京都⑨ 五条堀川~京都南IC



五条堀川  


車は、五条堀川の交差点にさしかかりました。

一寸、皆様こちらの歩道橋をご覧下さいませ!

京都市内の中では、一番長い歩道橋で一本の線にしますと350mという長さになります。



西本願寺(ニシホンガンジ)  

右手のお寺は、西本願寺でございます。

西本願寺は、浄土真宗本願寺派(ジョウドシンシュウホンガンジハ)の本山で「本願寺」が、正式名称の寺で俗に『お西さん』と呼ばれています。


親鸞(シンラン)上人(ショウニン)の末娘(スエムスメ)『覚信尼(カクシンニ)』がお開きになり、文永(ブンエイ)9年(1272)現在の知恩院(チオンイン)の所に上人の墓を移してお寺を建てたのが起こりでございます。

真宗は、それまでの仏教と違い、大変やさしい教えであった所から信者は益々ふえ大変盛んになりました。

しかし、その為に、他宗(タシュウ)の反感をかい大谷本願寺は、比叡山の衆徒(シュウト)に攻められ、お寺を焼かれてしまいました。

その後、八代の蓮如(レンニョ)上人が近江(オウミ)、北陸(ホクリク)などを布教(フキョウ)して勢力を回復し、京都山科(ヤマシナ)に本願寺(ホンガンジ)を再建したのです。

所が、ここでも日蓮宗(ニチレンシュウ)の宗徒(シュウト)と争って焼かれてしまい、後、大阪の石山(イシヤマ)、現在の大阪城の辺りに移りましたが、織田信長と対立して焼かれるなど度々法難(ホウナン)にあいましたが、天正(テンショウ)19年(1591)豊臣秀吉により現地にお寺が移され現在に至っております。     


興正寺(コウショウジ)  


※真宗興正派(シンシュウコウショウジハ)「本山興正寺(ホンザンコウショウジ)」


又、西本願寺に続いて、右手のお寺は、浄土真宗(ジョウドシンシュウ)の興正寺でございます。

越後(エチゴ)から赦免(シャメン)され、ひとまず京都へお立ち寄りになられた親鸞(シンラン)上人が山科にお建てになったお寺を移した物で阿弥陀如来(アミダニョライ)をご本尊としてお祭りしております。


JR京都線 東海道新幹線


京都タワー 

皆様、左手ご覧下さいませ! 京都タワーがご覧いただけます。

京都タワーは、地下3階、地上9階のタワービルの屋上に立つ地上131mの展望タワーで、展望室は、地上100mの所にございます。

このタワーは、昭和39年12月に工費五億七千万円をかけて作られた物です。

又、『エッフェル塔』以来の鉄骨の骨組(ホネグミ)による形式ではなく、世界で初めての『応力外被構造(オリョクガイヒコウゾウ)』となっていて特殊鋼(トクシュコウ)の円筒をつなぎ合わせた物で風速90mの台風にも耐えられるそうです。


東寺(トウジ)    

前方に、東寺の五重の塔がご覧戴けます。

教王護国寺(キョウオウゴコクジ) 高さ57mあり、現在、国宝に指定されております。

日本に、現存する木造の五重の塔の中では、世界最大の物でございます。

ところで、五重の塔と言えば、福井県勝山の越前大仏の中にも建てられており、高さ75mもありますが、あちらは鉄筋コンクリートで作られていますので、木造としてはこちらの塔が一番高い塔となっております。


東寺は、東寺(トウジ)真言宗の総本山で、正しくは『教王護国寺=キョウオウゴコクジ』と呼ばれるお寺です。


桓武(カンム)天皇は、奈良の都からこの京都に都を移された時、『王城鎮護=オウジョウ チンゴ』平安京の守りとして、羅城門(ラジョウモン)の左右に東寺(トウジ)と西寺(サイジ)を建てられましたが現在は、この東寺だけが残されております。

1100年の長い間にわたり、王城(オウジョウ)の地として栄えて来たこの京都で、今なお『平安京』当時の面影をとどめているのは、この『東寺』と『二条城』近くの『神泉苑(シンゼンエン)』だけです。

又、ここは、弘法大師(コウボウタイシ)にゆかりの深い、真言宗の根本(コンポン)道場として栄えて来た所で、比叡山(ヒエイザン)『延暦寺=エンリャクジ』と共に、我が国の仏教界に君臨(クンリン)されたというお寺でございます。

本尊薬師如来(ホンゾン ヤクシニョライ)、真言宗(シンゴンシュウ)の根本道場(コンポンドウジョウ)



九条通(クジョウドオリ)  

車は、九条通りを通っておりますが、この通りは『平安京(ヘイアンキョウ)』当時の南端(ナンタン)にあたります。


羅城門(らじょうもん)  

この九条通(クジョウドオリ)を、約200mほど、西に参りますと、昔、渡辺綱(わたなべのつな)が鬼の片腕(カタウデ)を切り落とした『羅城門跡』がございます平安京の始め頃、都の周囲には『羅城』という厚い囲いがございました。

その南正面に『羅城門』が開かれ、都の入口となっていたのです。

『羅城門』と言えば、芥川竜之助(アクタガワリュウノスケ)の小説にも書かれておりますが、その一部を読みますと・・・


『平安の末期、京都の町は地震、辻風(ツジカゼ)、火事、飢饉(キキン)


と災わいが続いて、一通りならず衰弱した事があった。洛中(ラクチュウ)がこの始末(シマツ)であるから羅城門の修理などもとより誰も捨てて返り見る者がなかった。

すると、その荒れ果てたのを良い事にして、狐狸(キツネタヌキ)が棲(ス)む、盗人(ヌスット)が住む、とうとう終わりには引き取り手のない死人(シニン)を、この門に持って来て捨てて行くという習慣さえ出来た・・・』とこんな風に書かれております。 


羅城門の桜上(ロウジョウ)で、死人の髪の毛を一本一本抜き取って、かつら屋に売り、糊口(ココウ)をしのぐあわれな人間さえ出てくる始末(シマツ)で華(ハナ)やかだった羅城門もとうとうこの様にして荒廃(コウハイ)していったのです。



国道1号線(R1)  

車は、先程からR1を南に向かって走っております。

このR1は、東京と大阪を結んでいますが、この辺りから大阪にかけて、俗に京都の京と大阪の阪

をとって『京阪(ケイハン)国道』と申しております。

又、通っているこの辺り一帯、京都の野菜の宝庫とも言われた鳥羽田(トバタ)でございます。

最近は、ご覧の様に大きな工場が立ち並び、京都市南区の工場地帯となっており、以前は、キャベツ人参、クワイ、壬生菜(ミブナ)といった多くの野菜が採れましたが今では、野菜の採れ具合も少なくなっております。

ところで、こちらの名産『九条ねぎ』は『上賀茂(カミガモのすぐき』『賀茂なす』、深泥池(ミドロガイケ)の『ジュンサイ』『淀(ヨド)大根』と並んで、京都の味覚を代表する物です

ちなみに、『東京ねぎ』は白根(シロネ)が長く、歯切れが良いのが特徴ですが、『九条ねぎ』は、白根が短く青葉の長いのが特徴です。

マグロと一緒にいただく『ねぎま』には、白くてコリコリする『東京ねぎ』が良いそうですが『すき焼き』には、この『九条

ねぎ』が大変よろしいそうです。 

浄禅寺(ジョウゼンジ)  

右手に入った所には『浄禅寺』がございます。

その昔、鳥羽の離宮(リキュウ)を護(マモ)る北面(ホクメン)の武士に渡辺の亘(わたる)という方がおりましたが、亘の妻、袈裟御前(ケサゴゼン)は同じ北面の武士、遠藤盛遠(エンドウモリトオ)に言い寄られたため、『その様にまでおっしゃって下さるのなら、私の夫、亘(ワタル)を亡き者にして下さい。そうすれば、貴方の妻になりましょう』と申しました。

そして、その夜、袈裟御前(ケサゴゼン)は夫の身替わりとなって、その若き一生を閉じてしまったのです。

結局、我が刀の下(モト)に倒れたのが、袈裟御前である事を知った盛遠(モリトウ)は出家(シュッケ)をして法然上人(ホウネンショウニン)の門に入り、後、伊豆の源頼家(ミナモトノヨリイエ)に挙兵(キョヘイ)を進めた鎌倉時代の傑僧(ケッソウ)、文覚上人(モンガクショウニン)である事はとても有名です。

現在、お寺には恋塚(コイヅカ)が残っておりそこは、袈裟御前の首を埋めた所といわれております。


鳥羽大橋  

これから、鴨川(カモガワ)にかかる『鳥羽大橋』を渡ります。

下流で桂川(カツラガワ)と合流し、更に淀川(ヨドガワ)に合流して大阪湾に注いでおります


京都南IC


城南宮(ジョウナングウ)   


左手の森は、城南宮でございます城南宮は、元々『鳥羽離宮』があったところです。

鳥羽離宮は、(1086年)白河

(シラカワ)天皇により建てられた物で鳥羽上皇も度々(タビタビ)行幸(ギョウコウ)されたそうです。

この鳥羽離宮はその後、南北朝(ナンボクチョウ)の戦乱によって焼かれてしまいましたが、元々この離宮の中にあった『城南寺(ジョウナンジ)』の鎮守(チンジュ)のお社であったのが、『城南宮』でございます。

 現在では、『方除(ホウ)け』の神様として知られ、国常立命(クニトタチノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)、神宮皇后(ジングウコウ)の三柱(ミハシラ)がお祭りされております。  


庭園    

境内には『楽水苑(ラクスイエン)』と呼ばれる庭園がございます。

このお庭は、昭和36年春に中根金作(ナカネ キンサク)さんにより作庭

(サクテイ)された『昭和の庭園』でございます。

こちらには、源氏(ゲンジ)物語に登場する草花(ソウカ)が、約80種類程植えてあり、色々と観察していただく事が出来る様になっております。

『楽水苑』では、毎年、春と秋に『曲水の宴(キョクスイノウタゲ)』が行われております。

曲折(キョクセツ)するゆるやかな登りの水上(ミナカミ)から、お酒の入った朱

(シュ)の盃(サカズキ)を乗せた水鳥(ミズトリ)の形をしている『うしょう』と

いうのを流して、これが歌を詠む歌人(カジン)の前に流れてくるまでに、三十一文字(ミソヒトモジ)の歌を詠(ヨ)み、その盃を受けるという物です

大変、古式(コシキ)ゆかしい行事で、現在でも宴会(エンカイ)などの席で『目上(メウエ)の方に献杯(ケンパイ)しお流れを頂く』という言葉がありますが、これは、この『曲水の宴(キョクスイノウタゲ』から起こった物です。  

※曲水の宴は、京都歌人協会の7~8名によって行われます、