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輪島功一が焼き鳥店ではなく“だんご店”を始めた理由は?〈週刊朝日〉

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輪島功一が焼き鳥店ではなく“だんご店”を始めた理由は?〈週刊朝日〉
輪島功一(わじま・こういち)/1943年、樺太生まれ。25歳のときプロボクサーに。3年後、世界タイトルに初挑戦し、王座獲得。タイトルを奪われても、2度にわたって世界王座に返り咲く。そのがむしゃらな戦いぶりは見る者を熱狂させ、「炎の男」の異名をとった。...
 著名人が人生の岐路を振り返る「もう一つの自分史」。今回は1970年代、プロボクサーとして日本中の注目を集めた輪島功一さん。もしボクシングと出合わなかったら、あのときあの試合を戦う選択をしていなかったら……。過酷な少年時代を過ごし、ただ自らを信じ、自らに挑み続けた男が、その哲学を語りました。

*  *  *
 東京に行けばどうにかなる。そう考えて、高校を中退して何のアテもなく北海道から出てきた。いくつか仕事を変わって、ボクシングを始めたときは建設会社で働いてた。

 当時は東京オリンピックの建設ラッシュでね。人の何倍も働いて、歩合制だったから、半年でサラリーマンの年収の何倍もためたんだぜ。

 現場から帰る途中、車の窓から「三迫ボクシングジム」って看板が見えてたんだよね。若いから体力も余ってたし、いっちょやってみるかって。酒やばくちに使っちゃうより、体動かしてクタクタになって寝ちゃえば、無駄遣いしなくて済むかな、とも思ったしね。

 中にリングがあって、大勢がグラブ持って練習してる。「あと4カ月で25歳なんですけど、それでもできますか」って聞いたら、「金さえ払えばいいんだよ」なんて偉そうに言われたよ。

 ジムにいるのは、一発当ててやろうっていう16、17歳の若いのばっかり。25歳っていったら、同い年のファイティング原田が引退するのとほぼ同じ頃だからね。コーチも先輩も相手にしてくれない。やりたきゃ勝手にやってろって感じだった。

 コノヤロー、だったら注目させてやるって、誰にも負けないぐらい練習に打ち込んだんだよね。ほかのヤツがコーチに教わっているのをさりげないふりして聞いてさ。

「試合したい」って言い続けたら、ボディービル上がりのムキムキなヤツと戦うことになった。参ったな、って思ったけど、ガンガンいったら1回でKO勝ちしちゃった。

――デビュー戦から12連勝。うち11戦がKO勝ち。全日本ウエルター級の新人王になり、日本王座も獲得した。ガッツ石松は同じ年のライト級の新人王だった。
 勝ち出すと現金なもんでね、周囲の目も変わってくる。コーチがついて指導してくれるようになったし、ジムの後援会の人が、高い肉を食わせてくれたりね。自分だって、もしかしたら世界チャンピオンになれるんじゃないかって思いはじめたよ。

 ただ、世界戦に挑戦するには、世界ランキングに入らないといけない。そしたら東洋チャンピオンと対戦する話を会長が持ってきた。

 勝てば世界ランク入りできるってね。でも、ノンタイトルでノーギャラだって言うんだ。ちょっと迷ったけど、「やります」って言ったよ。会長、びっくりしてたね。

 俺も日本チャンピオンだったから、そりゃねえよって話ではあるんだ。それでもやらなきゃチャンスはつかめない。あんとき断ってたら、どうなってたかなあ。チャンスなんて人生でそう何度もあるもんじゃないからね。

 目先の金なんてどうでもよかった。こっちは年寄りボクサーだから時間がない。とにかく必死だったんだよ。

――その試合にKO勝ちした輪島は勢いを得て、1971年10月にカルメロ・ボッシ(イタリア)と戦い、判定勝ちで世界ジュニアミドル級のタイトルを獲得する。実は東京に出てくるまでの少年時代も闘いの連続だったという。

 生まれたのは樺太。敗戦で北海道に引き揚げてきた。オヤジは向こうで材木の仕事を手広くやってたんだけど、引き揚げるときのゴタゴタで全財産を失っていた。

 旭川の北のほうにある士別って町で暮らしたんだけど、冬は零下30度、35度になるところでさ。家の中で凍死してもおかしくはなかった。小学校6年のとき、漁師をやってる親戚のとこへ養子にいったんだ。「腹いっぱい食えるぞ」って言われてね。

 夜中は船に乗り、朝方帰ってきて、そのまま学校へ。ふとんで寝た記憶はあんまないな。授業中はほとんど寝てたね。だけど成績はけっこうよかったんだぜ。5、5、5、4とかだった。ホントだよ。

 振り返ればつらい生活だけど、そんなふうに思ったことってなかったなあ。恨み言言ってもしょうがない。そのときにやれることをやればいいんだ、誰にも負けないぐらいがんばればいいんだ、ずっとそう思ってやってきた。
 そのまま漁師になるのかなと思ってたけど、ひとつ問題があったんだよ。とにかく船酔いがひどかった。4年ぐらいやったけど、こりゃもうダメだと思って、高校1年のとき逃げ出して士別の家に帰った。

 士別に戻ったが、「何となく高校を出ても、中途半端なことしかできない」と思い、上京を決意したという。

 東京に出て7年目ぐらいにボクシングを始め、28歳で世界チャンピオンになった。6回防衛したけど、7回目に15回KO負け。自分では立ち上がれないほど、コテンパンにやられた。病院に運ばれて、そのまま入院だよ。

 あのときはオーバーワークで、体が動かなかった。相手に負けたわけじゃない。

 そう信じていたから、あそこで引退するわけにはいかなかったな。

 3日で病院を飛び出して家に帰った。点滴じゃなくて、口でものを食べないと胃腸が弱っちゃう。最初は食べたものを吐いてたけど、徐々に食べられるようになってきた。

 もう結婚しててね。「これ以上やって死んじゃったらどうするの」ってカミさんには反対された。そのうち何も言わなくなったよ。「バカじゃないの」って思ってたらしい。いや、バカなんだけどさ(笑)。

――敗北から7カ月後、同じ相手に雪辱。ふたたびタイトルを獲得した。初防衛戦で韓国の柳に7回KO負けを喫したが、8カ月後にまたも雪辱を果たし、みたびチャンピオンになった。

 もう引退したほうがいいって言う人はたくさんいた。3度目の世界チャンピオンになったときも、このまま引退しろ、そうすればいつまでもチャンピオンでいられる、なんて言う人もいた。実際そういう辞め方をしたボクサーもいたけど、俺とはわかり合えないな。「あいつはまだ金が欲しいのか」なんて声も聞こえてきたけど、意に介さなかったよ。

 金の問題じゃないんだ。

 勝って辞めるなんて、勝負師としてそんなひきょうなことができるか。参った、もう戦えない。そうなってから辞めるのが勝負師じゃないのか。勝ったまま辞めたら、ボクシングやってきた自分に申し訳が立たない。そう思ったんだ。
 3カ月後にスペインのデュランに負けたときは、「さすがに、もう引退だろう」と誰もが思ったらしいけど、まだいける自信があった。やり切った、とは思えなかった。これまでだって「勝ち目はない」と言われた試合に勝ってきたんだしね。

 だけど、34歳のロートルが4度目のチャンピオンになれるほど、ボクシングは甘くなかったね。ニカラグアのガソとやったんだけど、11回KO負け。初めてタオルを入れられて、俺のボクシング人生も、そこでジ・エンドです。

 もっとスマートなやり方もあったかもしれない。でも、俺はそういう不器用なボクシング人生を送ったことを誇りに思ってる。誰にも負けないぐらいがんばった。それは自信を持って言える。

 余力なんて残さずに全力をぶつけないと、ホントのところは何にも手に入らない。第一、やってても面白くないじゃない。

――引退後に選んだ道も、世間の意表を突いた。輪島が始めたのは、おだんご屋さん。知り合いの店で修業を積んだのち、「だんごの輪島」をオープンした。

 焼き鳥屋をやらせてやるって人もいたんだよ。5店舗ぐらいなら、資金も従業員も用意してやるってね。だけど、酒の商売をやったら、客とケンカしちゃうかもしれない。ほら、すぐカッとしちゃうほうだからさ。

 その点、だんごなら心配ない。近所のおばちゃんたちが、毎日楽しみに寄ってくれる。カミさんとふたりで店を切り盛りして、1本25円ほどのだんごを買ってもらって、たまに新しい商品を考えたりして、楽しかったな。今はカミさんの妹夫婦に任せてるんだけど、けっこう近所の人にひいきにしてもらっているみたいだよ。

 今は「輪島功一スポーツジム」に来ている若い選手が、成長して活躍してくれるのが楽しみだね。

 それと、ぜひ言っておきたいんだけど、裁判所は(確定した死刑判決の再審開始が認められた後、取り消された)袴田巌さんを早く無罪にしてやってほしい。彼は元ボクサーなんだけど、本当にああいうことはあっちゃいけないんだ。
 ボクシング界全体で支援活動をしてきて、だんだんわかってきたんだけど、偏見が捜査に影響してるんだよね。「ボクサーだから、やったに決まってる」って。今でもボクサーっていえば荒くれもののイメージがあるけど、それが悔しくてさ。

――もう一度20歳に戻ったとしたら、またボクシングをやっただろうか。

 ボクシングを選んだかどうかはわからないけど、がんばればがんばっただけ何かをつかめるっていう道に、きっと進んだだろうね。

 とにかくボクシングに全力で打ち込んだから、運を引き寄せることができたと思ってる。ほかのスポーツや仕事だったとしても、がむしゃらに不器用にやっただろうね。そんなやり方しかできないから。

 ただ、漁師だけは無理だったな。人生、努力じゃどうにもならないこともあるんだよね。

(聞き手/石原壮一郎)