前項で不惑のホームランアーティスト門田博光さんを紹介したが、その門田さんに対し天才的ホームランアーティストと言われたのは勿論田淵幸一選手、田淵選手のホームランは綺麗な放物線を描く滞空時間のながーいホームラン、野球少年に夢を与えるホームラン、そのホームランは将に芸術である❗❗❗

東京六大学で新記録となる22本の本塁打を打った田淵幸一選手は1969年にドラフト1位で阪神に入団、同期には星野仙一投手、山本浩司選手、野村収投手、富田勝選手、山田久志投手、金田留広投手、東尾修投手、大橋穣選手と錚錚たるメンバー~⚾ルーキーイヤーは117試合に出場、81安打、22本塁打、56打点、打率.226で新人王を獲得、天才的ホームランアーティストの片鱗を見せた❗❗❗

1970年はオールスターまでに本塁打を量産、飛ぶ鳥を落とす勢いであったが、8月26日の甲子園球場での広島戦で外木場義郎投手のシュートボールが田淵選手の頭部を直撃、倒れた田淵選手はすぐに担架で運ばれたが、耳や鼻いたるところから出血しており、目の前で見た村山実監督は「まともに見れない状況、正直に死も考えた」と言う程の酷い状況だったという~⚾幸いにも3ヶ月の入院で翌年カムバック、手術後体質が大きく変わりそれまでスリムな体型だった田淵選手だが太りやすい体質になった~★この一件以降、球界は耳付きのヘルメットの使用を推進する事になったのである❗❗❗

1971年は死球禍の為か63安打、18本塁打、45打点、打率.228と不振~⚾後遺症も癒えた1972年は121安打、34本塁打、82打点、打率.258で初の30本塁打をマーク~★1973年は102安打、37本塁打、 90打点、打率.256を記録、特に巨人戦には滅法強く巨人戦だけで16本塁打、その内5試合連続本塁打、7打数連続本塁打などV9最後の巨人を苦しめ、この年辺りから田淵選手は三代目ミスタータイガースの称号を縦にした❗❗❗

1974年は113安打、45本塁打、95打点、打率.278で待望の40本塁打をクリア、しかし世界の王貞治さんが48本塁打を含む三冠王を獲得した為、本塁打王は取れなかった~★翌1975年も129安打、43本塁打、90打点、打率.303の成績で2年連続の40本塁打と初の3割をクリア、王さんを抑え初の本塁打王を獲得した~⚾1976年は122安打、39本塁打、89打点、打率.277➡1977年は怪我に悩み89安打、23本塁打、59打点、打率.261➡1978年は119安打、38本塁打、89打点、打率.288~⚾この年のオフに阪神の監督に就任したブレザーさんはチームの超変革を図り田淵選手は西武ライオンズにトレードとなった❗❗❗

移籍1年目の1979年は脚の故障に悩みながらも100安打、27本塁打、69打点、打率.262とまずまずの成績~⚾1980年は117安打、43本塁打、97打点、打率.266でパ・リーグでも40本塁打をクリア、しかしこの年はマニエル選手が大爆発し48本塁打を打ったので田淵選手はセ・パ両リーグでの本塁打王を逃した~⚾1981年は膝などの故障に悩み70安打、15本塁打、49打点、打率.247に終わってしまう❗❗❗

1982年、広岡達郎さんが西武の監督に就任、その広岡監督から田淵選手は「打つだけで守れない選手はいらない」と叱責されるも一塁手の守備練習に励み大奮起、74安打、23本塁打、59打点、打率.218を記録、日本ハムとのプレーオフと中日との日本シリーズでは4番に起用され、特に日本シリーズでは18打数6安打、打率.333と打ちまくり西武ライオンズの日本一に貢献、日本一の瞬間、田淵選手は広岡監督に「監督ありがとう」と泣いて感謝の意を表した❗❗❗

翌1983年も田淵選手は4番打者として君臨、88安打、30本塁打、71打点、打率.293を記録、西武の連続優勝に貢献し巨人との日本シリーズでも22打数8安打、2本塁打、6打点、打率.364と大爆発、西武の2連続日本一に大貢献、その年の暮れにその功績を称えられ正力松太郎賞を受賞した~★田淵選手の日本シリーズの成績は40打数14安打、2本塁打、8打点、打率.350、阪神時代には優勝経験がなかったが西武に来て大試合に強いことを証明した~★1984年には現役を引退、通算成績は1739試合、1532安打、474本塁打、1135打点、打率.260である❗❗❗

引退後は1990年から1992年までダイエーホークスの監督を務めるがチームは6位5位4位~⚾2002年と2003年は阪神の打撃コーチとして星野仙一監督の右腕となり阪神の優勝に貢献~⚾2011年と2012年も楽天の打撃コーチとして星野監督の参謀であった~★先日星野仙一が亡くなられた時、一番憔悴して哀しんだのは親友である田淵幸一さんだった❗❗❗