個性的な選手が多く在籍し「野武士軍団」と言われた1960年代から1970年代の西鉄ライオンズ、その中で私自身が最も印象に残っているのは個性的な打撃フォームだった竹之内雅史選手である❗❗❗

竹之内選手は1968年に鎌倉学園から日本通運浦和を経て西鉄ライオンズに入団、2年目には1軍レギュラーに定着し10本の本塁打を打った、3年目の1970年は86安打、19本塁打、40打点、打率.231を記録、長距離ヒッターとしての片鱗を見せた~⚾1972年に中西太コーチの指導により独特な打撃フォームに変える、その独特で個性的なフォームは猫背打法と呼ばれた(写真)そして1973年は101安打、22本塁打、70打点、打率.250をマークし中西コーチに見事恩返し、1974年も108安打、22本塁打、73打点、打率.258を記録、長距離ヒッターとして打撃開眼した~★1973年に太平洋クラブに身売りしたライオンズは1977年にはクラウンライターに身売り、その頃から竹之内選手は4番を打つ様になり、1977年は102安打、26本塁打、51打点、打率.250を記録、自身キャリアハイとなる26本塁打をマークした❗❗❗

1979年ライオンズは西武に身売り、それと共に変革を図り、阪神から田淵幸一選手と古沢憲司投手を獲得、竹之内選手は真弓明信選手、若菜嘉晴選手と共に阪神へ移籍した~⚾その1979年、ブレーザー監督は田淵選手、ブリーデン選手の穴を埋める為、竹之内選手をいきなり4番に起用、その年は113安打、25本塁打、66打点、打率.282を記録、後半戦は掛布雅之選手に4番の座を譲るもブレーザー監督の期待に応えた~★阪神時代に竹之内選手が取り組んだ個性的な打撃フォームは担ぎ打法と呼ばれファンを喜ばせた(写真)~⚾1980年も前半戦で12本の本塁打を打つがオールスター以後にデッドボールを受け骨折し低迷、1981年と1982年は本塁打は0、1982年に現役を引退した~⚾通算成績は1371試合、1085安打、216本塁打、606打点、通算打率.249、四死球476(内死球は166)である~★通算166個のデッドボールは清原和博選手の196個についで歴代2位、ライオンズ時代に受けた142個は今でもパ・リーグ記録である、此だけのデッドボールを喰らいながら在籍15年中7年間は規定打席をクリアしている、怪我には強い選手であった❗❗❗

引退後は1983年から1987年は阪神の打撃コーチ、1989年から1990年ダイエーホークスのチーフ打撃コーチを歴任、1991年からは横浜大洋の打撃コーチ、1997年と1998年は2軍監督となり佐伯貴弘選手、鈴木尚典選手、多村仁志選手を指導、特に鈴木選手は竹之内さんを恩師と慕った❗❗❗

2005年には交流があった藤本義一さんの勧めで羽衣国際大学野球部監督に就任、関西学生3部リーグのチームを2部リーグに上げている、2010年には監督を勇退し顧問に現在は現代社会学部の客員教授として教鞭をふるい「スポーツ」をテーマに講義を開いている❗❗❗