長くなります。


全てを書くと、私がもたないのでぼやかしながら書きます。


毒親育ちの人達は、どう折り合いをつけて生活しているのか

知りたい。

助けて欲しくて書きます。


ずっと母と距離をとってきた私。

でも、双極2型の軽躁状態に居た私。


母とのいざこざは、無かった事にしてもいいんじゃないか。

許してもいいんじゃないか。

何で距離を取る必要があったのか。


という事さえ、薄れてました。


年始2日。

夫が実家に帰っている間に


父からLINEで「渡したい物があるから昼過ぎに行く」

と。

待っていると、母も居る。

少し前までついても来なかったのに、来るたびに、少しづつ家に入り、

この日は玄関に菊の花を飾るから!

って、要らない!

って言ったのに強引に玄関に菊の花を飾った。

色々話た後に、

何故〇〇病院の整形外科に行く事にしたの?

どこが痛いの?


と母。


膝と股関節と足首が痛い。


と私。


母が「大体太っている人は、皆んな痛いって言うよね。」

はあ?

私が太っているからじゃなくて、脳性麻痺の二次障害だわ!

ってか、お母さんが子供の頃から、暴力的なリハビリをしてたからこうなったんと違う?

膝の上に足の裏で体重かけて乗ってきたじゃん。

膝が伸びないから、膝の裏のスジ切ってもらえんかねぇ?

って言ってたじゃん。

だから膝が壊れたんじゃない?

って言ったら、


そんな事する訳ない。

言う訳ない。

作り話しばかりして。。


いやいや!そうでした。

そう言いましたし、そんなリハビリしてました。


多分やられた方は覚えてるけど、言った方は覚えてないんだわ!

って言ったら

臍曲げて帰った。


もう暫くこんといて!!


って言ってやった。


母72歳。

本当に忘れているのか、自分の人生を美化しているのか。


私はこの後から鬱転した。


あ!

やっぱり母を許してはいけなかったと。

呼んではいけなかったと思った。


約50年前の母親なんて皆んな暴力的だったと言えばそう。

でも、私の母は言葉の暴力。力の暴力。

本当に激しかった。

兄には甘かったのに、

私と妹は母の怒りボタンが押される瞬間が分かった。

叩かれすぎて、母の手が頭上を掠めるだけで首を縮ませていた。

そのうち、叩くと手が痛いから。

って、その辺にある物差し、針金ハンガー、孫の手で叩くようになった。

もう手当たり次第。。

母の怒りは誰も止められなかった。


夫婦喧嘩でもお皿を投げていたのを覚えている。

成人しても私はまだ学生の身だったので自宅に住んでいた。

母のスイッチを入れちゃう発言をしよう物なら、凄い勢いで迫って来て、部屋の角に追い込み

殴る。蹴る。

からの


このウスノロが!!

あんたなんか生まれてこなければ良かったわ!!


と。逆ギレ。


母の怒りのスイッチが入るタイミングとかワードな等はない。

だから分からない。


小さい頃からビクビクしてた。

妹と夜手を繋いで寝ていた。

安心するんだよな。


これら、全ての事を赤裸々に母にぶつけても、全否定するだろう。


もう 母 というワードが頭に浮かぶだけで、悔しくて、さみしくて、怖くて

今でも涙が出てくる。


だから、遠ざけていたのに。。

私は自分で自分を苦しめてしまった。

私は発達障害グレーゾーン

母はしっかり発達障害だと思う。


母は、家族には謝った事がない。

何だかんだと、持論を展開し、自分を正当化してきた。


同じ歳の妹は、子供を産み育ててみたら、

母の事が分からんでもない。

と、すんなり許せている。


母は、デブは悪。だと思っているので、それを伝えに来たのかも知れない。


要らん世話!私もう48歳。

太ろうが痩せようが自由にさせてくれ。


精神疾患に理解がないのでね。

薬の副作用で太ってるんだよ。

って言っても聞く耳がない。


母がプレドニンでもいい。

飲まないといけない病気になれよ!

片麻痺になる様な病気になってみろよ!

私の苦しみがその時やっと理解できるはず。

仕返ししてやるから覚えとけ!!!


もう母に懲り懲りだ。