京都の話題


銘菓(メイカ)

それでは、この辺りでご退屈しのぎに京都の名物銘菓(メイブツメイカ)をご紹介致します。


名物銘菓(メイプツメイカ) 

①一に食べたい、いもぼう料理

②にしんそばは、通の味

③酒は伏見の、げっけいかん

④しば漬けの味は、得もいえず

⑤五色まめの、色のよさ

⑥無理して食べたい、スッポン料理

⑦七味とうがらしの味は、得もいえず

⑧八橋は、お土産に喜ばれ

⑨栗饅頭の、味の良さ

⑩豆腐は湯どうふの、南禅寺どすえ

となります。皆様如何でしょうか!


寺社の数や順位は後日改めて!

下記の資料はずっと以前のものです!


お寺について  

ところで、今回ご縁がございまして○○寺などをお訪ねいただきますが、京都には一帯、何ケ寺位

お寺があるのか皆様 ご存知でしょうか?

よく『お江戸八百八町、大阪八百八橋、京都八百八寺』とか申しますので『808』寺位ですかという答えが返ってきたりしますが、実際には何と1863ケ寺もあり又、神社は250もあるそうです

ちなみに、このすべてのお寺をきちんとお参りしていただきますと、一日にせいぜい5~6ケ寺位、ですから、お寺だけでも全部お参りしようとしますと、何と4~5年はかかる勘定になります。又、こうなりますとお賽銭もばかになりませんで、1円ずつあげていただいても1863円、5円ずつですと9315円、又、始終ご縁がいただけます様にで45円上げていただきますと、何と83835円という計算になります。

本当に、ちょっと勿体ないかしら!という気持ちにもなりますが、やはり苦しい時の神頼み、背に腹はかえられない様です。

ですが、いくら沢山のお賽銭をあげていただいたとしても、気持ちが備わってなければ、御利益は頂けないかと思います。

皆様、お参りされます時は、常に新鮮な気持ちでお参り下さいませ。


日本で一番、寺が多いのは、愛知県!

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの三英傑(サンエイケツ)が出ています武将達は、戦に勝つため、或いは信仰のより所として、又、戦で、亡くなった人を弔うために建てられたと言われます。


※神社庁参考にして下さい!


※寺

愛知、大阪、兵庫、滋賀、京都


※神社

新潟、兵庫、福岡


町並みについて   

それでは、この辺りで京都の町並みについてお話し致します。

皆様も、ご存知の様に京都の町は縦、横の通りが

碁盤の目の様になっていますが、これは昔、桓武天皇が平安京を作る時に中国の都にならい、東西の通りは、一条から九条まで、南北の通りは、朱雀大路を中心に東京極から西京極までを計画した面影が今尚残されております。

京都では、町並みを東西に走る通りを北から南に又、南北に走る通りを東から西に唄い込んだ数え歌がございますので、御紹介致します。

まず、東西の通りですが    

『丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦 四綾仏高松万五条 六条三哲通りすぎ 七条こえれば八九条 十条東寺でとどめさす』となります。

これは、丸太町から、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏小路、高辻、松原、万寿寺、五条、六条、七条、八条、九条、十条の通りを北から南へ唄い込んだ物です。

又、南北の通りですが東西の通りよりもちょっとややこしくなりまして『寺御幸麩屋富柳堺高 間之東に車烏丸 両室衣新 釜西小川 油醒堀 葭屋猪 黒大宮松日暮に知恵光院 浄福千本はては西陣』となります。

先程の東西の通りとすると、一寸、ややこしい感じがしますが、これは寺町、御幸町、麩屋町、富小路、柳馬場、堺町、高倉、間之町、東洞院、車屋町、烏丸、両替町、室町、衣棚、新町、釜座、油小路、醒ケ井、堀川、葭屋町、猪熊、黒門、大宮、松屋町、日暮、知恵光院、浄福寺、千本の通りを東から西へ唄い込んだ覚え唄です。

今では、余り聞かれなくなってしまいましたが、これは、似た様な町並みの続く京都の通りを、子供たちが迷子にならない様に小さい時から、お手玉やまりつきなどの遊びの中に、唄い継がれてき

た言わば生活の知恵なのでございましょう。

又、よく京都では、人に道を訪ねますと『次ぎの角をお上(ア)がりやして』とか『お下(サ)がりやして』と教えて下さいます。

この『上がる』というのは、北の方へ行くことで、『下がる』は南へ行くということです。

又、『入(イ)る』という言葉は、東西の方向を示していて『西入る』『東入る』といえば、西あるいは東の方向に行って下さいということになります。 

      

 

七条通(シチジョウトオリ)  

{例}

こうして、七条通りを進めて参りましたが、京都の人々は『しちじょう通り』といわずに『ひっち

ょう通り』と呼んだりする場合がございます。

たとえば、関東では『お日さま』を『おしさま』『ひばち』を『しばち』という様に『ひ』を『し』と発音しますが、これが京都では、反対に『し』を『ひ』と発音して、『しちや』を『ひちや』『行きましょうか、参りましょうか』を『行きまひょか、参りまひょか』と、こういった調子で話します。

そういった所から『しちじょう通り』も『ひっちょう通り』と呼ぶ様になりました。


京都の町は学生の町 

ところで、こうしてお訪ねいただいている京都の町は『学生の町』といわれる位、大学、短大の多

い所で、44程の学校がございます。

ちなみに、京都タワーからお金を落としたとしたら、必ず、学生さんの頭にあたるとか!

これは、一寸おおげさかもしれませんが、その位、京都市民に対して学生さんが多いという事です。

そこで、数ある大学の中から学生さんたちの間では、結婚するなら京大生、恋人にするなら同志社

大学、用心棒なら立命館、漫才師にするなら京都産業大学などと、人気のある学校が上げられております。

昔から、大学と言えば『やはり東大!』と言われる位でしたが、最近では、東の東大に対して、西

の京大といわれる位、日本を代表する大学として、人気が出てきたそうです。

現在では、すでに小学生の時代から受験戦争の世の中などといわれておりますが、はじめから諦めずに、一度は日本を代表する大学を目指して、アタックしていただくのも青春時代のいい思い出になるかも知れませんね!

      

大文字五山送り火(ダイモンジヤマゴザンオクリビ)

ところで、京都では毎年八月十六日の夜に大文字山『五山送り火』が行われますが、これは『盂蘭盆会(ウラボンエ)』の行事で、お盆に迎えていた霊を、再び送り帰すために焚く火でございます。

起源は、いつ頃からかは、はっきりしませんが、年中行事化したのは、江戸時代の初期といわれて

おります。

この送り火は、『厄除け』の信仰もある所から、お水かお酒を入れた丸いお盆に、『送り火』を写

して飲むと中風(チュウフウ)にかからないと言われております。

当日、午後八時、東山如意ケ岳(ヒガシヤマニョイガタケ)の『大』の字が夜空に浮かびあがると同時に、松ヶ崎西山(マツガサキニシヤマ)の『妙(ミョウ)』東山(ヒガシヤマ)の『法(ホウ)』、西賀茂(ニシカモ)の『舟形(フナガタ)』、金閣寺裏山の『左大文字山(左ダイモンジヤマ)』、北嵯峨(キタサガ)『鳥居形(トリイガタ)』の火が灯(トモ)され、『送り火』が京都の夜空にくっきりと浮かびあがります。

近年は、大文字山送り火を一目見ようと、全国から沢山の人が訪れ、観光に欠かせない火になって

おりますが、実はこの火について一寸したもめごとがありました。

これまで『五山』の火を守るのは、すべて土地の人達の奉仕に任されていましたが、一夜の30分

の火のために長い間、大変な犠牲を強いられており、このままでは毎年続けるのは無理だという事

になったそうです。

一時は、中止の心配もありましたが、市の観光課に責任を移して、これまで通り八月十六日に見ら

れることになったのです。

美しく燃え、はかなく消える大文字送り火も、様々な人によってささえられ、京都の年中行事として続けられているのです。

          

京都の歴史 

それでは、この辺りで『京都の歴史』についてお話致します。

ここ京都の華やかな歴史の幕が開かれたのは、桓武(カンム)天皇が都をこの地に移して『平安京』とした延暦(エンリャク)13年、西暦794年のことです。

けれども、それ以前の大和朝廷の頃には、大陸から渡来(トライ)した人々によって、豊かな農業地帯になっていた様です。

『弥勤菩薩(ミロクボサツ)』で名高い『広隆寺(コウリュウジ)』や『松尾大社(マツノオタイシャ)』などは、当時の帰化人(キカジン)『秦氏(ハタシ)』によって作られた物です。

平安京は、中国の洛陽(ラクヨウ)をモデルとして造営され、今でも『洛中(ラクチュウ)』『洛外(ラクガイ)』『洛北(ラクホク)』などの言い方が続いております。

この平安京の規模ですが、東西約45K、南北53Kで、中央を南北に『朱雀大路』が走り、その

東側を『左京(サキョウ)』、西側を『右京(ウキョウ)』としております。

地図で見ますと右側が左京で、左側が右京と、一寸まごつきますが、これは北に位置した『大内裏(ダイダイリ)』から見てのことです。

平安京が開かれた平安時代は『貴族の時代』で、大変華やかな文化の花が京都を中心に開いた時代でした。

鎌倉時代に入って、政治の中心を鎌倉へ譲りましたが、室町時代に再び政治の中心となりました。

しかし、室町時代に起こった応仁の乱(1467~77年)で、京都の町はすっかり焼け野原になってしまいました。

京都は不死鳥のように甦り、特に豊臣秀吉の都市改造によって復興を果たしたのです。

江戸時代に入り、江戸に幕府が開かれ政治の中心が江戸へ移りますと、京都は文化、宗教都市の性格を強めて来ました。

そして、明治維新となり天皇が東京へ移られますと、京都は大きな衝撃を受けましたが、同時に、

この千年の都は、時代の先端を切る近代化に着手したのです。

水力発電所が出来、電車が走ったのもこの京都が最初であり、又、小学校、中学校、女学校が出来

たのもここ京都が最初です。

京都は、その長い歴史の上で、幾度となく栄枯盛衰(エイコセイスイ)を繰り返し、時には廃墟(ハイキョ)となったこともありましたが、いつも力強く甦(ヨミガエ)り、今にその文化の香りを伝えているのです。


京都の地理 

京都の町は、ご覧の様に東、北、西を山に囲まれ

南に開けた盆地にありますが、市域としては、北の山奥まで含んでおり、面積は、約610平方キロという広さがございます。

人口は、約147万人で全国第6位となっていますが、そのほとんどが盆地の所に集中しております。

東に、滋賀県と境を接する比叡山(ヒエイザン)から続く東山の連峰、北に北山、西は西山と呼ばれる嵐山などの山々に囲まれた京都の町は、どこからでも周りの山々が望まれて大変景色が良いのですが、その反面、盆地特有の夏は暑く、冬は寒いという気候の厳しさがございます。

市内には、鴨川(カモガワ)、桂川が南北に流れ、南端を宇治川が流れており、古都(コト)の美しさを一層(イッソウ)引き立たせておりますが、これらの川が京都を作ったとも言えます、と申しますのは、大昔、この辺りは湖だった所で、そこに、鴨川、桂川、宇治川等の川が運んで来た土砂が堆積して、今の様な土地になったのです。


京都三大産業

ところで皆様、京都三大産業と言えば、どの様な物があげられるかご存知でしょうか?

『清水焼』と『西陣織』、そして『友禅染』の三つでございます。

清水焼は、今から1200年余り前、行基が窯をつくり焼いたのが始まりで、後、技術や原料に改良が加えられ今日に至っております

この清水焼、以前は五条坂辺りから南の泉涌寺(センニュウジ)付近で焼かれていましたが、手狭(テゼマ)なった為、東山の麓『清水焼団地』に移り、そこで、すべての作業を共同で行っております。

『清水焼』は、うす物できめが細かく、手の平にのせてたたきますと、金属性の音がするのが特長です。


西陣織(ニシジンオリ)   

次に、『西陣織』ですが、織物の歴史は大変古く、奈良時代の初期に、朝廷から帰化した秦氏が養蚕と絹織の技術を伝えたのが最初です。

応仁の乱の後、織手(オリテ)たちが集まって、西軍の山名宗全(ヤマナソウゼン)の陣跡で平安時代の織部司(オリベノツカサ)以来の伝統を継いだ織物を起こしたことから『西陣織』と呼ばれる様になりました。

明治以後は機械化され、現在3千軒近い旗屋(ハタヤ)業者を中心に、糸染(イトゾメ)、紋彫(モンホリ)など多くの関連業者が集まって、生産が行われております。

西陣織は、伝統技術を受け継いだ帯地や綴錦(ツヅレニシキ)、金欄(キンラン)、御召(オメシ)など豪華絢爛(ゴウカケンラン)な高級品として知られ、機械化は進んでも、高級な品は手織が多い為に今も分業生産の家内工業が主になっております。

この西陣織の値打ちは、見た目に豪華で美しいという事、締めた時に体に馴染み、締め心地がいい事などがあげられ、舞妓さん達の『だらりの帯』は、代表的な『西陣織』です。


友禅染   

最後に『友禅染』ですが、江戸時代に宮崎友禅が染めの模様と手法により、『花や鳥』『山水』な

ど写実的で細かいデザインを豊富な色彩で染めたのが始まりです。

この画期的な染めを、考案者の名をとって『友禅』と呼ぶ様になりました。

現在は、友禅の本来の手法である『手描友禅』に加えて『型紙友禅』『機械染友禅』『スクリーン捺染(ナッセン)』などがございます。

『手描友禅』は、『本友禅』とも言い『もち米』の糊で模様の輪郭を描き、中に模様を着色します。

大変、手の込んだものですから、その価格は庶民には手のとどかない高価な物になります。

又、『型紙友禅』は、糊の中に染料を入れ、それを型紙で布地に摺りつける手法です。

これは、明治時代に考え出された物で、これにより友禅が大量生産出来る様になったのです。

最後に『機械染友禅』は、一般の繊維製品の模様に広く使われている方法と同じ、プリント方式で

染める物です。

以前は、堀川や鴨川で友禅染を晒(サラス)光景が見られましたが、水質が悪くなったために今では殆ど見る事が出来なくなってしまいました。

こうして、京都三大産業についてお話しましたが『清水焼』から『西陣織』、そして『友禅染』と私共の手に届く物から溜め息の出る物まで、色々とありますが、それぞれ専門の建物がありますので機会がございましたらお訪ね下さいませ!

 清水焼…清水焼団地

 西陣織…西陣織物会館

 友禅染…古代友禅苑    

        

京都わらべ唄

※歌の文章、間違っていないと思いますが、もう一度確認致しますので、宜しくお願い致します!


…東西の通り…


まるたけえびすに おしおいけ

あねさんろっかく たこにしき

しあやぶったか まつまんごじょう

せったちゃらちゃら うおのたな

ろくじょうさんてつ とおりすぎ

しちじょうこえれば はっくじょう

じゅうじょうとうじで とどめさす



…南北の通り…


てらごこふやとみ やなぎさかい

たかあいのひがし くるまやと

からすりょうがえ むろころも

しんまちかまんざ にしおがわ

あぶらさめがいで ほりかわのみず

よしやいのくろ  おおみやで

まつひぐらしに  ちえこういん

じょうふくせんぼん はてはにしじん


京都御苑  

右手に森が見えて参りましたが、こちらが京都御苑で、この中に『京都御所』や『大宮・仙洞御所』がございます。

現在は、環境庁の所管で国民公園になっています。 

その地域は、東は寺町通りから南は丸太町通り、西は烏丸通り、北は今出川通りに沿っており、南

北約1300m、東西約700m、面積は65万

2836mに及ぶ大変広い敷地を持っております。

これを囲んで南の正門『堺町御門』を始め、西に下立売』『蛤』『中立売』『乾』の4つの御門

が、又、北には『今出川御門』、東に『石薬師』『清和院』『寺町』の三つの御門がございます。

このように京都御苑には、九つの御門がある所から『九重(ココノエ)の奥』という言葉がございます。

苑内は、玉砂利を敷き詰めた広い道が縦横に走り、緑の芝生と樹木の間に白い築地塀と宮殿の屋根が見え隠れして、散歩する人の目を楽しませてくれます。

御苑の中には、御所の外にもと上皇のお住まいになった仙洞御所、皇太后のお住まいになった大宮

御所などがございます。

昔は、中山、近衛、鷹司、九条等を始め、皇族や貴族、公卿の邸宅が立ち並んでいましたが、18

69年(明治2年)都が東京へ移ってから(東京奠都)建物が殆ど取り壊され、現在の様な公園に

なったのです。

      

蛤御門  

※御苑の西側中央、烏丸通りにあります蛤御門は、元『新在家御門』と呼ばれ、いつも閉めてありましたが1788年1月29日の火事の時に、ここまで火の手が延びて来た為、始めて御門を開けたそうです。

口うるさい京童は、『焼けて口あく蛤御門』といい、以来『蛤御門』と呼ばれる様になりました。

又、蛤御門は幕末の『蛤御門の変』で知られる所です。

これは、元治元年(1864年)7月の事、前年の政変で京都での地位を失った長州藩が、朝廷に強

訴するため、兵を率いて御所を守護する会津・薩摩両藩の兵と蛤御門で激戦した所で、この時、長

州藩が打ち込んだ鉄砲の弾の跡が今でも残っております。


中立売御門 

こちら右手が『中立売御門』でございます。

この辺りには、上立売、中立売、下立売という通りの名がありますが、昔、暮らしに困った公卿が

家財道具を立売りしていた所から名付けられた物です。


京都御所  

京都御所は、美しい芝生と樹木が生い茂る、京都御苑の中央北部にございます。

現在の御所は、南北朝時代の1331年(元弘元年)北朝の光巌天皇が里内裏の一つであった、土御門東洞院邸を皇居とされて以来、信長の修理、秀吉の新造を経て、徳川2代将軍秀忠の娘が入内しますと、徳川幕府の手で大掛かりな拡張工事が行われました。

後、度々火災にあったりしましたが、安政2年(1855年)孝明天皇の時に、徳川幕府の命令で阿部政比呂が造営し、一名『安政の皇居』ともいわれております。

御所の中央、南に向いて建礼門がありますが、この御門は、天皇が出入りされる時だけ開かれるそ

うです。

その建礼門を入りますと、続いて承明門があり、その向こうは広いお庭になっており、正面に九間

四方寝殿造りの『紫宸殿』がございます。

紫宸殿は、又の名を『南殿』とも呼び、歴代の天皇の御即位の御大礼を始め、重要な儀式の行われる所です。

大正天皇も、昭和天皇もここで御即位の礼をお上げになっており、その時にお使いになった高御倉(タカミクラ)と の 胃腸剤が 皇后の御帳台(ミチョウダイ)が中に置いてあります。


又、紫宸殿の西北には、昔、天皇がお住まいになった『清涼殿』がございます。

その他、花火の飛び火で焼けた『小御所(コゴショ)』『学問所』などの建物がございます。

       

昔、作っていた資料ですのであくまでも参考として見て下さいね