母は誰にも看取られる事なく逝ってしまった。
ナースから
「耳はまだ聞こえてますよ、なんでも話しかけてあげてね」と。

人は亡くなってからは暫くの間
耳だけは聞こえているんだとか。

母を抱きしめるとまだ暖かい。
「色々あったけど、私のお母さんでいてくれてありがとう、楽しかったよ!ちゃんと天国行きなよ!」と耳元で声をかけた。

後日談
担当ナースから
「星彩さんのお母様は幸せでしたよ。娘さんが毎日お見舞いに来てくれるなんて。他の患者さんのご家族でも毎日は面会時間終わるまでと言う人はなかなかいなかったです。」と教えてくれた。
続いて
「お母様は、私には自慢の娘と息子がいる。
娘はしっかりもので…」と凄く私の事を褒めていてくれたらしい。

私は号泣してしまった。

母はナースさん達にも、「今日は寒いからあったかくしなよ!あんた働き者だねー!」って
ものすごい褒めくれてやさしいお母様でした。と伝えられた。


私は、もっともっと親孝行したかった。
後悔が残っている。
そんな事を伝えた。
ナースは
「星彩さんはよく頑張ってた。
今その時にできる事を精一杯やってた様に思います。そして、親の死については
やってもやっても後悔は残るもの。
だからそれは仕方がないのよ。」

確かにと思った。
どんなに尽くしても後悔が残る。
それが親の介護と看取りなのかもしれない。


星彩さんは良く頑張っていた。

この言葉がどれだけ私の救いとなったか…。
私のやっていた事は、甘いかもしれないが
その時の精一杯だから、それで良かったんだ。
と心が軽くなった。


あれから数年の月日が経つが
こんなに、強烈なある意味「魔王」の様な母親であったが、私にとってたった一人の大事なお母さん。介護をさせてくれてありがとね!


子供2人と、要介護の父を抱えての母の介護。
大変ではあったけど、楽しんでやらせて頂きました。
私をこの世に誕生させてくれた恩返しになったかな…と少しだけ思います。

長くなりましたが、これで終わります。
纏まりのない稚拙な文章。読みにくかったらごめんなさいです🙇‍♀️


数日に渡り、長々とお読み頂きありがとう😊
次回、余談で少し父のことを書きます。
お暇があったらぜひ読んでみてください💓
では、またね!

自分が死ぬほど寂しかったから面会に行かないのではなく、死ぬほど寂しかったのを味わって来たからこそ、母が寂しくないように毎日面会に行った。。。

前々回からの続きです。

自宅で父の介護
病院で母の身の回りのお世話

トータルで5年程続きました。
日に日に弱って行く母。
どうにか生き延びてもらいたい。
でも心のどこかで、もう長くはないのかもしれない…
そんな複雑な思いで毎日お見舞いに行った。

母とは本当に色々な事があった。
幼少時、髪の毛を鷲掴みにされ
ピアノの角に頭を何度もぶつけられたり。
小学高学年の時に素っ裸で外に出されたり。
真冬の雪が降っている中、半袖一枚で外に放り出された事もあった。
他にも書き切れないが、
大人になってから冷静に考えてみると
彼女の行動は全て「お酒を飲んでいる時」
であった。
あとから「酒乱」と呼ばれるものだと知った。

ただ、酔っていなくて普通の時は
一緒にお買い物を楽しんだり
カラオケに行ったり、ごく普通の親子だった。

私の中では、良い思い出よりやはり
悪い思い出の方が多い。

そんな彼女の身の回りのお世話を
なんで毎日こなせたのか。

それは、
私の赤ちゃんの頃のアルバムにヒントがある。

父と母にとっては
私が初めての子供。

さぞかし嬉しかったんだろうね。

一枚一枚丁寧にアルバムに挟んである。
父と母に抱っこされて、ニコニコなわたし。
その時に感じた一言などが添えられたアルバムが何冊もあった。

私は一人で育ったわけではないのだ。


ミルクを貰い
オムツを変えてもらい
離乳食を作ってもらい
学校に通わせてくれた。


人よりポンコツな母親ではあったけど
死なない程度に私を育ててくれた(笑)

ポンコツな母親のおかげで
弟4人の面倒を見る事で
小学高学年の時には家事、育児が難なく、こなせる様に自然になっていた。
私が16の時に、1番下の弟が出来た。
そう、なんと16歳違い。

もちろん、半分は私が育てた。
高校?そんなものは、行ってる暇がなかった。
だって、母親またいなくなっちゃったんだもん(笑)

まぁね、なんというか
そんなこんなで、
私が20歳で初めての子ができた時
なんの苦労もなく家事育児が出来たのは
本当にポンコツマミーのおかげだと思っている。


いよいよ、母の最期。
早朝5時にナースからの電話。
「お母様に早く会いに来てください!急いで!」

弟達に緊急招集命令を出す


病室に着いたが
後一歩の所で看取れなかった。
悔しい。
昨日の夜、元気な声で「お雑煮食べたーい!」
って言ってたじゃん!!
毎日会いに行ってたやん!
なんでもう少し待ってられなかったの!

涙が溢れた…


続く









昨日からの続きです。

離婚してからと言うもの
シングルでガムシャラに働く日々。
元夫が、私の名前で多額の借金をしてからと言うもの、兎に角働くしかなかった。

時には払えず、
取り立て屋と玄関前で大口論になった。
当時は本当に凄かったからね。
ヤクザまがいの人が、玄関横の下駄箱を
怒鳴りながら蹴っ飛ばしたりさ。

でも、子供達を守る為だから
私は怯まなかった。
「どこからでもかかって来なさい
私は逃げも隠れもしないよ」
そんな感じだった。

しかし、現実はそう甘くはなく
重度の喘息の持病を持つ息子は
学校で何度も発作を起こし、
勤務先への電話はしょっちゅうだった。
今すぐ迎えにきてください。と担任。

そんな事が続き
仕事も遠回しにクビを宣告され、
最終的に、国からのお世話を受けざるを得なかった。そう、生活保護。
これだけは避けたかったの。でもこれがきっかけで、残りの借金がチャラになり少しホッとした。

払い続けた金額
総額200万円を超えていたから…

ただ
病気で働げず保護を受けたわけではないので、正社員は無理だけど、パートでは働き続けた。
足りない分を受給させて貰っていました。

そんな生活が暫く続いた後
両親の病気発覚。
母はは入院
父は自宅で要介護4の状況に。
幸い、実家から徒歩5分くらいのアパートで暮らしていた為、実家→アパートの往復は楽だった。

病院の手続き
介護保険の手続き
ほぼ毎日のお見舞い&身の回りの世話
実家の父の食事
子供達の食事や洗濯、学校のこと

全てを一人でこなした。
週3で、ヘルパーさんが来てくれてはいたので
その時だけは少し楽できたかな。
ありがたかった、ほんと。

弟達はは仕事なので無理しない程度に
父の身の回りのことを頼んだ。(夜だけ)

母は強い薬を使用していた為
脳が錯乱し、毎朝毎朝わたしに電話をしてくる。
「まだ病院来てくれないの?ねぇ?早くしてよ。
寂しいのよ!早く来てよ」
まだ午前中。面会できないのに
毎朝毎朝電話が来てた。よほど寂しかったんだろうね。
でもね、お母さん。
子供の時、私は放って置かれっぱなしで
私も寂しかったんだよ…

その時の私の心の声だった…


自分が死ぬほど寂しかったから面会に行かないのではなく、死ぬほど寂しかったのを味わって来たからこそ、母が寂しくないように毎日面会に行った。。。



続く