球界のご意見番張本勲氏が「現役時代に見た投手で一番凄いカーブを投げた投手は」と言う質問に「一番凄かったのは金田留広投手のカーブ、彼のカーブは視界から消える様なカーブ同じチームで本当によかった」と言及している、その金田留広投手の兄は球界のレジェンド金田正一投手だが留広投手は兄正一投手を超越した処もあるのである❗❗❗

金田留広投手は1969年、愛知学院大学から東映フライヤーズに入団(後の日拓ホーム➡日本ハム)噂に違わぬ鋭いカーブは1年目から冴え渡り59試合に登板し18勝13敗、防御率3.63、奪三振158と言う新人らしからね成績を残し東映のエースとなった~★兄金田正一のルーキーイヤーは8勝だっただけに金田留広投手はルーキーイヤーの成績は大きく兄を超越したのである、しかしこの年の新人王は打率.285で22本の本塁打を打ったミスターロッテ有藤道世さん、金田留投手は新人王争いで涙を呑んだのである❗❗❗

翌1970年2年目のジンクスなどものともせず53試合24勝16敗、316回1/3イニングを投げ防御率2.71、奪三振246を記録、兄正一投手も2年目に20勝を挙げるが22勝だったので留広投手は2年目の成績も兄を超越した、しかしこの年はロッテのエース成田文男投手が快刀乱麻の投球で25勝を挙げロッテの優勝に貢献、金田留投手は奇しくも最多勝を逃したのである~⚾1971年も51試合15勝14敗、防御率2.99、奪三振187をマーク、入団から3年連続で15勝以上を挙げパ・リーグを代表する投手に成長した❗❗❗


★1972年は51試合20勝12敗、防御率3.24、奪三振178、完封勝利4、無四球試合2で2度目の20勝を挙げ阪急の山田久志投手と最多勝を分け合った、兄正一投手が最多勝の獲得したのはプロ入り8年目だったのでここでも留広投手は兄を越えた~★またこの年の9月22日の南海戦では満塁ホームランを打っており、パ・リーグの投手の満塁ホームランはこのホームラン以来出ていない~⚾1973年東映から日拓ホームに身売りしたフライヤーズに全くチームの調子が上がらず低迷、金田留投手も37試合7勝16敗、防御率3.77と大きく負け越し、その年のオフに兄金田正一が監督のロッテにトレードが決まった❗❗❗

移籍1年目のキャンプで兄正一監督は「留が昨年7勝だったのは慢心以外何者でもない」と留広投手を叱責、キャンプでは留広投手をスパルタの如く徹底的に鍛えあげた~★その1974年金田留投手は大奮起36試合に登板し16勝7敗、防御率2.90、奪三振138で最多勝を獲得しロッテの優勝に大貢献、兄金田正一を優勝監督にし自身もシーズンMVPに輝いた~★このMVP獲得に兄正一監督は「わしは弱小チーム国鉄にいた為MVPには縁がなかった、留は幸せなやつよ」とコメント、ここでも留広投手は兄を越えたのである~⚾またこの年のロッテは日本シリーズでも4勝2敗で中日ドラゴンズを破り日本一に金田留投手も第4戦で勝利投手となりロッテオリオンズ初の日本一に花を添えた❗❗❗


1975年は調整不足の為、前期は出遅れ25試合6勝7敗、防御率2.90~⚾その後長年の登板過多が祟り1976年3勝8敗➡1977年2勝4敗➡1978年6勝6敗、3年間規定投球回数に達することなく低迷、兄正一がロッテの監督を解任となった1979年に広島にトレードとなった❗❗❗

再起に懸ける1979年、広島は北別府、池谷、山根、福士、江夏と投手王国だった為、登板機会に恵まれなかったが金田留投手はローテーションの谷間を埋め力投、16試合4勝1敗、防御率2.93の成績で広島の優勝に貢献、古葉竹識監督は「夏場に若手投手がバテた時に金田留がよくローテーションの谷間を埋めくれた、彼の4勝は10勝にも値する」と金田留投手を絶賛したのである❗❗❗

1980年も金田留投手は投手王国の一員として奮起、17試合4勝3敗、防御率4.12の成績でベテランがローテーションの谷間を埋め広島の2年連続の優勝に貢献、金田留投手はロッテと広島で3度優勝を経験、3度共日本一になっており優勝請負人となったのである❗❗❗

1981年は金田留投手のラストイヤー、8試合3勝2敗、防御率3.48の成績を残し現役を引退した~★通算成績は434試合、128勝109敗2セーブ、防御率3.25、鋭いカーブで奪三振1317、完封勝利18、無四球試合20をマーク、打者としても13本の本塁打を打っており兄金田正一同様打撃センスも秀逸していた~⚾引退後は1987年から1988年にロッテの2軍の投手コーチを務め、ユニホームを脱いだ後は健康食品の会社を立ち上げ実業家となったが昨年10月に突然の訃報が届いた、同期の星野仙一さんと同じ71歳での旅立ちは余りにも早すぎる旅立ちである❗❗❗