立ち向かう。この時ヘルメスが翼のついた空飛ぶサンダルを履いており、「グレートマザー」の領域として思い描かれる「水」や「大地」と相対する「天」に属した「男性」として現れたのは象徴的である。(しかもこの神話では、ペルセウスにもヘルメスのサンダルが与えられる。)また、ヘルメスと一緒に登場するアテナは、至る所に「グレートマザー」の否定的なイメージが垣間見えるペルセウス神話の中で非常に特異な女神である。彼女は「母」の胎内ではなくゼウスの頭から生まれた「父の娘」であり、しかも生まれた時から「男性」のように甲冑で武装していた。彼女が象徴しているのは、恐らく確固たる自我意識を持った女性ではないかと思われる。先述の通り無意識が「女性」的な姿でイメージされて来たため、それと相対するものは長い間ずっと「男性」的なものとして連想されて来た。自我意識を無意識とは反対方向に向けて引っ張る力は相対的に「父」としてイメージされ、その「父」の方向に向かって進もうとする自我意識は「男性」的な「息子」のイメージで連想された。そのようなイメージに基づいて自我意識の確立した「女性」を物語的に表現したのが、多分アテナだったのだろう。英雄の味方でもある彼女がペルセウス神話の中で重要な役割を果たしているのは、「女性」=「グレートマザー」という図式を拒絶し、両者の強過ぎる結び付きを解除する存在が、「グレートマザー」の否定的な側面に打ち勝つ上で本来不可欠である事を示唆しているのではないだろうか。恐らくそうしなければ、私達は「女性」に投影された自分自身の半身、別の言い方をすれば自分の内側のまだ理解されていなかったり向き合われていなかったりする無意識の部分と上手く向き合う事が出来ないのだ。そう考えると、ペルセウスがアテナから鏡のような盾を貰い、その盾のお陰で最初の怪物メドゥーサに立ち向かう事が出来たのは暗示的だ。何故なら「鏡」とは自分の影を投影する物で、また一度その影を自分だと理解できたなら、自己認識および自己との対決の為の道具にもなるからである。更にペルセウスは盾に映る鏡像を頼りに剣でメドゥーサの首を切り落とすが、やはり長らく「男性」的なものの象徴であるとされて来たこの「剣」が表しているのは、恐らく「裁断の原理」だと思われる。「裁断の原理」とは、人の自我意識に具わった何かを切り分ける機能の事だ。私達の自我意識が自身の内面で「私」(自我意識)と「私ではないもの」(無意識)を切り分けたり、自分の価値観に基づき周囲のものを「善」と「悪」とに分類したりするのは、その一例である。ペルセウスという英雄像が表しているものはきっと、この「裁断の原理」が正しく機能していて、自身を本能的な暴力性や欲望といった「悪いもの」の奴隷にしようとする無意識に引きずられる事のない、理想的な自我意識の姿なのだろう。次にペルセウスは、「剣」で切り倒すか、もしくはメドゥーサの首を見せ石化させる事でケートスを倒す。ケートスとメドゥーサは元を辿れば同じ「グレートマザー」の否定的な側面の化身であるため、ケートスにメドゥーサの首を見せる行為は、メドゥーサを「鏡」に映す行為との関連性が感じられなくもない。ケートスを倒したペルセウスは、この怪物の生贄にされかけていたアンドロメダを救い出し、やがて彼女と結婚する。此処でアンドロメダが表しているのは、「他者」を理解し柔軟に受け入れようとする機能である「関係の原理」だと思われる。この「他者」とは相手の人間だけに限らず、現時点での自分の価値観や世界観では理解できないもの全ての事だ。「関係の原理」を自分自身のものとして獲得するには、「他者」を理解するという困難な作業の為なら未知の領域の奥深くまで潜る事を厭わない強さが必要とされる。それが出来る人間にしか、何かを本当に生み出したり、理解したりする事は出来ない。自分は誰かによって生み出されるものを享受する側の人間だと思っていたり、理解する事に目を向けず理解される事ばかり求めたり、何かを生み出す力や受け入れる力が「支配する力」や「呑み込む力」として否定的に感じられたりする内は、自分で何かを生み出す事や、自分と異なる「他者」を理解し受け入れる事は不可能である。こうした人々は、「母」の母胎の外の世界を拒絶する幼児のように自身の内側の世界に閉じこもったり、自分以外の「他者」は全て自分の事を「母」のように無条件に受け入れるべきだという思い込みに囚われたりする。物語的に表現すれば、彼等は「母」の幻影に取り憑かれ、呑み込まれていると言えるだろう。しかし例えそんな風に現時点では何かを生み出したり理解したりする事の出来ない人間であっても、それが出来る筈の自分の半身はまだ探していない自身の内側の未知の領域、すなわち無意識の領域に必ず存在する。そしてそれを見出せた時、物語の世界の王子が冒険の末に王女と結婚して王国が「みんないつまでも幸せに暮らしましたとさ」で結ばれる完全調和の世界になるように、私達の人格は完成されたものになる。ペルセウスとアンドロメダの結婚が表そうとしているのは多分、そんな理想形に到達した私達の内面世界なのだろう。こうして自身の内側にある「グレートマザー」の幻影と戦い、否定的な「呑み込む太母」の系譜に連なる怪物の姿で立ち現れたそれに呑み込まれずに打ち勝つという「母殺し」の試練を乗り越え、「関係の原理」を自分自分自身の力として獲得した英雄は、最後に「父殺し」を経て「王」になる。此処での「父」とは「正しい」道を指し示す存在の象徴であり、私達が善悪を切り分ける時の価値基準そのものの化身だと言っても良い。初めの内、その価値基準を定めるのは私達の生きる社会である。どんな社会にも、それぞれにその中で積み重ねられて来た価値規範が存在する。その文化的社会的な価値規範は、其処に属する人間に対し、自身の無意識や欲求のままに振る舞うのではなく、その社会のルールに従って生きる事を求める。私達はその価値規範を「正義」=「父」とし、そのルールに沿って善悪を識別する。(此処で社会のルールが「父」の姿で思い描かれるのは、私達の社会がこれまでずっと「男性」の為のものとして想定されて来た歴史と無関係ではないだろう。)だが、それだけではまだ不十分だ。私達はただ決められた社会のルールに従うのではなく、自分でその価値規範が「正しい」と納得した上で、改めて自分からそのルールを選び取らなくてはならない。或いは、もし今の社会の価値規範より「正しい」ものがあると「私」の意志が判断した時は、私達は今まで従って来た古い価値規範を拒絶し、自分が「正しい」と思う新しい価値規範を以て古い「正義」と対決しなくてはならない。この場合、殺されるべき古い価値基準が間違った「地上の父」の姿でイメージされるのに対して、それより「正しい」ものがあると思う「私」の自我意識は「天」の「子」として感じられる。いずれにせよ、自分の中で「正義」を決める主体=「王」はあくまで「父」でなく自分でなければならない。そうして自分の意志で何らかの「正義」を選んだ時、私達はもはや「父」に従う「子」ではなくなる。ペルセウス神話には、ペルセウスの実の父であるゼウスの姿で「天」の父が、二人の人間の男の姿で「地上の父」が登場する。二人のうち一人は、ペルセウスの祖「父」のアルゴス王アクリシオスだ。ペルセウス神話は、このアクリシオスが「娘のダナエに息子がいれば良いのに」と望むところから始まる。その望みに応えるようにダナエはペルセウスを生み、何事も無ければアクリシオスは、自分の息子を可愛がる「父」のようにペルセウスを愛した筈だった。しかしペルセウスは普通の子供ではなく、何時かアクリシオスを殺す宿命を背負っていた。ペルセウスに殺されるのを恐れたアクリシオスは孫と娘を追放し、二人はセリーポス島という場所で暮らす事になった。其処で、もう一人の「地上の父」が登場する。それが、ダナエに横恋慕し強引に思いを遂げようとする、言い換えれば無理やりペルセウスの継「父」になろうとするセリーポス島の王ポリュデクテスだ。ペルセウスがメドゥーサを倒しに行ったのは、ダナエと結婚するのにペルセウスの存在が邪魔だったポリュデクテスが、そうするよう仕向けたからである。アンドロメダと結婚したペルセウスは、最初にメドゥーサの首でポリュデクテスを石化させ、その後に祖国アルゴスへ戻って、ペルセウスを恐れ逃走したアクリシオスの代わりに新しいアルゴスの「王」となる。しかし後に意図せずして祖父のアクリシオスを事故死させてしまい、祖父の死を悲しんだペルセウスが他国の王と領土を交換した所で、ペルセウス神話は完結する。

 

 冒険に出て「竜」や「怪物」を倒し、救い出した「姫」と結婚して「王」になるストーリーは、ペルセウス神話だけでなく多くの神話や昔話に見る事ができ、一つの類型として扱われている。日本にも、英雄スサノオが八岐大「蛇」からクシナダ「姫」を救い出すペルセウス・アンドロメダ型の神話が伝わっている。しかもこのスサノオの神話には、アテナと同じく確固たる自我意識を持った「女性」のイメージ像らしきものが登場する。それが、荒れ狂う海神スサノオを男装で迎える天照大神だ。此処でスサノオが暴れるのは冥界の「母」神イザナミに惹かれている為だが、イザナミは元を辿れば淡路島の海人に信仰されていた「海」の女神である。そして日本神話では、多くの神々の「生み」の親でもある。「母」や「海」などのシンボルがその周りに集まっている事を考えても、日本神話で「グレートマザー」に該当するのはこのイザナミだと思われる。イザナミは最後に「火」の神カグツチを生み、そのせいで命を落とす。「火」は人が「人為」的に生み出すものの象徴であり、無意識の「闇」を照らして其処にあるものの形を明らかにしようとする意識の「光」を表すシンボルの一つでもある。それを考えると、イザナミの死と引き換えにカグツチが誕生したのにも何らかの意味を感じなくもない。ただしカグツチの「火」にはイザナミの体を内側から焼く暴力的なイメージが纏わり付いていて、そのせいかカグツチはイザナミを失った悲しみに暮れる夫のイザナギによって、生まれて間もなく殺されてしまう。その後イザナギが冥界までイザナミを追い掛けて行き、その恐ろしい姿を見る展開には、「グレートマザー」が「原母」的なものから恐ろしい「呑み込む太母」に反転する心の過程が見て取れる。天照大神は、イザナミと決別したイザナギが配偶者なしで左目から生んだ子の一人である。つまり天照大神は、ゼウスの頭部から生まれたアテナと同じく「父の娘」という事になる。それを言うならスサノオも「父」から生まれた筈なのだが、スサノオは自分を「母」イザナミの息子だと明言している。両者の違いをより際立たせるように、天照大神は「天」の最高神となり、スサノオは「母」なる「海」を治める神になる。太陽神でもある天照大神は、初めて「火」の形で登場した時はすぐに殺されてしまった「光」を連想させる女神でもある。彼女は「男性」的な存在として、「太母」的なものに支配されたスサノオと対決する。二人は「誓約(うけひ)」を行い八柱の神を生むが、天照大神の生んだ神は全て男神であるのに対し、スサノオが生んだのは全て女神である。誓約が終わるとスサノオはますます暴れ、そのせいで天照大神の治める高天原の機織り女が機織り道具で陰部を突いて死んでしまう。それを知った天照大神は岩屋に籠って出て来なくなり、世界は闇に包まれる。通説では、機織り女の死は天照大神の処女喪失を示す隠喩であり、この比喩的な処女喪失と天照大神の岩屋籠りは疑似的な死を示しているとされる。つまり天照大神は、「グレートマザー」=無意識の化身であるイザナミによって支配されたスサノオに一度は敗北して死を迎える。しかし彼女は後に復活し、スサノオは「天」に拒絶されて追放される。天照大神は、スサノオを「母」のように優しく無条件に「受け入れる」女神ではなかったのだ。此処に、「女性」=「グレートマザー」という図式は否定される。受け入れられなかったスサノオは、やがて「関係の原理」を象徴する「姫」と出会って「グレートマザー」の否定的な側面を表す恐ろしい「蛇」と対決し、「裁断の原理」の象徴である「剣」を獲得する。(ただしこの後、スサノオは嘗てイザナミが行ったという「妣(はは)の国根の堅州国」の神となり、「グレートマザー」の破壊道具を連想させる「恐ろしい男性」になっている。)

 

 此処までに挙げた神話を踏まえた上で、改めて宮崎駿の映画に頻出する「女性」的なものと「水」や「大地」などの「自然」との繋がりについて考えてみると、これらが宮崎駿自身の無意識の領域に関連するイメージであった事が窺える。多分『紅の豚』のジーナや『ハウル』のソフィーが「グレートマザー」の「原母」の側面であり、『千と千尋』の湯婆々や『ハウル』のサリマンが恐ろしい「呑み込む太母」の側面だったのだろう。(ジーナやソフィーがアンドロメダ=「関係の原理」ではないと思うのは、彼女達がファンタジーの外側にいる「他者」へ手を伸ばすよう主人公に促すのではなく、ファンタジーの中に留まり続ける主人公を肯定する為の存在だからだ。)人を豚に変える湯婆々の力は、ギリシャ神話で「グレートマザー」の否定的イメージの体現者として現れる魔女キルケの、犠牲者を怪物や豚に変える能力とそっくりだ。『千と千尋』で千尋が迷い込んだのは、私達が未知の領域に踏み出して其処にあるものをより深く知ろうとする時にだけ既知の領域と未知の領域の境界線上に発生する、理解されるべく足を踏み出されてはいるが未だ理解されるには至らない世界=「異界」であると思われる。私達は自分自身についても全てを把握している訳ではなく、その内側には無意識と呼ばれる未知の領域が広がっているので、「異界」は私達の中にも生じ得る。その「異界」を、私達が自身の内側にある世界を自分なりに形にしたものである「物語」の中で表現すると、あのようになるのだろう。そんな「異界」の深部まで進めば進むほど、私達はその領域についてそれだけ深く知る事が出来る。しかし全知全能の存在ではない私達が理解できる範囲には限界があり、どうしても何処かでこれ以上は進めないというポイントに突き当たらずにいられない。そしてこの先は単なる私のイメージなのだが、『千と千尋』のように「物語」の中で「異界」が「水」に侵食されるというのは、その「物語」の表現者が自身の内側の世界を深くまで追求し、その結果「物語」として表現できる限界まで近付いている兆候なのではないだろうか。どれだけ形にしようとしても決して全貌を理解する事の出来ない無意識の世界を強引に表現しようとすると、それが深淵から侵食して来て表現者を圧倒する「水」の形になるのではないかという気がしてならないのだ。『千と千尋』で元の世界へ戻ろうとした千尋を阻み、湯屋の周囲を海に変えたのも、そういった「水」なのではないだろうか。

 

 2008年に公開された『崖の上のポニョ』は、宮崎駿監督作品の中で、この「水」=「母」というテーマが最も明確に描かれた映画である。本作では、最初から最後まで「海」が物語世界を支配している。其処には「母」なる海の女神グランマンマーレがいて、ヒロインのポニョは彼女の娘である。ポニョの父親のフジモトは人間から海の眷属になった男性で、グランマンマーレの夫ではあるものの明らかに対等な夫婦関係ではなく、どちらかと言えば「グレートマザー」の男性従者のようである。(男性従者と言っても、フジモトは先述したような「グレートマザー」に支配された獣と言うよりは、受動的で草食系の…寧ろ植物を思わせる所がある。ノイマンによれば、自我意識が「グレートマザー」から分離し始める最も初期段階の自我意識は植物的なイメージで思い描かれる事が多い。それらは花のように容易く「グレートマザー」に手折られ、「生むもの」である「グレートマザー」に捧げられる。)本作中の「海」もまた生命を「生み出す」豊饒な「原初」の海でありながら、同時に死後の魂が還って行く冥界でもある。生命の源である「原初」の海としての側面は、「命の水」の力でカンブリア大爆発が起こった直後のようになった後半の海の描写に見て取れる。冥界としての側面は、舞台が現代であるにも拘わらず何故か大正時代の夫婦が小舟で漂い、介護施設で暮らす老女達が不自由な肉体から解き放たれたかのように海中を走り回る描写から垣間見える。また、グランマンマーレが作中に初めて登場する場面では、戦艦のような船が水平線の彼方を埋め尽くすようにひしめき合い、それを見ていた者に「船の墓場」だと恐れられる箇所がある。これは、死んだ飛行機乗り達の飛行機が無数に空の果てを飛んで行く、『紅の豚』の死後の世界を思い起こさせる光景だ。極めつけはヒロインの名前で、彼女は主人公の宗介にポニョと名付けられる前は、ブリュンヒルデという名前だったとされている。ブリュンヒルデとは、死んだ戦士の魂をヴァルハラ宮殿へ連れて行く北欧の女神の名前だ。先ほどの「船の墓場」の光景と併せて考えると、宮崎駿のイメージする死後の世界とは船や飛行機に象徴される戦時中の兵士達が還って行く海や空の果てであり、だからこそポニョには死んだ戦士を迎えに来る女神の名前が付けられたのではないかと考えられる。『ポニョ』の物語は、五歳の少年である宗介とポニョが出会う所から始まる。三菱の軽自動車で職場のデイケアサービスセンターに通う母親のリサと暮らす宗介の世界は、どちらかと言えば「現実」的だ。だがポニョと出会ったのを皮切りに宗介の世界は「現実」的なものから乖離して行き、最後には海に呑み込まれて生と死の境界線すら存在しない奇妙な「異界」に変貌してしまう。その「異界」で、宗介はポニョや母親のリサの為に冒険する。だが宗介の冒険は、リサとグランマンマーレの相談の下で取り決められ、二人に優しく見守られながら行われる安全な「冒険ごっこ」だ。これは「母」のような女性に守られるファンタジーの世界でだけ「男」らしく「飛ぶ」事が出来るという『ラピュタ』や『紅の豚』と同じ構図である。『ポニョ』の場合はこの構図から「飛ぶ」モチーフが欠け落ちていて、「飛行機」の代わりに男らしさや冒険を象徴するのは「船」になっている。(『紅の豚』で描かれた「飛行機の墓場」が、『ポニョ』では「船の墓場」として描き直されているのも、その為だと思われる。)「船」は「飛行機」に比べればずっと「母」なる「海」に近く、本作における「男性」的なものの力が「母」なるものに対して過去作以上に弱まっているようにも思える。宗介とポニョはまるで産道を通る赤ん坊のように暗いトンネルを通過し、「母」(とその「男性従者」の矮小な「父」)に定められた試練を達成する。前半ではずっと宗介とポニョを引き離そうとしていた父親のフジモトは、試練を潜り抜けた宗介を認めて彼と握手を交わし、ポニョを託して去って行く。この握手の場面から私が思い出すのは、『千と千尋』の最後にハクと千尋の手が離れるシーンだ。それは千尋がハクの「母」にならずに去って行き、ハクが「母」の支配するファンタジー(もしくは死)の世界に取り残された事を象徴する場面でもあった。その時と同じく、宗介とフジモトが握手する場面では二人の手だけがクローズアップされて映っている。このシーンのフジモトの手を、あの時『千と千尋』のラストで「母」の支配する異界に留まり、彼女の眷属になった矮小な「父」の手だと捉えるなら、その手が恐らくフジモトと同じ道を辿るであろう次の小さな「父」の手に後を託すというのは、宮崎駿の自己完結を表しているように思えなくもない。この直後、ずっと海しか出て来なかった本作中の空には初めて「空飛ぶ」ヘリコプターが登場する。

 

参考文献

 

・宇野常寛 著『母性のディストピア』 集英社

・ジャレド・ダイアモンド 著/倉骨彰 訳『昨日までの世界(下)』 日経ビジネス文庫

・パスカル・ボイヤー 著/鈴木光太郎・中村潔 訳『神はなぜいるのか?』 NTT出版

・デイヴィッド・J・リンゲン 著/夏目大 訳『脳はいいかげんにできている』 河出文庫

・スティーブン・スローマン・フィリップ・ファーンバック 著/土方奈美 訳 『知ってるつもり 無知の科学』 早川書房

・エーリッヒ・ノイマン 著/林道義 訳『意識の起源』 紀伊國屋書店

・フリードリッヒ・ニーチェ 著/信太正三 訳『善悪の彼岸 道徳の系譜』 ちくま学芸文庫

・河合隼雄 著『ユング心理学入門』 岩波現代文庫

・河合隼雄 著『定本 昔話と日本人の心』 岩波現代文庫

・河合隼雄 著『神話と日本人の心』 岩波現代文庫

・河合隼雄 著『昔話と現代』 岩波現代文庫

・後藤明 著『「物言う魚」たち』 小学館

・後藤明 著『南島の神話』 中央文庫

・次田真幸 全訳注『古事記(上)』 講談社学術文庫

・ジャン・ボテロ 著/松島英子 訳『最古の宗教 古代メソポタミア』 法政大学出版局

・ジャック・ブロス 著/藤井史郎・藤田尊潮・善本孝 訳『世界樹木神話』 八坂書房

・秦寛博 編『樹木の伝説』 新紀元社