「危険球退場」頭部への死球は問答無用で投手は即退場のアグリーメントルール、昔は今ほど厳しくなかった、ではいつから厳しくなったのか❗❗❗


ID野村克也監督VSカンピューター長島茂雄監督の対決から遺恨が続くヤクルトVS巨人戦、1994年5月11日神宮球場の試合、2回表ヤクルト先発の西村龍次投手の投球が村田真一選手の左側頭部を直撃、その場に倒れこんだ村田選手はすぐさま起き上がり西村投手に向かおうとするが再び昏倒、そのまま担架で運ばれた、西村投手の投球はスライダーがすっぽ抜けたものであくまで故意ではないと判断された為、退場にはならなかった➡そして3回裏、今度は巨人先発の木田優夫投手の投球が打者西村投手の臀部を直撃、西村投手は苦笑いを浮かべて一塁に歩いた➡試合は進み7回表、西村投手の投球がグラッデン選手のインハイを襲う、これに激怒したグラッデン選手はヘルメットを投げ捨て西村投手向けて突進、そのグラッデン選手に中西親志捕手がタックル、転倒したグラッデン選手の左アッパーが中西捕手の右目付近に炸裂、あっという間に両軍ベンチから選手が飛び出し大乱闘となった~★大乱闘の渦中にいたグラッデン選手と中西捕手は暴力行為で退場、西村投手も2度の危険球で退場となった➡前年でもこのカードは高津臣吾投手がデーブ大久保博元選手にぶつけて骨折、10日後の同じカードで宮本和知投手が古田敦也捕手にぶつけて骨折と「目には目を歯には歯を」を繰り返す死球合戦の遺恨カードであった~★セ・リーグは2日後の5月13日から「頭部への死球は問答無用で投手は即退場」としアグリーメントを改めたのである❗❗❗


西村投手は1990年ヤマハ発動機からヤクルトに入団、1年目から伸びのあるストレートと切れのあるスライダーで先発ローテーションに入り10勝7敗1セーブ、防御率4.06の成績を残した、新人王の声もあったが新人王を獲得したのは当時ルーキー最多の31セーブを挙げた中日与田剛投手だった~⚾1991年は15勝8敗、防御率2.80を記録、完封勝利は6、無死球試合は4マークした~★西村投手の打者心理を読み取るクレバーな投球は野村監督も絶賛、ID野球の優等生投手と言われた~⚾1992年は14勝13敗、防御率3.95で野村ヤクルトの初優勝に貢献、翌1993年も11勝6敗1セーブで4年連続2桁勝利を挙げヤクルトのV2に貢献、西武との日本シリーズでも第2戦で勝ち投手となり、野村ヤクルト初の日本一の原動力となった~⚾しかし1994年は危険球退場のせいか6勝9敗と伸び悩んだ❗❗❗

1995年は吉井理人投手とのトレードで近鉄に移籍、近鉄での3年間は故障に悩み1995年5勝9敗、1996年0勝1敗、1997年1軍登板なしとまったく精細を欠いたのである~⚾1998年はダイエーに移籍、再起に懸ける西村投手はこの年技巧派にイメージチェンジ、10勝10敗、防御率3.36の成績を残し見事にカムバック、カムバック賞を受賞したのである~⚾しかし1999年は再び肘を故障し4勝3敗、防御率4.34と低迷、その後故障は完治せず2001年には現役を引退した~★通算成績は205試合に登坂、75勝68敗2セーブ、防御率3.75である❗❗❗

引退後は九州福岡に拠点を置きプロ野球解説者に、私自身としては西村投手の様なクレバーな投手が何故投手コーチに招聘されないのか不思議でならない❗❗❗