お子さんでも読むことが出来るようにふりがなを入れて見ました
ちなみに、ガイドも資料をいただいた時は読み合わせと言ってふりがなを入れたりして読むことが出来るように昔、勉強していました
余談 沢山という漢字を使って読み方はどちら?
①スッポンが沢山います
↓
スッポンがたくさんいます
②スッポンが沢山います
↓
スッポンがさわやまいます
正解①私も昔は読めませんでした
かな
天野屋利兵衛
↓
①あまのや りへえ
②あまの やりへえ
#天野屋利兵衛は男でござる
正解①
大歩危 小歩危(高知県)
渓谷で有名な所で大股や小股であるいても危ない所から
↓
おおぼけ こぼけ
蒲郡(愛知県)
↓
がまごおり
みかんの町としてラグーナという観光地があります
#ラグーナテンボス
#ラグナシア
地名、人名は簡単に読めるようで読めない時もあります
また、言葉では聞いて知っていても漢字にすると難しいから、今もそうですが、どんな意味何だろうと自分なりに調べたりしています
本当にどんな職業も覚えるまでが大変です
こんな言葉もあります
#簡単な事ほど難しい
#なんでも鑑定団令和6年4月9日放送
福岡県久留米市(クルメシ)萃香園(スイコウエン)ホテル五代目総支配人(ソウシハイニン)
川村仁洋(カワムラマサヒロ)さん
萃香園(スイコウエン)ホテルの初代
川村安次郎(カワムラ ヤスジロウ)が大正6年に手に入れたもの
大の骨董好(コットウス)きで焼き物や書画(ショガ)を中心に収集(シュウシュウ、コレクションの一部をロビーに展示(テンジ)している中の一つが📺️に登場
偽物(ニセモノ)だったら撤去(テッキョ)しないといけない
お宝(タカラ)は戦国(センゴク)の世(ヨ)を制(セイ)した天下人(テンカビト)のお宝
「羽柴秀吉(ハシバ ヒデヨシ)、丹羽長秀(ニワ ナガヒデ)、池田恒興(イケダ ツネオキ) 3人の連署書状(レンショジョウ)」
本能寺(ホンノウジ)の変(ヘン)から25日後の天正(テンショウ)10年(1582)6月27日尾張(オワリ)
清洲城(キヨスジョウ)にて、天下の行(ユ)く末(スエ)を左右(サユウ)する重要(ジュウヨウ)な清洲会議(キヨスカイギ)が開かれました
議題(ギタイ)は
「織田信長(オダノブナガ)の後継者選(コウケイシャエラ)び」
当時、織田家では信長が(アケチミツヒデ)により殺されたあと、次男 信勝(ノブカツ)と三男 信孝(ノブタカ) が家督(カトク)をめぐり激しく対立(タイリツ)していました
事態収拾(ジタイシュウシュウ)のため織田信長の重臣(ジュウシン)4人が会合(カイゴウ)しました
織田家筆頭家老(ヒットウカロウ)
柴田勝家(シバタカツイエ)
勝家に次ぐ重臣(ジュウシン)
丹羽長秀(ニワナガヒデ)
信長の乳兄弟(チキョウダイ)
池田恒興(イケダツネオキ)
新参者(シンザンモノ)ながら見事(ミゴト)主君(シュクン)の敵(カタキ)明智光秀(アケチミツヒデ)を討(ウ)った
羽柴秀吉(ハシバヒデヨシ)
勝家が後継者(コウケイシャ)に推挙(スイキョ)したのは三男信孝、信孝は次男信勝より聡明(ソウメイ)で武芸(ブゲイ)に優(スグ)れ、明智光秀討伐(トウバツ)の山崎(ヤマザキ)の戦いに出陣(シュツジン)し奮闘(フントウ)、異(イ)を唱(トナ)えるものはないと思われました
秀吉は、信長と共に討たれた嫡子(チャクシ)信忠(ノブタダ)の遺児(イジ)三法師(サンボウシ)を推挙
(スイキョ)当時、わずか三才、三法師をひそかに、てなづけ自ら織田家の実権(ジッケン)を握(ニギ)ろうと画策(カクサク)していた
当然、勝家は反対したが丹羽長秀と池田恒興が秀吉を支持したため、後継者は三法師に決定致しました
さらに領地の再配分(サイハイブンも協議されましたが(信長遺領=イリョウ)の配分)は、秀吉が播磨(ハリマ)丹波(タンバ) 山城(ヤマシロ)河内(カワチ)など28万石を得たのに対し、勝家は北近江(キタオウミ)12万石のみ
この会議を機に、秀吉は天下取(テンカト)りに乗りだし勝家との対立を深めていったのです
💕今回の依頼品は
清洲会議出席者の内、柴田勝家を除く、池田恒興 、丹羽長秀、羽柴秀吉3人の連署書状で日付は、天正元年から天正14年
参考=秀吉は三回名前を変えています
木下秀吉(キノシタヒデヨシ) 羽柴秀吉(ハシバヒデヨシ) 豊臣秀吉(トヨトミヒデヨシ)
閏正月(ウルウショウガ)十三日
秀吉が羽柴姓(ハシバセイ)を名乗っていた時期に閏正月があったのは天正11年のみで依頼品は清洲会議の8ケ月後に書かれたもの
内容
家臣(カシン)たちも一切関(イッサイカカ)わってはいけない
意見のある者がいれば話を聞き、取り上げる必要がなければ忘れて良い
という、なぞめいた文言(モンゴン)が書かれていて宛名(アテナ)は信長の次男信勝の宿老(シュクロウ)佐久間甚九郎(サクマジンクロウ)
瀧川三郎兵衛(タキガワサブロウ)
この書状は何を意図(イト)として書かれたものなのか?
清洲会議の後、柴田勝家は
三法師(サンボウシ)の後見人(コウケンニン)となった信孝は織田家重臣の滝川一益(タキガワカズマス)と連携(レンケイ)し秀吉包囲網(ホウイモウ)を形成(ケイセイ)
対する秀吉は丹羽長秀、池田恒興との協力体制を強化する
と共に、信孝と敵対(テキタイ)していた信勝と手を結ぶ
そして天正十年十二月秀吉は勝家の養子(ヨウシ)勝豊(カツトヨ)が守る長浜城(ナガハマジョウ)を攻略(コウリャク)、次いで岐阜城にいた信孝を攻め三法師を奪還(ダッカン)翌年2月には、滝川一益(タキガワカズマス)の守る北伊勢(キタイセイ=ミエケン)に侵攻(シンコウ)を開始しました
依頼品が書かれているのはこの間のこと(天正11年)
送り先が手を結んでいた信勝の宿老(佐久間甚九郎(サクマジンクロウ)・瀧川三郎兵衛=タキガサブロウ)である事から勝家との決戦(ケッセン)に向けて、下手(ヘタ)な動きはしないでほしい
信雄の動きを牽制(ケンセイ)するための書状ではないか
書状が書かれた2ヶ月後の3月半ば(天正11年3月)
秀吉と勝家は琵琶湖(ビワコ)の北にそびえる賤ヶ岳(シズガタケ)で対峙(タイジ)する
織田家の覇権(ハケン)をかけたこの戦いは(賤ヶ岳の戦い)両軍(リョウグン)の兵の流した血で 湖が真っ赤に染まるほどの激闘(ゲキトウ)となったと言われます
それでも 加藤清正(カトウキヨマサ)や脇坂安治(ヤキサカヤスハル)などの賤ヶ岳七本槍(シズガタケシチホンヤリ)の活躍(カツヤク)もあって秀吉軍が勝利し、柴田勝家は自刃(ジジン)、秀吉の天下統一(テンカトウイツ)への道が切り開かれた瞬間だった
#清洲会議
依頼品が本物なら
果たして鑑定やいかに
📺️では、下記のように紹介されていました
#賤ヶ岳七本槍(シズガタケ シチホンヤリ)
片桐且元(カナギリカツモト)
桜井家一(サクライイエカズ)
糟屋武則 (カスヤタケノリ)
平野長泰(ヒラノナガヤス)
加藤清正 (カトウキヨマサ)
脇坂安治(ワキサカヤスハル)
加藤嘉明 (カトウヨシアキ)
携帯で調べると下記のように出て来ます
#賤ヶ岳七本槍
片桐且元
福島正則(フクシママサノリ)
糟屋武則
平野長泰
加藤清正
脇坂安治
加藤嘉明
七本槍は、桜井家一と福島正則のどちらが正解かな?
もう一つ気になる言葉
#賤ヶ岳九本槍とは(歴史人で紹介しています)
📺️をみながら文章を作って見ました
自分で入力しながら勉強しています
よく鑑定団には、茶碗(チャワン)、壺(ツボ)、屏風(ビョウブ)が出てきますが、最近、高島屋での金の茶碗の盗難事件が話題を呼んでいます
悪いことをしたら人生終わりなのに、もっと自分の人生大切にしたらいいのにな
😣💦⤵️
#金の茶碗
金の茶碗の上を左から右にスライドしてコピーした後、Googleに貼り付けると色々と文章が出てきます
また
ハッシュタグ(#記号)は、Xでキーワードやトピックを分類するために使われます。 この機能はXで作り出されたもので、この機能を使えば興味のあるトピックを簡単にフォローできます。 ツイートの関連キーワードまたはフレーズの前にハッシュタグ記号(#)を使ってツイートを分類し、X検索に表示されやすくします。
恥ずかしいけど最近、ようやく#(ハッシュタグ)の使い方を知りました
参考
出てきた文章が難しかったら「本能寺の変とはこどもでも分かりやすく教えて」で検索してみると色々と紹介しています
携帯一つあれば電話をかけるだけでなく調べたり、本当に便利な世の中ですが、まだまだ、使い方がわからない所が沢山ありすぎて・・これが現実です😖💦
ちなみに、私の携帯はアンドロイド、主人や兄弟はアイホン、かえるべきか?壊れるまでかえないほうがよいのか?考え中です。
折角、使い方がわかって来ているのに、もしかえたら覚えるまでが大変です。
アプリに関しては一緒ですが、機種がかわると使い方が微妙に違って悩みの種になります。
因みに、私の携帯、売るとしたらいくら果たして鑑定やいかに?