有能な秘書・櫻井翔(雅紀LOVE♪)の近況
ニノが、海辺の街に越したのは、春の頃。
「海を見ていたい…」
そのニノの一言で、智くんに依頼されて見つけた空き家になってた民家。
ちょっと築年数に問題あるかなって思ったけど、ニノは写真を一目見ただけで気に入ったらしく、
「ここがいい」
って資料を手にニッコリと笑って、俺を見上げた。
今まで窓も開かない都心の高層マンションに一人きりで住んでいたニノにとって、自然に囲まれたその家は、少年時代に過ごした東北の施設を思い出させたのかもしれない。
それが幸せな思い出かどうかは分からない。
ただ、良かれ悪しかれそこが彼の故郷と呼べる唯一の場所なのだから。
取り敢えず現物を見なければと、仮押さえをして、多忙な智くんのスケジュールからどうにかこうにか時間を捻り出して現地に向かうことにした。
でもその当日、緊急の役員会が招集され、もちろん役員としては下っ端の智くんがバックレるわけにはいかず、
「行きたいっ!! 行くっ!!」
と駄々をこねる我が上司をなんとか説得し、文字通り会議室に押し込んで、第2秘書の佐々木に、
「鉄壁なアシストするように(逃亡を阻止するように!!)」
と厳命して社を後にした。
数十分後、佐々木からの報告にため息が出た。
…常務、どこかの3歳児みたいにふくれっ面で社長に当たるのはやめてください…。
海辺の小さな街、小高い丘の上の小さな家。
潮風に晒され色褪せた板塀に囲まれた、古い木造平屋造りのどうってことない普通の民家。
車から降りたニノは、ゆっくりと近づいて古ぼけた木戸を押した。
足元の雑草を踏みながら、キラキラした目で中を覗いて行くニノを、俺は木戸に凭れて見ていた。ほっそりとした背中から、隠しきれない高揚感が感じ取れる。
遠慮なんかではなく、ほんとに気に入ってくれてたようだ。
「わぁ!」
その姿が家の裏に消えたと思ったら、不意に声が聞こえた。
「どうした!?」
慌てて後を追う。
…ニノは、掃き出し窓の前に設えられた、朽ちかけたテラスの端に座っていた。
ぼんやりと遠くを見つめている。
その先にあるのは、海、空、遠くの連なる島。
この家は、裏庭から何の障害物もなく海を見渡せるようになっていた。
午後の陽射しに煌めく水面。
眩しい細かな光が、ニノの体を縁取るようにキラキラ踊っている。
俺は、ゴシゴシと目をこすった。
海と、雑草だらけの庭と、古い小さな家、そして頭上の青い空。
全てがニノを包み込んで、優しく抱きしめてくれているようで…。
俺は、込み上げてくるもの抑えるために、少しの間動けずにいた。
この場所が、ニノを受け入れてくれた…、そう思えたんだ。
それが、とても嬉しくて。
それまでニノを覆っていた暗い影が、一瞬で霧散した気がした。
そんな超常現象的なことなんて、普段は微塵も信じたりしないくせに。
「その板、大分古くてささくれてるから、怪我しないように気を付けて」
幻想を振り払うように近づきながら声を掛ければ、
「もー、子供じゃないし。翔さん、過保護」
微笑んだ顔が穏やかで、細い肩にも憂いも何もなくて、俺はまた泣きたくなってしまった。
これから、ニノの新しい故郷になるこの家。
きっと、我が上司はここに通い詰めることになるんだろう。
…スケジュール管理のことを思うと、胃が痛くなるが、それを糧として馬車馬の如く働いていただけるのなら、俺は何も言うことはない。
ふふ…。
(翔ちゃん、悪い顔~)
雅紀がいたらきっとそう言うであろう黒い笑顔を一旦は納めて、時間の許す限りニノの隣に座って海を眺めていた。
あ、きっと、雅紀もここに来たがるな。
優しすぎるアイツは、身も心も削られるようなキツイ事件のあとは、すっかり抜け殻のようになってしまう。
そんな時、ここに来ればきっと元気になれる。
ニノは煩がるかもしれないけど、そこは勘弁してもらおう。
あ、夏とかみんなでバーベキューもいいな。
このテラスをちょっと広くしてテーブルと椅子を置いて。
でも、絶対俺が焼き専門になりそうだな。それはちょっと勘弁してほしい。
あ、それから…
「翔さん、顔が崩壊してます…」
「え、そお?」
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智くんは当初、ニノと自分のマンションでそのまま一緒に住むつもりでいた。
でも、ニノは拒否して、俺も反対した。
「どうしてダメなのさ」
そのことを知った雅紀に詰め寄られた。
「ニノは辛い思いをずぅっとしてきたんだよ?やっと幸せになれたのに、それを奪っちゃうの?」
「そんなワケないだろ…」
「でっ、でも、翔ちゃんは、二人を、離れ離れにしようとしてるじゃん!」
黒目勝ちの大きな目を、もっとひん剥いて俺に詰め寄る。
ニノを大好きな雅紀。
”ニノ”と命名したのも雅紀。
たった一歳しか違わないのにやたら兄貴ぶって、ずっとニノに絡んでいた。
「相葉さん、うるさい…」
ニノがこっそり俺に零していたことは秘密だけど、雅紀はあの事件の余波がニノに降りかからないようにと必死だったんだ。
組織が一斉検挙されて、薬物以外の余罪が追及され始めた頃、ニノの周辺にビンビンに神経を尖らせていて、何があっても自分がニノを守るんだと口癖のように言っていた。
「好き同士、一緒が一番なんだよ!」
ニノの身辺を警戒してるときの鋭い眼差しとは真逆の茶色いビー玉みたいな目に涙を一杯に溜めて、尚も俺を責める。
「ま、待て、泣くな!」
雅紀の涙にめっぽう弱い俺は、なんとかそのダムが決壊するのをせき止めようと、胸倉を掴む雅紀の腕を必死に抑えて、
「ニッ、ニノがいると、危険なんだよ!」
つい怒鳴ってしまった。
後で雅紀が言うには、”見たこと無いような苦しそうな顔”だったそうだ。
「……どういうこと?」
驚きで涙が引っ込んだ雅紀が首を傾げる。
事件が収束し、雅紀の警戒網がようやく緩められた年明けから、ニノは秘書室で俺の補佐をしてくれるようになった。
そして分かったこと。
ニノはあらゆることに秀でていた。
本人が望んだではないとしても、ニノは社会の最上層部の人間と渡り合ってきた。
例えそのカラダは組み敷かれようと、相手よりも勝る何かを備えて有利な立場に身を置くことが彼のプライドを守る手段だった。
もちろん一流の相手に付け焼き刃の知識など通用しない。
ニノの知識は深く広く、複雑な世界情勢をも的確に掴んでいた。
また、その情報処理のスキルも半端なかった。
だから、俺は彼に正式に入社してもらって自分をアシストして欲しいと心から望んだんだ。
「ね、ニノ、このままこの会社で働いて、俺を助けてくれない?」
智くんに話す前に、先に本人の意向を確認しようと、俺のデスクで大手のクライアントの来年度の事業展開についてのデータを猛スピードでまとめてるニノにさり気なく聞いてみた。
「それはムリです」
ニノは顔も上げずにあっさりと拒否した。
「…悪い話じゃないと思うけどな。俺は、ニノのスキルが欲しい。なぜダメなんだ?」
予想外の返事に戸惑いながら、その理由を問いただせば、
「このデータの相手、…大野コーポレーションのお得意様の社長さん、…オレの顧客でした」
「…え…」
淡々と答えるニノに、俺は息を呑んだ。
カチカチ、キーボードの上を指が滑る音だけがしばらく響いて、ディスプレイから目を逸らさずに、ニノがふぅっと息を吐いた。
「…オレ、どこか離れたとこにいた方がいいですよね」
「…うん、そうしてもらえればウチとしても助かる」
「じゃ、海の見えるとこがいいな」
「…ごめんな」
「翔さんが謝ることじゃないです」
淡々とした声が心に刺さった。
ほんの小さな火種がいつの間にか大火となり全てを焼き尽くす…。
激化する競争社会、それは日常。
どこかが沈み、どこかが浮上する。
今は浮いていたとしても、明日もそうとは限らない。
危険分子は一刻も早く遠ざけなければならない。
例えそれが智くんの想い人だとしても。
雅紀の大事な弟分だったとしても。
「大丈夫です。カゴノトリ、慣れてますから」
あくまでも何でもないことのように、指の動きを止めることなくディプレイにグラフを描きながら、口元には笑みさえ浮かべているけども、
「ニノ、この時代、どこにいたって仕事は出来る。」
頬が青ざめて、肩がわずかに震えてる。
「なんとしても我が社でガンガン働いてもらうよ」
こんな仕事をしているとね、人の心の機微に敏感になるんだ。
俗っぽく言えば、顔色を読むってことだけどね。
「…え?」
「その海の見える場所を秘書室の分室としてね」
ほんのちょっと指のスピードが落ちた。
「いいね?」
「…はい」
「よろしくね」
「……はい」
ほら、顔色も変わった。
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帰り道、水曜、午後4時。
渋滞もなく、まるでドライブ気分で高速を走らせる。
少しだけ窓を開けてしおかぜを取り込む。
爽快だ。
一瞬、智くんのふくれっ面が浮かんだけど、常務、これも仕事の一環ですので。
しばらくの間、今後の段取りなどを話していたが、ふと途切れた会話の隙間に、
「…翔さん、ありがとう」
優しい呟きが聞えた。
チラリと横を見ると、海を見ていた時と同じ、穏やかな横顔。
「どういたしまして。ま、今後ニノが我が社に貢献してくれれば、それで十分だからさ」
「…オレに出来る事なら何でもするから」
「早急にまとめたいデータがあるんだよね。早速明日から頼むよ」
「了解」
恥じらいを含んだような小さな返事が、愛おしい。
…だから常務、仕事ですから。
「それに、明日から3日間、常務が出張で俺も同行するんだ。良かったよ、その間にニノに書類を片づけてもらえる」
「智がいないとオレも捗るかも」
「なんなら1週間くらい戻ってこない方がいいかもな」
ハハハ…、と笑えば、
「それはダメ、オレが死んじゃう」
「……」
「ふふ…」
サラリと可愛いコトを言う。
出逢うべくして出逢った二人。
離れがたい二人。
どっちもどっちってことだ。
その日の内に不動産会社とリフォーム業者に連絡を入れ、作業を開始させた。
そして桜の咲くころニノは一人、海辺の街で暮らし始めた。
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危険分子を遠ざけることは最優先事項。
でも優秀な人材は決して手放すことなく、我が『大野コーポレーション』の益々の繁栄のためにその能力を存分に引き出し活用することも最必須事項。
ニノは静かな環境で存分に成果を上げてくれている。
(…週2ほどの頻度で訪問者があるようだが…)
取り敢えずは、ALL OK 。
全ては優秀な秘書室長、櫻井翔の英断による結果であると思われる。
(翔ちゃん、カッコいい!)
お? 雅紀の声が聞えた気がしたが…。
ふっ…
俺も、相当…。
さ、次の業務にとりかかろう。
続くかも…。