⑩京都(京都東IC~薬科大学(ヤッカダイガク)~天智天皇山科陵(テンジテンノウヤマシナリョウ)日時計(ヒドケイ)~南禅寺(ナンゼンジ)方面



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皆様、これから京都東インターを後にいたしまして、この先、薬科大学、天智天皇山科陵(テンジテンノウヤマシナリョウ)末期の水(マツゴノミズ)の石碑の近くを通りながら蹴上(ケアゲ)から南禅寺(ナンゼンジ)もしくは平安神宮方面に進めて参ります。



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※天智天皇山科陵(テンジテンノウヤマシナリョウ)や末期の水(マツゴノミズ)の石碑が分からない!という場合、お客様と一緒に探して頂いてはどうでしょう?

とにかく、対象物を話したいけど分からない時は一緒に探して頂くのが一番だと思います。

やはり、旅はガイドさんが右手をご覧下さい!○○がご覧いただけます!という案内があった方が良いと思いませんでしょうか?



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東山三十六峰(ヒガシヤマサンジュウロッポウ)


皆様、前方をご覧下さいませ!


左右、なだらかな山並みがご覧頂けますが「ふとんきて寝たる姿や東山(ヒガシヤマ)」でお馴染み服部嵐雪(ハットリランセツ)の歌に歌われました東山三十六峰の山並みがご覧頂けます


山の上に丸い建物がご覧頂けますが京都大学理学部に属します花山天文台(カザンテンモンダイ)でございます


又、山並みの下に忠臣蔵(チュウシングラ)でお馴染み大石良雄(オオイシヨシオ)の閉居(ヘイキョ)の後、岩屋寺(イワヤデラ)がございます。



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小野小町(オノノコマチ)


只今、通っています山科といえば平安朝(ヘイアンチョウ)の悲恋(ヒレン)として有名な小野小町「東男(アズマオトコ)に京女(キョウオンナ)、クレオパトラか陽気妃(ヨウキヒ)か、と美人として歌われた小野小町と深草少将(フカクサノショウショウ)との恋ロマンスで知られた所でございます。


深草少将が、小野小町に思いをよせておりましたが、ある日の事、小町は少将の心を試そうと『百夜通(ももよがよ)いをすれば、あなたの思い通りになりましょう』といったそうです。


その言葉を信じた少将は、あくる日から『百夜通(モモヨガヨ)い』の悲願(ヒガン)をたて、雨の日も風の日も雪の降る日も通い、後、一日で達成出来るという九十九日目(キュウジュウクニチメ)の夜突然、降り出した雪のためにあえない最後をとげてしまったのです。


『女の一念(イチネン)岩をも通(トオ)す』とか申しますが、男の一念もなかなかの様です


その時、送られたラブレター(恋文)が何と牛車(ギュウシャ)に七台半(ナナダイハン)もあったそうです。


これを読む暇もなく、又、捨てるのもつれなく『焼くのには少々勿体ない』と大きな穴を掘り、その中に埋め塚を建てたのが『文塚(フミヅカ)』といわれ、この文塚は、小野の『随心院(ズイシンイン)』に今も尚、残されています。 


牛車(ギュウシャ)とは



※京都薬科大学を紹介しようかなと思われたら、先に話をして下さい


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皆様、この先、右手に京都薬科大学がご覧頂けます。


京都薬科大学(キョウトヤッカダイガク)は明治17年(1884)独逸(ドイツ)のルドルフ・レーマンにより創設されました京都私立独逸(ドイツ)学校に始まります。


大正8年(1919)京都薬学専門学校となり、昭和24年(1949)大学と名を改めた薬剤師さんの学校でございます。



参考


京都薬科大学は他の私立薬学部と比較し、企業への就職が多く、全体としては病院、保険薬局やドラッグストア、企業への就職率がそれぞれ約30パーセントであるのが特徴です。企業の中には製薬企業や治験を担う企業、化学メーカーなどがあります。その他、公務員や大学院進学後に大学教員となる人もいます。



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※天智天皇山科陵(テンジテンノウ)日時計(ヒドケイ)などの話をする時は、JR東海道線のガードをくぐる前に話をしておきますと、対象物を見つけやすいかと思います。



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これからJR東海道線のガードをくぐりますと、右手に森木立が見えて参りますが、天智天皇山科陵、その手前、道路のすぐ近く、民家の側に、日時計(ヒドケイ)がご覧いただけます。


また、天智天皇山科陵の右奥に加藤清正(カトウ キヨマサ)とゆかりの深い本圀寺(ホンコクジ)がございます。



※参考


「京都ツウ読本加藤清正とゆかりの深い本圀寺」で検索して、是非調べて下さい!




①に続く



※JR東海道線の話は、時間のある所で「皆様、京都と言えばJR東海道線の京都駅がございますが、京都駅から東に行きますと名古屋から静岡、東京方面に、又、反対、西に行きますと大阪から灘の生一本(ナダノキイッポン)で知られます港町(ミナトマチ)神戸へ連絡しております。神戸付近には・・」と話したり、伏見の酒の話などして見てはいかがでしょうか?



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JR東海道線 


この先、JR東海道線のガードをくぐります。


ガード 右へ参りますと、尾張名古屋を経て静岡から東京方面へ、又、反対、左に参りますと大阪から灘の生一本(ナダノキイッポン)で知られます港町(ミナトマチ)『神戸』へ連絡しております。


神戸付近には『神崎(カンザキ)』『三宮(サンノミヤ)』という駅がありますが


例えば、電車がホームに入りますと、駅員さんが『さんのみやーさんのみやー』と放送しますが、お酒の好きな方ですと、『さーのみなー、さーのみなー』と聞こえてみたり、『かんざきーかんざきー


』といっておりますのが、『かんざけー、かんざけー』と聞こえたりするとか・・・


お酒の好きな方には、一寸たまらない駅の様ですね! 



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①天智天皇山科陵


    (テンジテンノウ ヤマシナリョウ)



皆様、右手ご覧下さいませ!


こんもりと茂った森は、第三十八代天智天皇山科陵(テンジテンノウヤマシナリョウ)』でございます。


又、その手前、道路のすぐ近く民家の側に石碑が、ご覧いただけますが『日時計(ヒドケイ)』でございます。


この日時計は、昔、天智(テンジ)天皇が我が国、初の水(ミズ)時計を作って、役人の出勤時間を決めたという故事(こじ)にちなんで、昭和13(1938)に京都時計商組合が創業20周年を記念して作られたものでございます。



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天智天皇(テンジテンノウ)


ところで、天智天皇は『中大兄皇子(ナカノオオエノオオジ)』として朝廷におつかえになり、その間『大化改新(タイカノカイシン)』など政治の改革をおこなわれました。


そして、天皇の御位(ミクライ)につかれてからは、大津の町に『志賀(シガ)の都』を定められ、『時刻暦(ジコクレキ)』の制度を始められたりして、在位10年、白鳳(ハクホウ)10年12月3日、御年(オントシ)46歳をもってお亡くなりになられました。


御陵(ゴリョウ)は、高さ10m、面積84平方mあり、後、明治天皇の『桃山(モモヤマ)御陵』の模範(モハン)となったものでございます。



※参考


※水時計(ミズトケイ)


容器の小穴からしたたり落ちる水の量によって時刻を計る装置。


エジプトには紀元前(キゲンゼン)15世紀頃のものが現存しています。



※日時計(ヒドケイ)


一定の形の物体に日光があたって出来る影の位置によって時刻を計る装置。



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日ノ岡と粟田口の刑場


この辺り、昔は『日ノ岡(ヒノオカ)』と言って『粟田口(アワタグチ)の刑場』があった所でございます。


こちらでは、多くの尊い人命が断(タ)たれた所と言われ、その人々の霊(レイ)を慰(ナグサ)めるため、東海道を旅する人々によって『南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)』と書かれた六つの石碑が建てられていました。明治時代に入り、道路の拡張(カクチョウ)工事が行われましたが、五つの石碑が行方不明となってしまい、今ではただ一つ道路の脇に立っております。


また、この辺りは通行人が気味悪がって余り通らなかった所といわれ、明治43年『京阪(ケイハン)電車』の工事が行われた時には、何とカマスに30ぱいの人骨が出たとのことです。


※皆様、右手ご覧下さいませ! 


先程、紹介致しました『南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)』と書かれた石碑が電話ボックスの隣にございます


※石碑をご覧いただきましたら是非、手を合わせて下さいませ!


刑場(ケイジョウ)のあった所と話ましたが、中には無実なのに処刑されてしまった方もいらっしゃるのかも知れません!いずれにしても死とは悲しい事です。心よりご冥福をお祈り申し上げます!



※南無阿弥陀仏について


※京阪電車京津線(ケイハンデンシャ ケイシンセン)=平成9年、地下鉄東西線の開通により廃線



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九条峠(クジョウトウゲ)   


先程から、緩い上り坂を進めておりますが、東山三十六峰の一つ『九条峠(クジョウトウゲ)』でございいます。


この九条峠も、今でこそ完全舗装道路となっていますが、昔は道らしい道もなく徳川時代には木食上人(モクジキショウニン)により一筋(ヒトスジ)の道が開かれました。


更に、その後、明治八年に舗装工事が行われ、現在に至っております。


『ふとんきて寝たる姿や東山』と静かに横たわる東山三十六峰(ヒガシヤマサンジュウロッポウ)も、ただ今では自動車の往来がはげしく『ふとんきて寝てもおられぬ東山』と詠みかえたい所です。




末期の水(マツゴノミズ) 


※九条山駅を目印でしたが、京津線が平成9年に廃線になっていますのでわかったら話して下さい!



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末期の水(マツゴノミズ)


皆様、左手ご覧下さいませ!小さな石碑がご覧いただけますが『末期の水』の石碑でございます。


こうして、通って来ました道路工事に携(タズサ)わったのは、主(オモ)として刑務所の囚人達(シュウジンタタチ)であったといわれます。


この人々は、毎日重労働に苦しみ明日をもわからぬ体を昼の休み時

(ドキ)に、山合(ヤマアイ)から流れでる清らかな水を飲み、体を休めるのが唯一(ユイイツ)の楽しみとなっていました。

そのため、誰いうとなくこの水を『末期の水(マツゴノミズ)』と呼ぶ様になりました。


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蹴上浄水場(ケアゲジョウスイジョウ) 

左手に、蹴上浄水場がご覧いただけます。

琵琶湖(ビワコ)の水をひいて来て、ここで浄化(ジョウカ)して上水道として市内へ送り京都市民147万5000人の飲料水をまかなっております。

※令和5年の人口


又、この辺りは『つつじ』の名所として知られております。

昔、情熱(ジョウネツ)の歌人(カジン)与謝野晶子(ヨサノアキコ)が『御目(オメ)ざめの 鐘は智恩院(チオンイン)、聖護院(ショウゴイン) いでて見たまえ紫の水』と詠んだのはこの辺りでございます。


この歌を刻んだ石碑が、浄水場の中に建っております。 




水力発電所跡  


※車の流れにより見える位置は変わります。



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前方に見えて来ました赤い建物は明治28年に疎水(ソスイ)を利用して我が国で一番最初に設けられた『水力発電所跡』でございます。


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インクライン  

右手、坂の上に線路が敷かれている所は『インクライン(傾斜軌道ケイシャキドウ)』でございます。

琵琶湖から運河(ウンガ)を下(クダ)って来た船を高低(コウテイ)のはなはだしいこの蹴上(ケアゲ)で、緑色の船台(センダイ)に乗せてケーブルカー式に上下させておりました。


現在では、電車やトラックの方がずっと便利ですので、使っていませんが、文明開化(ブンメイカイカ)時代の名残(ナゴリ)として市民になつかしがられております。



※この辺りは○~○まで、距離が短いため、名前をあげるだけになると思います。


 


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ウェスティン都ホテル京都   


左手ご覧下さいませ! ひときわ高いホテルがご覧いただけますがウェスティン都ホテル京都でございます。

都ホテルと言えば、全国、海外各地に25施設ほどございますが、こちらがその総本家でございます。

地上8F、地下1F、一部11F建ての建物で、高さにして約30m程ございます。

この都ホテルには、アメリカのフォード大統領を始め、イタリアテルティーニ大統領、イギリスエリザベス女王などが宿泊されております。

また、イギリスのチャールズ皇太子御夫妻などが昼食会でお立ち寄りになっています。


参考

ところで、宿泊料金ですが『スィートルーム』で一泊30万円ということです(金額は曜日によっても変わります=食事代は別料金)

どうぞ機会がございましたら、一度お泊まり下さいませ! 


また、都ホテルウェスティン本館では、1962年11月24日に第11期、王将戦(オウショウセン)の第3局(キョク)、加藤一二三(カトウヒフミ)さんと大山名人

(オオヤマメイジン)の一戦(イッセン)が行われ、大山名人が291手で加藤一二三を敗りました。

この対局(タイキョク)は、日本プロ将棋界における歴史的な対局の一つとして知られています。

対局した場所は「大山ホール」と呼ばれ、当時、使用した将棋盤(ショウギバン)が展示されています。


また、令和5年10月11日、将棋の8大タイトルのうち、残る一つのタイトル獲得を目指す藤井聡太七冠(フジイソウタ ナナカン)が、永瀬拓矢王座(ナガセタクヤオウザ)に挑戦する将棋の 王座戦 五番勝負 第4局が行われ藤井聡太七冠が永瀬拓矢王座に勝利、21歳2カ月で将棋界史上初「全タイトル独占、藤井八冠誕生」となり、名古屋や都内の駅前で号外(ゴウガイ)が配られていました。


参考 藤井聡太さん


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南禅寺(ナンゼンジ)

南禅寺は、正応(ショウオウ)4年、亀山法王(カメヤマホウオウ)が、無関普門(ムカンフモン)を開山(カイザン)に迎(ムカ)えて、開創(カイソウ)致しました臨済宗南禅寺派(リンザイシュウ ナンゼンジハ)の総本山(ソウホンザン)で釈迦如来(シャカニョライ)をご本尊(ホンゾン)としています。

その後、火災に遭(ア)ったり致しましたが、江戸時代の初期に、ようやく昔の姿を取り戻したといわれます。

南禅寺は、京都のお寺の中でも格式(カクシキ)が高く、建武(ケンム)2年(1335年)京都五山(キョウトゴザン)の第一位とされたのですが、足利義満が京都・鎌倉五山十刹(ジッセツ)を定めた時に、五山の別格としてその位についたのです

寺号は、太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)といい 本尊は釈迦如来(シャカニョライ)

開基(カイキ=創立者)は亀山法皇が(ホウオウ)開山(カイザン)初代住職は無関普門(ムカンフモン=

大明国師ダイミンコクシ)

日本最初の勅願禅寺(チョクガン ゼンジ)といわれ京都五山(ゴザン)および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺(ゼンデラ)のなかで最も高い格式をもつお寺でございます。


南禅寺境内(ケイダイ)は平成17年(2005年)に国の史跡に指定されています。

また、永観堂(エイカンドウ)と並び紅葉の名所です。


南禅寺と言えば、1628年に建てられた重要文化財の三門(さんもん)が有名で、別名「天下龍門=テンカ リュウモン」とも呼ばれ日本三大門の一つに数えられています。

南禅寺を題目(ダイモク)とした歌舞伎演目に『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』があり、その中で、石川五右衛門(いしかわごえもん)の名台詞「絶景かな、絶景かな。」の舞台としても有名でございます。

(その時は春であり、桜の風景でした。)

「絶景かな・・・、絶景かな・・・!!」

石川五右衛門の気持ちが分かりますね・・・!!


参考

山門と三門の違い


琵琶湖疎水(ビワコソスイ) 

右手の流れは、琵琶湖疎水でございます。

都が東京に移ってから、京都はさびれていくばかりでしたが、『新しく産業都市として復興させよう

』という話が出て、交通と産業の面から考えだされたのが、琵琶湖疎水でございます。

当時、京都府知事『北垣国道』の命令を受けた青年技師『田辺作朗』が設計をして、明治18年から5年の歳月をかけて完成した運河です。 

水は、琵琶湖の三保ケ崎に発し、逢坂山をくぐり山科からこの辺りを流れ、やがて加茂川沿いに市内を流れて、伏見から淀川へ注いでおります。

その間、潅漑、発電、上水道などに広く利用されております。

京都が20世紀に入ってから、近代都市として栄えたのは、この運河のお陰であった事は申すまでもございません。 



岡崎公園  

右手、疎水の向こう側一帯が『岡崎公園』でございます。

花の名所『円山(マルヤマ)公園』とは、又、趣(オモムキ)を変えた大公園でございます

明治23年(1890年)、疎水(ソスイ)完成をさかいに平安神宮が作られ京都動物園、そして、岡崎公園が明治37年(1904年)国内勧業博覧会場跡に開園しております今では、野球場、テニスコート、公会堂、京都府立図書館、京都市美術館、京都会館、国立近代美術館などが建ち並び、今日では京都の『一大文化センター』の趣をみせております。


※平安神宮にバスで行く場合、疎水に沿いながら、慶流橋(ケイリュウバシ)、大鳥居(オオトリイ)を右に見て、東大路通(ヒガシオオジドオリ)の手前、水道会館の前で右に曲がり疎水沿いの道を走り2つ目の橋、冷泉橋を右、東に入りますと左側が観光バスの駐車場となります。



慶流橋(ケイリュウバシ)   


大鳥居   

右手に、平安神宮の大鳥居がご覧頂けます。

この鳥居は、高さ23m、幅18m、柱の周囲は11mもあり、大人8人でやっとひとかかえ出来る大きな物です。

外見は、木の様に見えておりますが、全部鉄筋コンクリート造りで、東京『靖国(ヤスクニ)神社』名古屋中村『豊国(トヨクニ)神社』の大鳥居(オオトリイ)と共に、日本三大鳥居の一つに数えられております。


京都市美術館  

京都市美術館は、前田建二朗氏の設計で昭和8年11月に開設しております。

こちらでは、市の主催による『公募展』や海外の芸術家の『展覧会』などが行われております。

そのほか、収蔵されている現代作家の作品が、随時公開されております。


京都国立近代美術館  

京都市美術館と向かい合っていますのが、京都国立近代美術館です

昭和38年4月に、東京国立近代美術館の京都分館として開館し、その後、昭和42年6月に現在の京都国立近代美術館となりました

この美術館では、国内外を問わず近代美術の紹介に力をいれております。

特に、近代美術の動きを示す物や、近代日本の工芸に関する展覧会が企画されております。



京都勧業館      

京都国立近代美術館の西側に続いているのは、京都勧業館です。

ここでは、京都市で作られる商品の展示がされております。



ワグネル記念碑

京都府立図書館のお隣、ご覧下さいませ!記念碑がございますが、明治時代、日本の工業技術進歩のために尽くした、ドイツ人『ワグネル』の記念碑でございます。

ワグネルは、明治元年に来日し、佐賀『有田焼(アリタヤキ)』の改良などに従事しておりましたが、明治11年から3年間、京都市に雇われて『陶磁器』『ガラス』『染色』『織物』などの改良や技術指導を行い、それ以後、東京で教鞭をとっていたそうです。    



平安神宮 

平安神宮は、京都に都(ミヤコ)を定めた最初の天皇『桓武(カンム)天皇』と、最後の天皇『孝明(コウメイ)天皇』のお二方(フタカタ)をお祭りしております

このお社は、桓武天皇が都を京都に定められた延暦13年(794年)から、丁度1100年にあたる明治28年に、京都市が造営した物です。

『大極殿(ダイゴクデン)』『応天門(オウテンモン)』は、昔の大内裏(ダイダイリ)8分の5に縮小して建てられました。少し屋根の形などに違いはありますが、遠い昔の都をしのぶことが出来ます。


※皆様、ご乗車お疲れ様でございました。


私、下車案内をさせていただきますので、駐車場へ着きましたらバスの外でお待ち下さいます様お願い致します。


出発時間は、何時何分でございます。  



平安神宮 下車案内 


応天門(オウテンモン)   

皆様、こちら応天門の正面をご覧下さいませ!

『応天門』と、書かれた額が掛かっておりますが、九州太宰府(ダザイフ)の宮司(グウジ)であった宮小路康文(ミヤノコウジヤスフミ)さんが書いた物といわれます。

ところで、平安時代当時の額は、弘法太師(コウボウダイシ)がお書きになり、上にかかげたのですが、どうしたはずみか『応』という字の点をうつのを忘れているのに気がついたそうです。

そこで、太師は筆にたっぷりと墨をつけて点をつけるべき所を見定め投げ付けた所、見事点を書き足したそうです。

そこから『弘法も筆の誤り』という諺が生まれております。



大極殿(ダイゴクデン)   

こちら、正面の建物は『大極殿』と申しまして、平安京の大内裏(ダイダイリ)の中でも、最も主な儀式が行われた所です。

※ 昔の政治の中心になっていた一番大切な御殿をかたどった物です。


現在は、神宮の拝殿(ハイデン)になっております。

この拝殿の後に『内拝殿(ウチハイデン)』があり、その奥に『御本殿』があります。東本殿に桓武(カンム)天皇、西本殿に孝明(コウメイ)天皇がお祭りされております

又、屋根の上に金色に輝いているのは『しび』と言って、魚の尾を形どった物といわれ『火災除け』のおまじないになっております。

この『しび』ですが、奈良の古いお寺にも見られます。


蒼竜桜(ソウリュウロウ)と白虎桜(ビャッコロウ)大極殿を中心に、左右『歩桜(ホロウ)』が延びて、緑の瓦も鮮やかな建物がございますが、右手(東)が蒼竜桜、そして、左手(西)が白虎桜でございます。



左近(サコン)の桜  

こちら、拝殿の前にある二本の木は、向かって右手が左近の桜、そして左手が右近の橘(ウコンノタチバナ)でございます

昔の大極殿にはなかったのですが御所のお庭にならって植えられた物です。



竜尾檀(リュウビダン)   

こちら前に四段ほど石段があり、朱塗りの欄干(ランカン)がございますが、あの上を『竜尾檀』と申します。

平安時代は、位の高い人々があちらに並んで儀式を行ったそうです



神楽殿(カグラデン)と額殿(ガクデン) 

今度、こちら左右、緑の瓦屋根の美しい建物は、右手が『神楽殿』と言って結婚式場になります。

又、反対左手は『額殿』と言って行事が行われる時の控え室になります。


※この左右、緑の瓦屋根(カワラヤネ)は、京都名産の清水焼きでございます。



神苑(シンエン)    

正面『大極殿』の後には『神苑(シンエン)』がございます。

この神苑には、『蒼竜池(ソウリュイケ)』『白虎池(ビャッコイケ)』『栖鳳池(セイホウイケ)』と三つの池があり初夏の『アヤメ』『カキツバタ』の頃の美しさは格別といわれます

又、神苑(シンエン)にございます『紅(ベニ)しだれ桜』も見事で、谷崎潤一朗(タニザキジュンイチロウ)の名作『細雪(ササメユキ)』に書かれて有名になりました



※それでは、簡単ですが下車案内を終わらせていただきます。


出発時間は、何時何分ですのでお願い致します。