昨今スライダー、フォークが全盛となり大きなカーブを投げる投手が少なくなった、その中でソフトバンクの武田翔太投手のカーブは昔で言うドロップカーブである、そして1970年代にミスター長嶋茂雄さんや世界の王貞治さんがキリキリ舞いしたドロップカーブを投げたのが中日のエース稲葉光雄投手である❕❕❕

稲葉投手は1971年に日本軽金属から中日に入団、その年の8月26日の巨人VS中日戦(後楽園球場)リリーフで初勝利を挙げると連勝街道を突っ走り6勝0敗、防御率1.06の成績でシーズンを終えた~⚾1972年は大きく割れるドロップカーブが冴え渡りオールスター戦までに10勝を挙げると後半戦も勝ち星を伸ばし20勝11敗、防御率2.76を記録、巨人戦では3完封を含む6勝を挙げ巨人キラーの稲葉光雄の名前を全国区にした~⚾しかし1973年は肘の故障の為6勝12敗、防御率3.52と大きく負け越してしまう~⚾肘の痛みと闘いながら投げ抜いた1974年は4勝5敗、防御率3.93を記録、勝ち星には恵まれなかったが1年間ローテーションを守り中日ドラゴンズの20年ぶりの優勝に貢献した~★稲葉投手は1971年から1976年まで6年間中日に在籍、巨人戦には強く13勝9敗と勝ち越している、さらにONとの対決では長嶋茂雄さんとは62打数17安打1本塁打、打率.177、王貞治さんとは69打率14安打5本塁打、打率.203、2人合わせても131打数27安打6本塁打、打率.191と完璧に抑えている~★長嶋さんは晩年であったが王さんは1973年と1974年に三冠王を達成しているのでこの記録は凄く記録である❗❗❗

1977年には阪急に移籍、阪急で稲葉投手に与えられたのは350勝投手米田哲也投手が着けていたエースナンバーの18、それだけ名将上田利治監督の稲葉投手に対する期待は大きかった~⚾肘の痛みも癒され阪急の強力打線にも助けられたこの年は17勝6敗1セーブ、防御率2.45、勝率.739で最高勝率投手のタイトルも獲得、見事に上田監督の期待に応えた、またその年の巨人との日本シリーズ第4戦では先発し5回を1失点と好投、王さんを3打数ノーヒットに抑えている~⚾1978年は10勝5敗、防御率2.91、1979年は11勝9敗、防御率4.35で移籍後3年連続で2桁勝利をマーク~★1981年は11勝5敗、防御率2.93を記録しプロ入り11年目にして待望の通算100勝を達成したのである~⚾1984年には阪神に移籍しその年のオフに現役を引退、通算成績は331試合に登板104勝80敗2セーブ、防御率3.44、大きく割れるドロップカーブで22の完封勝利を記録している❕❕❕

引退後は1986年から1997年まで中日の2軍コーチと育成コーチに就任、山内一弘監督、星野仙一監督、高木守道監督の下若手選手の育成に尽力を注いだ、1998年から2001年までは日本ハムの投手コーチを歴任、名将上田利治監督や元同僚の大島康徳監督に仕えている~⚾2009年には落合博満監督に請われ中日の投手コーチに就任、落合さんの信望は厚かったが2012年の8月11日名古屋ドームでのウエスタンリーグ中日VS広島戦で手足が痺れるという体調不良を訴え救急搬送、そのまま名古屋市内の病院で脳出血の為この世を去った、63歳の若さであった~自身も稲葉さんは優れた指導者と思っていたので大変残念であった❗❗❗