江川卓投手が空白の1日を利用して巨人軍と契約をした、いわゆる「江川事件」のあった翌年の1979年、プロ野球界に再び進撃が走った、1月29日宮崎キャンプに向かうため羽田空港のロビーに着いた小林繁投手は、急遽球団関係者の車に乗せられ都内のホテルへ、そこで長谷川実雄・巨人軍球団代表から「阪神に行ってくれ江川卓くんとのトレードだ」と言われた~★詳細は前年のドラフト会議で江川投手を指名した阪神に江川投手が入団し、小林投手とのトレードで巨人に移籍すると言う事であったのだ~⚾翌日の記者会見で小林投手は「阪神に行きます、僕は巨人も阪神も好き、そして何より野球が好き、阪神に請われ行くのだから江川君の犠牲で阪神に行くのではない」と爽やかで前向きなコメントだった❗❗❗

そして1979年プロ野球ペナントレースが開幕、阪神ダン・ブレイザー監督は開幕第2戦目の巨人戦にいきなり小林投手を先発させた、その試合小林投手は張本勲選手に本塁打を打たれたものの7回3分の1を3失点に抑え4対3で阪神が勝利、小林投手は巨人から初の白星を記録した、試合後のインタビューで小林投手は「憧れの王貞治さんと対決出来て幸せでした」とここでも前向きなコメントしかしなかった~⚾その年の小林は巨人戦に9試合先発し無傷の8連勝を飾り巨人を見返したのである~★1960年に大石清投手(広島)が巨人戦8勝3敗を記録しているが8勝負け無しだったのは小林投手だけである~⚾1979年小林投手はシーズンでも22勝9敗1セーブ、奪三振200、防御率2.89、5完封勝利、投球イニングも両リーグ断トツトップの273回3分の2で最多勝と2度目の沢村賞も獲得した❕❕❕

小林投手は1973年に京都大丸から巨人に入団、2年目の1974年には1軍に定着、リリーフ中心に8勝5敗2セーブ、規程投球回数もクリアし防御率3.31の成績を残した~⚾長嶋茂雄ジャイアンツの2年目となる1976年には18勝8敗2セーブ、防御率2.99を記録し、リーグ優勝に大貢献し巨人軍のエースに君臨したのだ~⚾翌1977年にも18勝8敗7セーブ、防御率2.92をマーク、2年連続のリーグ優勝に大貢献、投手の栄誉である沢村賞に輝いた~★アンダーハンドの投手で沢村賞に輝いたのは小林繁さん、大友工さん、小川健太郎さん、斎藤雅樹さんの4人だけである❗❗❗

1979年には江川投手とのトレードで阪神に移籍、22勝を挙げた翌年の1980年は15勝14敗、防御率3.02を記録、1981年も16勝10敗2セーブ、防御率3.01をマークし阪神でもエースとして君臨したのである~⚾しかし1982年は夏場に右肘を壊し、11勝9敗、防御率3.42と不本意な成績に終わっていまう~⚾そして1983年13勝14敗1セーブ、防御率4.05を記録、7年連続で2桁勝利をマークするが古傷の右肘痛と腰痛の悪化などから「マウンドに上がるのが怖い日もあった、負けん気だけで生きてきたのに、そう思ったらもうダメだ」と10月29日に引退を決めた、プロ入り11年目まだ30歳だった~★通算成績は374試合に登板し139勝95敗17セーブ、1273奪三振、通算防御率は3.18である❕❕❕

引退後は大阪の北新地でグラブを経営するなど実業家の道に進むが1997年から2001年まで大阪近鉄の投手コーチとして球界に復帰、2007年は韓国SKバーンズの投手コーチも歴任、2009年には日本ハムの投手コーチに就任するが2010年1月自宅の廊下で倒れ救急搬送、急性心不全の為還らぬ人に、57歳の若さだった、小林繁投手はマスクも生き様も全てに於いて男前だったのである❗❗❗