⑦京都(平安神宮~慶流橋(ケイリュウバシ)~神宮道~八坂神社~東大路通~六波羅密寺(ロクハラミツジ)~清水寺



慶流橋(ケイリュウハシ)


赤い橋がご覧いただけますが、疎水(ソスイ)にかかる慶流橋でございます。


第四回内国勧業博覧会会場の正門の橋として、明治27(1894)年12月に工事が始められ翌年4月1日に開通した橋で,車輌通行に対応する為、昭和38年(1963)朱塗(シュヌリ)の鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられました。


「慶流橋」の名前は『続日本紀(ショクニホンギ)』の記述(キジュツ)にちなむものといわれ、擬宝珠(ギボシュ)6本の内、両端の4本には銘文(メイブン)が刻(キザ)まれています。




三条通(サンジョウドオリ)   


これから、三条通(R1)と京阪電車の京津(ケイシン)線を横断致します。


三条通は、昔の東海道にあたり東海道五十三次(ツギ)、上りの終点『三条大橋』は、ここから右手に五百mほど入った所にございます。


三条通に続いて渡りました線路は大津(オオツ)と三条を結ぶ京阪(ケイハン)電車の京津(ケイシンセン)線でございます。



粟田口(アワタグチ)   


この辺りを『粟田口』と言いますが、昔は、東海道『京都』への入り口として、大変重要な所でした



※右側にあります!


 京都華頂大


 華頂短大


 華頂女子高校・中



青蓮院(ショウレイイン)   


左手には、天台宗(テンダイシュウ)の門跡寺院(モンゼキジイン)の一つ『青蓮院』がございます。


この青蓮院(ショウレイイン)は、平安末期に比叡山(ヒエイザン)の東塔(トウトウ)から移された青蓮坊(ショウレンボウ)が、ここ青蓮院の始めといわれ、比叡山(ヒエイザン)の別院(ベツイン)となっています。


こちらは、代々皇族が住職となられた「青蓮院門跡(ショウレイインモンゼキ)」や『粟田口御所(アワタゴショ)』ともいわれた大変格式の高いお寺でご本尊は熾盛光如来曼荼羅(シジョウコウ ニヨライマンダラ)」をお祭りしております。



粟田(アワタ)神社  


又、青蓮院(ショウレイイン)の東側には『粟田神社』がございます。粟田神社は青蓮院の鎮守社(チンジュシャ)で、奉納(ホウノウ)してございます18本の鉾(ホコ)は『祇園(ギオン)祭り』の山鉾(ヤマホコ)の原型といわれます。


毎年10月14日の深夜に、鉾を担(カツ)ぎ出して太鼓をならし『芋(イモ)も大根も寝たらば起きよ』と練り歩くそうです。


この安眠妨害(アンミンボウガイ)なお祭りは、一時、中断されましたが、又、行われる様になったという夜の奇祭(キサイ)です。 



瓜生石(ウリュウセキ)   


右手、柵(サク)に囲まれた石は『瓜生石』と言って、智恩院七不思議(ナナフシギ)の一つに数えられております。


昔、この石の下から一夜の内に、つるが生えて実った瓜に、午頭天皇(こず)という字が現れていたと伝えられています。



智恩院(チオンイン)   


智恩院は、浄土宗(ジョウドシュウ)の総本山(ソウホンザン)で正しくは『華頂山大谷寺(カチョウザンオオタニデラ)』と申します。


ここは法然上人(ホウネンショウニン)により開かれたお寺でございます。


上人は、13歳の時に比叡山(ヒエイハザン)に登って、始め天台宗を学んでおられましたが、当時の宗教があまりに貴族的であったため、43歳の時に下山(ケザン)して、どんな人でも極楽往生(ゴクラクオウジョウ)が出来るという民衆のための新しい教えを広めて、当時の宗教界の大改革を行ったのでございます。


ところが、上人がお亡くなりになりますと、天台宗『延暦寺』の宗徒達が、浄土宗は邪宗(ジャシュウ)であるとして、法然上人(ホウネンショウニン)のお墓をあばき、お寺を荒らしたりしましたが、後、弟子の源智上人(ゲンチショウニン)がこの地にお寺を再興されております。


現在の伽藍(ガラン)は、徳川幕府の保護により整えられたもので、全盛期の面影をとどめております。


又、智恩院は、大変高い石段の上に建てられていますが、これは一旦(イッタン)事が起こった場合、徳川家康がここを城塞(ジョウサイ)にするためだったといわれます。




智恩院下車案内



山門(サンモン)    


こちら正面の山門は、『解脱門(ゲダツモン)』と申しまして、徳川二代将軍秀忠公がお建てになった物でございます。


高さ30mもあり、全国の山門の中では最も大きな山門といわれます。


丁度、正面にかけられている額は下から見ますと小さく見えますが、実際は、畳み一畳半(イチジョウハン)の大きさがあるといわれており又、額の文字は、霊元(レイゲン)天皇がお書きになったもので『華頂山(カチョウザン)』と書いてあります。


※山門は、昭和62年から修復工事が始められ、平成4年に完成しました。      



白木の棺(シラキノヒツギ)


こちらが、七不思議の一つ『白木の棺』でございます。


昔、このお寺が財政難に落ちいりました時、山門を売り払う話が出ましたが、命を惜しまず働きました大工の棟梁(トウリョウ)五味金右衛門(ゴミキンエモン)が死を以て思い止どまらせたといわれます。


棺の中には、五味金右衛門夫妻の木像(モクゾウ)があり、蓋を開けると祟(タタ)りがあるとの事です。



御影堂(ミエイドウ)   


この正面のお堂を『御影堂』と申しまして、法然上人の木像がお祭りされております。


寛永10年に徳川三代将軍家光が建てられた物で、正面(ショウメン)二十四間半(ニジュウヨンケンハン)、奥行き十九間(ジュウキュウケン)、重要文化財に指定されています。



忘れ傘  


それでは、今度こちら御影堂の右手、ひさしの所をご覧下さいませ


金網(カナアミ)が張ってある中に、唐傘のロクロと骨だけのものが見えておりますが、これが左甚五郎(ヒダリジンゴロウ)の『忘れ傘』でございます。


いろいろな伝説がございますが、一説によりますと、本堂を普請(フシン)した時、濡髪童子(ヌレガミドウジ)という白い狐が南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)の六字を和尚からいただいたそうです。お陰で、来世(ライセイ)は人間に生まれる事になったというお礼に、火除けのまじないを唱えて傘をあちらに差し込んだ物と言われます。


今も、この濡髪童子は『濡髪稲荷(ヌレガミイナリ』として祭られ、火除けの神様から縁結びの神として信仰されております。


又、ある日、このお寺の和尚さんが火廻(ヒマワ)りをしておりますと、一匹の白狐(シロキツネ)がでて来て『和尚さん和尚さん私の先祖は正一位稲荷大明神(ショウイチイイナリダイミョウジン)という位をもっていますが、私にも頂けないものでしょうか?』と申しますと、和尚さんは『よしよし、人から見あげられる様な事をすれば位を上げよう』といわれました。


早速、翌日、白狐は人に見あげて貰おうと思いお堂の軒裏の高い所に、傘を置いたといわれます。


白狐は『見あげられる』という事を勘違いしたのでしょう。


これも一つの物語ですが、どうか皆様方も狐に劣らない様な良いことを、なさっていただきたいと思います。



鴬張(ウグイスバ)りの廊下  


又、この『御影堂』から大方丈、小方丈に通じる550mの廊下が『鴬張りの廊下』になっています


こちらも七不思議の一つで、別名『忍び避けの廊下』ともいわれます。


徳川氏が要地にしていた時に作った物で、廊下の上を人が通りますと、どんなに静かに歩いても板裏


の留め金の作用で、床がキュッキュッとなるため、敵国のまわし者など、くせ者を防ぐのに役だったといわれます。


丁度、その音を聞いておりますと『鴬の泣き声に似ている』というので『鴬張り』という名で呼ばれる様になりました。



大鐘桜(ダイショウロウ)   


あちら、山の手、松の梢(コズエ)の間に見えるのがNHKから放送されます『除夜の鐘』でおなじみ智恩院の鐘でございます。


寛永13年のもので高さ6m、直径2m70 、厚さ29 、重さ37t半もあり、奈良『東大寺』『方広寺(ホウコウジ)』と並んで大きいことで有名です。


この鐘は、毎年、法然上人の法要(毎年4/19~25)と、除夜の時だけに鳴らすことになっております。




勢至堂(セイシドウ)   


あちらのお堂を『勢至堂』と申しまして、智恩院で一番古いお堂でございます。


昔、あの辺りが法然上人の『吉水禅房(ヨシミズゼンボウ)』のあった所でございます。


上人は、島流しにされた四国讃岐から許されてお帰りになり、ここで晩年を送って亡くなられたと言われます。


右手、崖の上に見えている建物は、法然上人と檀家信徒(ダンカシント)の納骨所(ノウコツショ)でございます。



友禅翁(ユウゼンオウ)の座像(ザゾウ) こちらは、友禅染を始めた『宮崎友禅の像』でございます。


友禅翁は京都に生まれ、いろんな色を使ってあの美しい染め方を考え出しました。


この像の作者は、京都生まれの彫刻家、東京芸術大学教授『菊地一雄(キクチカズオ)』氏でございます。


          


 


智恩院の七不思議   


色々な所から知恩院を画像とあわせて紹介していますので是非参考にして下さいね!



鴬張(ウグイスバ)りの廊下


白木の棺(シラキノヒツギ)


忘れ傘


集会堂(シュウエドウ)の大杓子(オオシャクシ)


襖絵(フスマエ)の抜け雀


三方真向(サンポウマムカイ)の猫


瓜生石(ウリュウセキ)



集会堂の大杓子


『大方丈(ダイホウジョウ)』入口の廊下の真上にある天井に、長さ25m、重さ30kgという大杓子が置いてありますが、何の為に置いてあるのか見当がつかないといわれています。



襖絵(フスマエ)のぬけ雀


抜け雀とは、大方丈『菊の間』の襖にある傷で、これは多分そこに描かれていた雀が飛んでいってしまったのだろうという憶測(オクソク)があります。


      


三方真向(サンポウマムカイ)の猫


大方丈の、廊下の杉戸(スギト)に描かれた狩野信政(カノウノブマサ)の三方正面真向の猫は、どこから見ても正面を見ているといわれます。



※瓜生石(ウリュウセキ)は、平安神宮から神宮道を知恩院に向かって南に下がる途中、左、親鸞聖人旧御廟所の手前右手、大照学園(タイショウガクエン)の近くにあります。



瓜生石(ウリュウセキ)


右手、柵に囲まれた石は『瓜生石』と言って、智恩院七不思議(ナナフシギ)の一つに数えられております。


昔、この石の下から一夜の内に、つるが生えて実った瓜に、午頭天皇(こず)という字が現れていたと伝えられています。



円山(マルヤマ)公園  


円山公園は、京都で一番古い公園で明治19年(1886年)に開設されております。


ここは『花』の名所、特に『祇園(ギオン)の夜桜(ヨザクラ)』として知られ、以前は、樹齢200数十年の枝垂桜(シダレザクラ)がありましたが残念ながら枯れ死してしまい、今では二世が植えられております。


『清水(キヨミズ)へ 祇園をよぎる

桜月夜 今宵あう人皆美しき』


と与謝野晶子先生のお歌が忍ばれる所です。



※歌の意味を現代語に訳しますと


「清水に行こうと祇園を通り過ぎると、桜が咲き誇る朧月夜。今夜すれちがう人々は、誰もみな美しく見えました」



又、この公園の近くには、東本願寺(ヒガシホンガンジ)の納骨所(ノウコツショ)『東大谷廟(ヒガシオオタニビョウ)』を始め、西行法師(サイギョウホウシ)が生涯を閉じられた『双林寺(ソウリンジ)』『西行庵(サイギョウアン)』や京都の誇る『野外音楽堂』いもぼう料理で知られます『平野屋ヒラノヤ』などのお店もございます。



よしもと祇園花月(ギオンカゲツ)


右手の建物は、よしもと祇園花月でございます。


人気の若手から実力派のベテランまで、豪華出演者による漫才・落語・諸芸(ショゲイ)など京都のオリジナルな「祇園吉本新喜劇」を毎日上演しており、京都でも、生の笑いを体感していただける所でございます。



八坂(ヤサカ)神社  


左手のお社は、八坂神社でございます。


こちらには、『スサノオノ命』とそのお妃『クシナダ姫命』、そして8人のお子様をお祭りしております。

このお社は、平安時代よりずっと以前から祭られていたという大変古いお社で、貞観(ジョウガン)年間(859~77)に疫病(エキビョウ)の守り神といわれる午頭(ゴズ)天皇をお祭りした所から『祇園精舎(ギオンショウジャ)』と呼ばれる様になりました。


現在の本殿は、『祇園造り』といわれる特殊な建て方で、江戸時代承応(ショウオウ)3年(1654年)徳川四代将軍家綱(イエツナ)の再建といわれております。


こうして『祇園社(ギオンシャ)』で知られます『八坂神社』が、ある所から、この辺りを『祇園』と呼び又、京都の人々は神社のことを『祇園さん』と呼んでいます。



南座(ミナミザ)  


祇園の交差点から右手、四条(シジョウ)通りを西に入った四条大橋の近くに『南座』がございます。 


南座は、我が国で最も古い劇場で毎年、師走には歌舞伎(カブキ)の顔見世興行(カオミセコウギョウ)が行われ、京都の年中行事の一つになっております。


歌舞伎は、出雲(イヅモ)の阿国(オクニ)が『念仏(ネンブツ)踊り』から『歌舞伎踊り』を作り、その基礎を築いたといわれます。


その阿国が、慶長8年(1603年)に鴨川(カモガワ)の河原で『念仏踊り』を興行(コウギョウ)いたしました。


それから、四条河原(シジョウガワラ)は演芸(エンゲイ)のメッカのようになり六軒の芝居小屋が出来ました。


その後、幕末には、この南座と北座の二座になり、明治27年の四条通りの拡張(カクチョウ)で『南座』だけが残ったのです。


又、この南座の西には、阿国歌舞伎(オクニカブキ)の発祥地の碑がございます。


これは昭和28年に、歌舞伎発生350年を記念して建てられた物です。



※弥栄(ヤサカ)会館は、老朽化(ロウキュウカ)や耐震性(タイシンセイ)の問題により本来の用途である劇場を含む大部分が使用されなくなった為、歴史的・文化的価値のある「弥栄会館」を現代のニーズに合わせたホテルとして再生するとともに、歌舞練場(カブレンジョウ)耐震改修をはじめとする歌舞練場敷地全体の一体的な整備に貢献(コウケン)することも目的として、2026年の完成を目指して工事が行われています。



(参考)


弥栄会館 


右手、竜宮城の様な建物は『弥栄会館』でございます。


こちらは、舞妓(マイコ)さんが踊りを練習される所といわれ、この辺りを歩いておりますと時折、舞妓さんの姿も見られます。



(参考)


祇園甲部歌舞練場(ギオンコウブカブレンジョウ)


又、弥栄会館のすぐお隣には、祇園甲部歌舞練場がございます。


こちらは、都(ミヤコ)踊りの開催される会場として知られます。


普段は『温習会(オンシュウカイ)』などの貸会場になっており、観覧席は1,2Fをあわせ1300席程あるそうです


※都おどり


都おどりは1872年(明治5年)に勧業博覧会(カンギョウハクランカイ)の催(モヨオ)し物として行われたのが始まりで、『都おどりはヨーイヤサァ』のかけ声で始まる賑やかな行事です。


井上八千代(イノウエヤチヨ)先生の指導による、京舞(キョウマイ)『井上流』の舞踊(ブヨウ)が、祇園甲部の芸妓(ゲイコ)、舞妓(マイコ)さんにより披露(ヒロウ)されています。



※温習会(オンシュウカイ)


日本舞踊(ブヨウ)など練習の成果を発表する会



霊山(リョウゼン)観音  


左手、少し入った所に『霊山観音』がございます。


りょうぜん この観音様は、戦争犠牲者の冥福を祈って建立されたコンクリートの座像で、山崎朝雲(ヤマザキチョウウン)氏によって昭和30年に出来た物です。


高さ24mの像の台座には、十一面千手観世音菩薩(ジュウイチメンセンジュカンノンゾウ)を中心に二十八部衆(ニジュウハチブシュウ)と風神(フウジン)、雷神像(ライジンゾウ)などを祭っています。


像の裏から胎内(タイナイ)に入ることが出き胎内には十二支(ジュウニシ)の守り本尊を祭っています。


又、境内には、宝物殿(ホウモツデン)


納骨堂(ノウコツドウ)禅堂(ゼンドウ)不動堂(フドウドウ)鏡池などがございます 


高台寺(コウダイジ) 


この霊山観音の近くには、萩の名所として知られます臨済宗建仁寺派(リンザイシュウケンニンジハ)のお寺『高台寺』がございます


高台寺は、豊臣秀吉の夫人『北政所(キタノマンドコロ)』が母『朝日局(アサヒノツボネ=アサヒドノ)』を弔(トム)うため


寺町(テラマチ)に建てた『康徳寺(コウトクジ)』が起こりといわれます。


その後、秀吉が亡くなってから北政所は尼となり秀吉の菩提を弔うために、慶長11年(1606)


康徳寺をこの地に移し、高台寺を建てました。


当時、徳川家康は北政所の関心を買うために、財を惜しまず造営を援助したため、大変、壮麗(ソウレイ)な寺院であったといわれます。


又、秀吉夫妻が生前(セイゼンに使っていた『蒔絵(マキエ)』の道具類は『高台寺蒔絵』と言って今もお寺に残っています。



※お寺のすぐ近くには、甘酒で知られる『文の助茶屋(ブンノスケヂャヤ)』がございます。



法観寺(ホウカンジ)八坂塔(ヤサカノトウ) 皆様、左奥ご覧下さいませ!  東山(ヒガシヤマ)で一番美しい高さ40mの八坂の塔(五重の塔)がご覧いただけます。


八坂の塔で知られます『法観寺』は、飛鳥時代(崇竣(スシュン)天皇の頃)に聖徳太子が創建した物です


京都市内では、最も古い寺院といわれておりましたが、雷のために焼けてしまい、現在の建物は、室町時代(1440年)時の足利四代将軍義教(よしのり)が再建した物です。


こちらには、『八坂の塔』を始め『太子堂』『薬師堂』などがございます。 



六波羅密寺(ロクハラミツジ)


右手、西に入った所に、六波羅密寺がございます。


ここは昔、平家の六波羅屋敷があ


った所で、後、鎌倉幕府の探題(タンダイ)が置かれた事から、源平両氏の史跡としても知られております


この跡に、空也上人(クウヤショウニン)が悪疫退散(アクエキタイサン)の祈念(キネン)をこめて、十一面観音(ジュウイチメンカンノン)を本尊として建てたのが『六波羅密寺』で、現在、空也上人と平清盛(タイラノキヨモリ)が祭られています


このお寺は『西国(サイゴク)巡り』


17番目の札所になっており、近くには、京都七福神の1つ『えびす神社』がございます。 



清水寺(キヨミズデラ) 075 551 1234


※清水寺の原本⑤清水寺原本資料も良かったら参考にして下さい!



モデルコース


仁王門(ニオウモン~西門~鐘楼~三重塔~随求堂(胎内めぐり~経堂~開山堂(田村堂~朝倉堂(アサクラドウ)~音羽の滝



○清水寺 ホームページで検索!


○清水寺の歴史や見所は検索!


○清水寺の面白い豆知識検索!


○清水寺の秘密検索!


○清水寺の舞台から飛び降りる検索!


○清水寺の7不思議で調べますと検索!



清水寺の15不思議検索!


①首振り地蔵


②馬駐(ウマトドメ)の金具 


③阿阿(ああ)の狛犬(コマイヌ)


④仁王門のカンカン貫(ヌ)き 


⑤虎の図の石灯籠(イシトウロウ)


⑥鐘楼(ショウロウ)の柱


⑦景清爪掘(カゲキヨツメホ)りの観音


⑧三重の塔の屋根 


⑨轟橋(トドロキバシ)


⑩轟の門 


⑪手水舎(テミズシャ)


⑫梟(フクロウ)の手水舎(テミズシャ)


⑬弁慶の指跡 


⑭弁慶の足形(アシガタ) 


⑮清水の舞台



○随救堂(ズイグウドウ)胎内巡り



○現地でのガイド案内は、限られた時間内での話になりますので、私は、予め車内で話をして「こちらが車内でご案内致しました○


○です」「こちらが、七不思議の一つです」という話し方になると思います!


どうしても確認したいな!というお客様には「先に気をつけて行って見て下さい、出発時間のお間違えのないようにお願い致します」と話をしています。



清水寺(キヨミズデラ)


皆様、間もなくで『清水寺』に到着致します。


清水寺は、奈良興福寺(コウフクジ)と同じく法相宗(ホッソウシュウ)のお寺で、今から1200年程前に延鎮(エンチン)上人が木津川(キヅガワ)上流の観音堂(カンノンドウ)をこの地に移されたのが始まりでございます。


その後、征夷大将軍(セイイタイショウグン)の坂上田村麿呂公(サカノウエタムラマロコウ)が奥州征伐(オウシュウセイバツ)の時、敵の囲みに落ち苦戦(クセン)をしていた所、清水寺の菩薩(ボサツ)の霊現(レイゲン)によって無事囲みを破り目的を遂(ト)げる事が出来ましたので、坂上田村麿呂公が援助して、大きなお寺となりました。


しかし、このお寺は、奈良興福寺(コウフクジ)の末寺(マツジ)であったため、奈良の僧兵(ソウヘイ)と比叡山(ヒエイザン)の僧兵(ソウヘイ)の争いの中、比叡山の僧兵により、建物が焼かれてしまい現在の建物は、寛永(カンエイ)年間、徳川家光公が再興した物でございます。


又、平安時代から観音霊場(カンノンレイジョウ)として名高く、西国(サイゴク)三十三ケ所、第16番目の札所(フダショ)になっております。


御本尊は、十一面千手観世音菩薩(ジュウイチメンセンジュカンゼオンボサツ)でございます。  



清水寺下車説明 



首振地蔵は、仁王門の手前、善光寺堂(ゼンコウジドウ)の右横にあります。



①首振地蔵(クビフリ)二代目  


こちらのお地蔵様を『首振地蔵』と申します。(高さ40~50㎝位)


お地蔵様の首が360度動く様になっていて、願(ガン)をかける時は、願う方向にお地蔵様の首を向けて祈念(キネン)しますと、願(ネガ)いがかなうと言われます。



※初代のお地蔵様は江戸時代から参拝客が願(ガン)をかけすぎた為、首がすりへってしまいました。


役目を終えたお地蔵様は、二代目の後方、格子戸(コウシド)の中に安置されています。



②馬駐(ウマトドメ) (馬の駐車場)  


こちらの建物は、『馬駐』でございます。(5頭の馬を繋ぐ事出来る)


昔は、こちらまで馬で登って来てここに馬を繋(ツナ)いでお参りをしました。


全国のお寺の中で、『馬駐』が完全な形で残っているのは、この清水寺だけといわれます。


建物は、室町時代の建築(重要文化財)で、正面10.2m、側面5、切妻造(キリヅマツクリ)、本瓦葺(ホンカワラブキ)となっております。   


馬駐の金具!七不思議!



③仁王門(ニオウモン)重要文化財   


正面に赤い門がご覧いただけますが、『赤門(アカモン)』とも『目隠し門』とも言われます『仁王門』でございます。


『仁王門』は、門の両側に『仁王様』が祭ってある所から名前がつけられております。


また、『赤門』ですが、ご覧の通り赤く塗ってありますので『赤門


』ともいわれます。


もう一つ『目隠し門』ですが『西門(サイモン)』の位置から、京都の町を見下ろしますと、右下に御所があり、天皇のお住まいを足元(アシモト)に見下(ミオ)ろしては、余りにも恐れ多いということから『目隠し』にこの門を作ったそうです。そのためこの門を『目隠し門』とも呼んでいます。


建物は、室町時代後期の物で、三間一戸(サンゲンイッコ)入母屋造り(イリモヤヅクリ)の檜皮葺き(ヒワダブキ)高さ14m、幅10m、奥行き18.4m、仁王像(ニオウゾウ)は高さ3m65㎝ございます。


現在の仁王門は、平成15年(2003)解体修理が行われ、室町時代後期に再建された当時の美しい赤色が再現されています。


仁王門のカンカン貫き!七不思議



④狛犬(コマイヌ)    


正面に、二匹の犬が座っております。お寺に『狛犬』というのも一寸変わっておりますが、こちらでは、二匹とも大きな口を開けています。


普通ですと『ア』『ン』の形(カタチ)と言って、一つが口を開いていますと、一つが閉じているのですが


こちらでは、二匹とも大きな口を開いている阿形(アギョウ)で、昭和


19年(1944)に作られております。


ここでは、この『狛犬』のことを『笑い獅子(ジシ)』と言っています。


昔から、誰でも疲れたりしますと一寸したことで、すぐに腹を立て喧嘩になる様です。そこで、腹を立てたままお参りしていただいても御利益(ゴリヤク)がないというので、あの様に大きな口を開けて、笑いながら楽しくお参りして下さいということです。



どうぞ、皆様方も童心(ドウシン)にかえって楽しくお参りしていただきたいと思います。



⑤虎の図の石灯籠!七不思議!


西門の手前にあると思います!位置確認をお願いいたします!




西門(サイモン)    


こちらの門は『西門(サイモン)』でございます。一名(イチメイ)『勅使門チョクシモン』とも言われ、慶長12年(1607)に建てられましたが、2003年に解体修理が行われています。


『門』としては、めずらしく舞台がついていて、神社の拝殿の様な感じになっております。


桃山時代を代表する『唐門(カラモン)』の一つで、重要文化財に指定されていて、門の両脇(リョウワキ)に立ちます一対(イッツイ)の金剛力士像(コンゴウリキシゾウ)が仁王門の迫力(ハクリョク)に拍車(ハクシャ)をかけております。



三重塔(サンジュウノトウ) 七不思議!  


こちらが『一寸法師(イッスンボウシ)』で知られます清水寺の『三重塔』でございます。


高さ30、1m 国内最大級の塔でございます。


三重塔の屋根の四隅(ヨスミ)を見ていただきますと、屋根の先に鬼瓦(オニガワラ)があります。この鬼瓦は、三重塔の初層(ショソウ)から三層目まで各層の四隅(ヨスミ)にあり、東南の鬼瓦だけは、龍になっています。これが七不思議の一つで、龍は水神であるところから火除けの神様として知られています。


本堂と同じく、寛永(カンエイ)9年(1632年)の再建です。



参考


近世以前の現存する三重塔で日本最大の高さ誇るのは奈良薬師寺(東塔)の三重塔(高さ34m)


     


鐘桜(ショウロウ) 七不思議!    


こちらの鐘桜は、慶長12年(1607)に作られた物で、桃山時代の特徴がご覧いただけます。 


醤油は4本の柱で支えることが一般的ですが 木を見ての収納はどこの発明が使われている 七不思議!



慈心院(ジシンイン)


本尊=大随救菩薩座像(だいずいぐボサツザゾウ)


随救堂(ズイグウドイ)の胎内巡り!


七不思議!



経堂(キョウドウ)    


こちらの建物は、お経の本を納めていた『経堂』でございます。


昔、お坊さんたちが修業された所で『講堂(コウドウ)』とも申します。



田村堂   


この赤い建物は「田村堂=開山堂 (カイサンドウ)」と言って、このお寺を開かれた延鎮上人と、後に、このお寺を再建された坂上田村麿呂公が祭られております。



本坊(ホンボウ)    


左手奥に門があるところは『成就院(ジョウジュイン)』と言って、清水寺の本坊、お坊さんたちのおられる所です。


特に、ここのお庭は、江戸時代を代表する庭園で『相阿弥(ソウアミ)』の作と伝えられております。


又、正面に三つの石碑が見えておりますが、向かって右から月照上人(ゲッショウショウニン)真ん中が西郷隆盛(サイゴウタカモリ)、左が信海上人(シンカイショウニン)の碑でございます。


明治維新の時、この三方(サンカタ)は力をあせて国争(コクソウ)に尽(ツ)くされたといわれます。


月照上人と西郷隆盛は、幕府の追求がきびしい為、薩摩(サツマ)の沖に身を投(トウ)ぜられましたが、隆盛だけ救われたとのことです。



轟門(トドロキモン)  


こちらの門を轟門と申します。夜になりますと、涌き出す水の音が轟く所から『轟門』と呼ばれています。



朝倉堂(アサクラドウ) 重要文化財


永正(エイショウ)7年(1510)に創建されましたが、大火で消失、寛永(カンエイ)10年(1633)に再建されたもので平成25年(2013)半解体修理が行われました。


正式名称は、法華三昧堂(ホッケザンマイドウ) と言います。


応仁(オウニン)、文明(ブンメイ)の乱による疲弊(ヒヘイ)からの再建の折り、多額の寄進を行った戦国大名、朝倉貞景(アサクラヨシサダ)にちなみ朝倉堂と 呼ばれ、千手観音がお祭りされています。



弁慶の下駄(ゲタ)と錫杖(シャクジョウ)こちらは、弁慶さんの下駄と錫杖(シャクジョウ)でございます。


昔、弁慶さんがこの下駄を履き、錫杖を杖にして京都の町を歩いたとか・・・


ところで、この下駄は片方で12K、錫杖が大きい方で長さ約2.6m


重さ96K、小さい方で長さ1.7m


重さ17kもありますので、いくら力のある弁慶さんでも少々無理という物です。


これは、東本願寺(ヒガシホンガンジ)の近くに住んでいた、鍛治屋(カジヤ)さんが病気平癒の祈願をした所、願いが叶った為に明治20年、お礼に奉納(ホウノウ)された物です。


昔から、ことわざに長い旅をする時に『金のワラジを履く』とか申しますが、この様な鉄の下駄をお


履きになりますと、どんな足癖の悪い方でも一生履物には不自由されない様です。


又、京都の御婦人方は、この下駄を浮気封じの下駄と言って、御主人が出張される時には、この下駄


に願をかけられるそうです。


すると、御主人方は足が重いためか、途中で道草や回り道などなさることなく、一番近い道をお通り


になって帰られるとのことです。


そういった所から観光客の方が下駄を持ち上げられますと・・・


※男性…鎖でとめられているので一生浮気が出来ない


 女性…一生履物に不自由しない


といわれております。


又、錫杖を持ち上げられますと


※男性…商売繁盛(お家繁盛)


 女性…かかあ殿下になられるそうです。   


       


仏足石(ブッソクセキ)   


正面、石におおきな足形(アシガタ)が刻まれておりますが、『仏足石』といいます。


昔、仏像の作られていない時代に、お釈迦様(シャカサマ)の足の形を刻んで、信仰の対象とした物です。



浮世絵(ウキヨエ)   


この正面に、かかっている額は、浮世絵の元祖(ガンソ)として知られる『岩佐又兵衛(イワサマタベエ)』作で、江戸時代の大名行列の様子が書いてあります。


長年、風雨(フウウ)にさらされて、何が書いてあるのかわかりませんが、そこに国宝の価値があるそうです。



本堂清水寺では欠かせないスポット! 


こちらが、ご本堂でございます。


都が、奈良から京都に移される直前に、一時、長岡に都が置かれましたが、その折、長岡京(ナガオカキョウ)に建てられた『紫殿シンデン』を、ここ清水寺の『本殿(ホンデン)』として移した物といわれます。


現在の建物は、寛永10年、徳川家光公が再建した物で、国宝に指定されています。


御本尊は、十一面千手観音菩薩西国三十三ケ所巡り第16番目の札所(フダショ)となっております。


又、この本堂の屋根は、すべて桧皮葺(ヒワダブキ)、舞台造りの代表的な物として、重要文化財の指定を受けております。


それでは舞台に立って、前の美しい景色をご覧下さいませ!



前景    


ただ今、皆様がお立ちになっております所が『清水の舞台』でございます。  


この下、一帯を『新高尾シンタカオ』と言って、『桜』と『紅葉』の名所になっております。崖から望む景色は美しさに言葉をうしなってしまう位素晴らしい所です!


正面、一際高い山は『阿弥陀ケ峰アミダガミネ』と言って、秀吉公のお墓『豊国廟ホウコクビョウ』がございます


又、木立の中にある『三重塔』は『泰山寺(タイサンジ)・子安の塔(コヤスノトウ)』でございます。


あちらには、奈良時代、光明(コウミョウ)皇后がお祈りになり、孝謙(コウケン)天皇が授かったと伝えられる『子安観音』がお祭りされております。


この『子安の塔』の、右手一帯の山は『鳥辺山トリベヤマ』と言って、平安の頃から墓地となっている所です。


ここは、戯曲『鳥辺山心中』(ギキョク トリベヤマシンジュウ)の舞台になった所でございます。


『鳥辺山心中』とは、岡本綺堂(オカモトキドウ)作の歌舞伎戯曲(カブキギキョク)で将軍上洛(ジョウラク)のお供に加わった『菊地半九郎キクチハンクロウ』と祇園(ギオン)の遊女(ユウジョ)『お染め(オソメ)』が、鳥辺山で心中する物語です。



奥の院 阿弥陀堂 釈迦堂  


お堂が三つ並んでおりますが、一番右の端は『奥の院オクノイン』と言って、このお寺を開かれた延鎮(エンチン)上人のお住まいの跡です。


この『奥の院』の裏には、『濡手(ヌレテ)観音』がございます。


これは、水中(スイチュウ)に安置している石造の小さな観音様のことで、水をかけて祈願する所から『水かけ観音』ともいわれます。


続いて、真ん中のお堂は『阿弥陀堂アミダドウ』で、法然(ホウネン)上人が念仏の修業をされた所です。


そして、一番奥が『釈迦堂シャカドウ』でございます。



地主(ジシュ)神社  


こちら鳥居の立っている小さなお社は、清水の鎮守(チンジュ)で『縁結びの』として知られます『地主神社』でございます。


神社の本堂前には、一対(イッツイ)の『めくら石』があり、一方から目を閉じて、もう一方の石にたどりつくことが出来ると、願いがかなうといわれます。


この神社は、奈良時代に創建(ソウケン)され『大国主命オオクヌシノミコト』『スサノオノ命』『クシナダ姫命』がお祭りされております。


又、先程ぶしつけに、大きな口を開けて笑っていた狛犬(コマイヌ)は、このお社の物です。



音羽の滝(オトワノタキ)  


こちらに三筋(ミスジ)の滝がございますが『松風や 音羽の滝の 清水を 結ぶ心は 涼しかるらん』


と、御詠歌(ゴエイカ)に詠まれている『音羽の滝』でございます。


昔、延鎮上人がこの滝で修業されたという故事(コジ)にならい、今でも白衣に身をつつんで水ごりを取られる行者(ギョウジャ)の方が、後を絶えないといわれます。


このお水は、飲んでいただきますと手前から『長生き』が出来、真ん中が『縁が結ばれ(ロマンスが


生まれる)』、一番向こうは『頭が良くなる』と言われます。


三つともお飲みいただきますと、その効き目がなくなりますとか、どちらかお好きな水を一つだけお


飲み下さいませ!       


      


清水の舞台 ※下から見上げて


では、下から『清水の舞台』をもう一度ご覧下さいませ!


崖から、はみ出したこの建物を支えるため139本も柱が使われております。一番長い柱は12mもあるそうです。


こちらでは、釘(クギ)は一本も使わずに、見事に美しく組み上げられております。 


これを『懸崖造り(ケンガイヅクリ)』


又は『かけ造りの地獄どめ』と言


って、この様な建て方は『石山寺寺(イシヤマデラ)』や大和『長谷寺(ハセデラ)』にもありますが、中でも一番立派な物といわれます。


何でも思い切ったことをする時は『清水の舞台から飛び降りた気持ちで……』と申しますが、こちら


の舞台のことを言っております。



それでは、下車説明は終わらせていただきますので、よろしくお願いいたします。


皆様、先程の駐車場に、何時何分までにお帰り下さいませ!