半年くらい前になります。

小田原城がリニューアルしたとのニュースをNHKで見ました。

 

そのとき、これは観に行かなくちゃと思った。

 

それが心に引っかかっていて、

9月に小田原城を訪ねる一泊旅行を計画して、

ビジネスホテルを予約。

 

立冬がもうすぐやってくる11月5日に出発しました。

 

田舎が伊豆にあるのですが、

子供の頃、

その途上、新幹線が小田原駅を止まるときに、

車窓から天守閣が見えるんです。

 

見るだけでした。

小田原の地には一度も降り立ったことがなかった。

 

小田原城といえば、

まっさきに小田原評定という言葉が連想されます。

 

延々と議論ばかりが続いて、結論がまとまらない。

そういう意味です。

 

北条家の家風でもある評定は、

民主的な制度で、誰かの独裁にならないようにしていた。

 

北条家の当主は氏直でしたが、

実権は引退した父の北条氏政が握っていました。

その弟の氏照とともに、ふたりは時代の形勢を見誤ったのでした。

 

籠城していれば、

豊臣秀吉率いる軍勢は撤退すると踏んでいましたが、

その目論見が外れ、氏政、氏照兄弟は責任をとり切腹しました。

 

小田原駅のビルを出てから数分歩いた場所に、

兄弟の墓があります。

 

 

大きい右の五輪塔は氏政の夫人、

並んだ二基の小さい五輪塔が氏政、氏照の墓石です。

 

北条家の兄弟は仲がよかった。

 

父は稀代の名将氏康です。

兄弟仲良くすることを諄々と教えこまれたのでしょう、

氏政、氏照、氏邦、氏規兄弟は父の教えに背くことがなかった。

 

戦国時代、兄弟はたいてい仲がわるく、

それが家督争いに発展し、家臣をも巻き込み、

干戈を交えることが多かったのですが、

北条家では一族兄弟の絆がかたく、

一致団結して、領土を広げてきたのでした。

 

みんなの和を大切にし、

誰かひとりによる独裁を避けるために評定することを、

北条家では重要とみなしていたのです。

穏やかな家風だったといえます。

当主は評定に参加する重臣たちの意見にも、

しっかり耳を傾けていました。

 

しかし、

長かった戦国時代を終わらせる秀吉による小田原攻めでは、

その評定がうまく機能していなかったというのが、

実情ではないでしょうか?

 

氏政、氏照のふたりの考えが独裁的になり、

豊臣秀吉には絶対降伏しないとの方針がすこしも揺るがなかった。

 

北条兄弟のなかにも、

豊臣秀吉には到底かなわないとみて、

早々と臣従し、

北条家を存続させる考えをもっていた人物がいました。

 

徳川家康と親しかった氏規です。

 

しかし、

当時の情勢としては的確な判断だった氏規の意見は、

氏政、氏照の兄たちに抑えつけられ、

その結果、北条家は滅んだのです。

 

氏政、氏照の墓石は仲良く並んでいます。

戦国時代の幕を開けた北条早雲以降、関八州に覇を唱え、

五代続いた北条家はふたりの切腹により滅び、

戦国時代の幕も閉じたのでした。

 

小田原城へは駅から歩いていける距離です。

 

水堀の向こうに隅櫓と馬出門が見えてきました。

 

 

 

正面入り口になっている馬出門をくぐって、

 

 

枡形門構造の銅門を抜けます。

 

 

空が青く、快晴に恵まれました。

 

さらに常盤木門を通れば、

 

 

天守閣がそびえる本丸に至ります。

 

 

常盤木門のなかには小田原城情報館があって、

一階には土産物の販売があり、

さらには鎧兜、着物などを貸してくれて、

武者、お姫様、忍者に変身できることができます。

料金は大人300円、子供が200円と安い!

 

写真に、その変身した観光客が写っています。

外国人も鎧兜を身に着けて、嬉しそうでした。

 

二階には甲冑や刀剣が展示してありました。

さほど展示物は多くないですが、

まぢかで刀を見ると、刃の鋭さに鳥肌が立ちました。

 

ちょうど菊祭りの最中で、

天守閣に登るまえに、本丸の広場で菊を観賞。

 

 

 

丹精を込めて育てた菊の花は、まさしく日本の美です。

 

白壁がまぶしい小田原城の天守閣は

三重四階の復元天守です。

 

 

甲冑、刀剣などの武具、絵図や古文書、

そして、当時の人々の生活用品であった食器など、

展示物がかなり充実しています。

 

小田原北条家の興亡盛衰や、

江戸時代の宿場町としての小田原の様子など、

詳しく、わかりやすく理解できました。

 

最上階から伊豆半島方面への眺めです。

 

 

リニューアルまえの小田原城を知りませんが、

観光客が大勢訪れていて、

リニューアルは大成功なのではないでしょうか。

 

宿泊予約した横浜のビジネスホテルへと向かうまえに、

小田原城をあとにして、

ちょっと立ち寄ったのがここ。

 

 

対潮閣跡、秋山真之終焉の地です。

もう建物はなく、

閑静な住宅地のなかに、この表示板だけがありました。

 

翌日、横須賀の記念艦三笠を観覧するので、

ついでに足を向けたのです。

 

観光用の小田原市街地図を見ていて、

こういう場所があるのを偶然発見しました。

日本海海戦の作戦参謀秋山真之は、

海が近くにあり、温暖で過ごしやすい小田原で息をひきとったのです。

 

東海道線の電車に揺られて、

横浜にあるビジネスホテルに向かいました。

 

一夜が明けて、

横須賀へ。

 

三笠公園では、

よこすか産業まつり2016が開催中でした。

 

そして、そのイベント特別料金ということで、

観覧券が通常よりも半額の300円。

 

 

運がよかった。

 

二度目の戦艦三笠です。

 

 

 

横浜港の貨客船氷川丸にも乗船したことがありますが、

それよりも三笠は小さいです。

 

三笠の全長131.7メートル。

氷川丸の全長163.3メートル。

 

意外にも小さい艦という印象です。

乗員は860名ですから、

かなりぎゅうぎゅう詰めだったのではないかな?

 

日本海海戦で三笠を旗艦とする連合艦隊は、

ロシアのバルチック艦隊を迎え撃ったのですが、

その旗艦はクニャージ・スヴォーロフ。

 

大きさは三笠と同じくらい。

おそらく乗員もおなじ数だったかもしれません。

 

バルト海から遥々と対馬海峡まで航海してきたため、

ロシア人の乗員は極度に疲労困憊していました。

おまけに三笠同様ぎゅうぎゅう詰めだったから、

精神的にも辛かったに違いありません。

 

七つの海を支配していたイギリスは日本と同盟していました。

航海のとちゅうはロシアの同盟国フランスの港がほとんどなく、

休息の機会が乏しかった。

そのせいで、

半年の航海の間に、おおくの乗員が亡くなったといいます。

 

日本の連合艦隊は、

自分たちの庭で戦ったようなものです。

乗員の肌つやがよくて、健康だったに違いない。

士気は旺盛でした。

 

連合艦隊は完璧にちかい勝利を収めました。

 

艦上から撮影した、よこすか産業まつりのようすです。

 

 

愛媛県松山市からの出店もあって、

試食用の瀬戸内の銀鱗煮干しを一匹つまんで、食べ、

一袋買いました。

 

連合艦隊参謀、秋山真之は松山藩出身ですから、

そのつながりでしょう。

 

松山城の観光パンフレットなどをもらいました。

いつか松山城も行きたいです。

 

横浜駅に戻って、

時間に余裕があったので、横浜イングリッシュガーデンへ。

 

無料送迎バスが西口から出発しています。

1時間に1本くらいの割合です。

10分ほどで到着しました。

 

時期によってちがいますが、

ぼくがいったときは入園料700円でした。

 

 

 

コスモスの花粉を食べている(?)のは、

ハナアブのようです。

 

 

紫陽花は秋にも咲くんですね。

 

 

 

薔薇の最盛期でした。

 

 

 

風が強くて、花が揺れ、撮影が難しかった。

 

横浜イングリッシュガーデンは薔薇がメインのようですが、

一年を通してさまざまな花が鑑賞できます。

 

一泊二日のみじかい旅でしたが、

色々楽しめて、中身の濃い、大満足の旅でした。