③京都(嵐山~金閣寺)

右に入った所に太奏(ウズマサ)の『映画村』がございます。

映画といえば、我国では明治30年にフランスから映写機(エイシャキ)を買い入れ、四条河原(シジョウガワラ)で試写を行ったのが最初で、当時の人々は写真が動くといって大変珍しがったそうですが、その後、日本『映画界』も急速な発展をとげております。

太奏(ウズマサ)の東映撮影所では昭和50年11月にオープンセットを遊ばせておくのは勿体ないという声が出まして撮影所の一部約2万8千平方mの敷地に7億円をかけて、江戸時代の町並を再現させ、『映画村』として一般に公開する様になったものです。(名誉村長  故片岡千恵蔵(カタオカチエゾウ))


※映画村の近くにあります。

広隆寺(コウリュウジ)

広隆寺は、推古(スイコ)天皇の御代(ミヨ)、秦川勝(ハタカワカツ)が建てた物で京都では一番古いお寺でございます。

建物は、度々火災にあっておりますが、仏像は飛鳥(アスカ)時代から室町時代にかけて優秀な作品が多く中でも、国宝第一号として広く紹介されました、ご本尊の『弥勒菩薩(ミロクボサツ)』は大変有名でございます。

かすかにほほ笑みをたたえた口元また指先を軽くほほにあて、物思いにふける姿はとても美しく奈良の中宮寺(チュウグウジ)本尊と共に広く知られています。

また、ここのお祭りは『牛祭り』と言って、毎年10月12日の夜に行われ、宇治の『県(アガタ)祭り』や鞍馬(クラマ)の『火祭り』と共に知られております。 


双ケ丘(ナラビガオカ)  

前方ご覧下さいませ! なだらかな丘が三つ並んで見えておりますが、双ケ丘でございます。

左から右にかけて『一の丘』『二の丘』『三の丘』と申しますが、鎌倉時代末期『二の丘』の麓に兼好法師(ケンコウホウシ)が庵(イオリ)を結んでおります。

兼好は、南北朝時代の人で和歌(ワカ)にすぐれ、名随筆家(メイズイヒツカ)として有名な方で『従然草(ツレヅレクサ)』を書かれました。

兼好は

『ちぎりゆく 花と双(ナラビ)の丘の辺(ヘ)に あわれ幾夜(イクヤ)の春を過ごさん』

と歌っていますが、昔から「双ケ丘=ナラビガオカ」は詩歌(シイカ)文学にゆかりの深い所として有名でございます。

『二の丘』の東麓に『長泉寺(チョウセンジ)』があり、そこに兼好のお墓がございます

又、『一の丘』の山頂には、平安時代初期の貴族、清原夏野(キヨヒラ ナツノ)のお墓がございます。

この方は、政治的手腕(しゅわん)にも大変すぐれた人で、双ケ丘の麓に山荘を作り天皇の行幸(ギョウコウ)を仰ぎ栄華(エイガ)を誇っていたといわれます。 


周山(シュウザン)街道(R162)

これから、左に曲がり『双ケ丘』の麓を通ります。


新丸太町通りを後に、R162に入りました。

このR162は、初夏の新緑秋の紅葉などに、その名を知られました『高雄(タカオ)』『槙尾(マキノオ)』『栂尾(トガノオ)』から北山杉(キタヤマスギ)で有名な『中川』、そして小野郷(オノゴウ)を通り、京北(ケイホク)方面にお越しいただけます街道で、通称『周山(シュウザン)街道』と呼ばれています。


※この先、福王寺(フクオウジ)神社の手前で、右に曲がり『仁和寺ニンナジ』『龍安寺(リョウアンジ)』の近くを通りながら、金閣寺へ進めて参ります。


福王寺(フクオウジ)神社 

正面の小さなお社は、御室仁和寺(オムロニンナジ)の守護神『福王寺神社』でございます。

こちらには、光孝(コウコウ)天皇のお妃、班子皇后(ハンシ コウゴウ)をお祭りしております。

この班子皇后は、宇多(ウダ)天皇のお母様にあたります。

又、こちらの境内には、国家『君ケ代』の中に歌われています『さざれ石』がございます。

※さざれ石の本家は、岐阜県揖斐川町(イビガワチョウ) 


仁和寺(ニンナジ)  

間もなく、左手にお寺が見えて参りますが、御室(オムロ)の仁和寺でございます。

このお寺は、第58代光孝(コウコウ)天皇の勅願(チョクガン)により、仁和四年(888)に宇多(ウダ)天皇が建てられた真言宗御室派(シンゴンシュウオムロハ)の総本山で阿弥陀三尊像(アミダサンゾンゾウ)をご本尊としております。

宇多(ウダ)天皇は、天皇の位(クライ)を次ぎの方に譲られて法王(ホウオウ)となりこのお寺に住まわれて30年余り法務(ホウム)をとられ、宇多天皇(ウダテンノウ)の後も歴代貴族がお入りになられた所から『門跡寺=モンセキジ』となり世に『御室御所=オムロゴショ』と呼ばれる様になりました。


御室(オムロ)の桜  

又、ここは「八重桜=ヤエザクラ」の名所として知られ、遅咲きの花で名残りを惜しむ人々で賑わっております。

(4月初旬から中旬が見頃)

『仁和寺や 足元(アシモト)よりぞ花の雪』と詠まれています様に、こちらの桜は大変小さく、大きな物で2m小さな物で1mそこそこといわれますが、地上10㎝の所から美しい八重の花をつけ見事な眺めです。

花は下枝(シタエダ)から咲くというのが、関連しているかどうかはわかりませんが、京都では背の低い美人のことを『御室の桜』と呼んでおります。

又、『わたしゃお多福(タフク)御室の桜、花(鼻)は低くとも人が好く』と歌われていますが、これは、お鼻の低いのと、花の低いのとをかけて歌ったものです。

しかし、最近は至って現実的で『花よりだんご』とか申しまして愛嬌(アイキョウ)のある『だんご鼻』を好まれる方が多いそうです。 


龍安寺(リョウアンジ) 

左手は臨済宗妙心寺派(リンザイシュウミョウシンジハ)のお寺、龍安寺でございます。

龍安寺は、室町時代に徳大寺家(トクダイジケ)の別荘として建てられ、後、細川勝元(ホソカワカツモト)が譲り受けお寺とした物で、ご本尊は釈迦如来(シャカニョライ)をお祭りしています。

方丈(ホウジョウ)の前にある庭は『虎の子渡し』という『枯山水=カレサンスイ』の庭園で知られています。

※方丈とは、畳み四畳半位の部屋で、寺院の長老(チョウロウ)、住職のすんでいた所

普通、お庭といえば池があり築山(つきやま)があり、灯篭(トウロウ)や石のおかれた美しいお庭を御想像なさることかと思いますが、この龍安寺の庭は一面(イチメン)に白砂(ハクサ)が敷かれ、その上に大小15個の石が置かれているだけです。

※これは『海の島』を連想させ、白砂の静けさの中に波の音が聞かれるともいわれ、又、一部の石が

虎が我が子を連れて川を渡る様にも見える所から一名『虎の子渡し』ともいわれております。

そして、15という数は満月の『満』を現していますが、この15の石がどの方角から見ても、全部数えることが出来ない為、これを完全の不完全、満足の不満足と言って、ここに禅の精神や人生の深い意味があるのだといわれております。

一本の木も、又、一本の草も交えずに石と線だけで構成された気品の高いお庭で、石の配置は東から五・二・三・二・三の順になっています。

※そして、その石はどこから見ても一つは必ず姿をかくしている様に見える、つまり虎の親子が川を渡る様に似ている所から『虎の子渡しの庭園』ともいわれております。 

※こちらの庭園は、エリザベス2世が称賛(ショウサン)し世界的に有名になり、世界遺産にも指定されています。



堂本(ドウモト)美術館  

左手に、一寸変わった建物が見えて参りました。

日本画の大家(タイカ)で、文化勲章受賞者『堂本印象(ドウモトインショウ)』画伯(ガハク)の作品を展示している『堂本美術館』でございます。

昭和40年5月に開館し館内には画伯の絵画(カイガ)や彫刻など約280点の見事な作品が展示されています


立命館大学衣笠(キヌガサ)校舎 

又、右手の建物は、立命館大学『衣笠校舎』でございます

立命館大学は、明治33年に中川小十朗(ナカガワコジュロウ)氏が創立した『京都法政学校』が前身で、後、西園寺公望(サイオンジキンメモチ)公が作った『私塾(シジュク)立命館』の名前を受け継いで出来た物でございます。    


等持院(トウジイン)   

この立命館大学の南側には、等持院がございます。

ここは、足利尊氏(アシカガタカウジ)が夢窓国師(ムソウコクシ)を開山(カイサン)として建てた物で、足利氏の菩提寺(ボダイジ)となっております。


衣笠山(キヌガサヤマ) 

左手に、なだらかな姿を見せている山は『衣笠山』でございます。

その昔、(三代将軍足利義満(アシカガヨシミツ)が金閣寺を建てた頃)小松(コマツ)天皇が夏の暑い日に『雪見の宴(ユキミノエン』がしたいと言われ、義満があの山に真っ白な絹をうちかけたそうです。

その事から『きぬかけ山』といわれていましたのが、いつの頃からか『衣笠山』となったそうです。


金閣寺  

間もなくで、金閣寺に到着いたします。

金閣寺、正しくは『鹿苑寺ロクオンジ』と言って臨済宗相国寺派(リンザイシュウショウコクジハ)の別格本山でございます。

元、西園寺家の別荘でしたが、応永4年(1397)足利三代将軍義満が譲り受けて隠居所(インキヨショ)とし『金閣寺』を建てました。

その頃は、『北山殿キタマデン』といって度々天皇の行幸(ギョウコウ)を仰(アオ)いだ所といわれましたが、義満が亡くなくなりました時、遺言(ユイゴン)により夢窓国師(ムソウコクシ)を招いて開山(カイサン)し、義満の法名(ホウミョウ)をとって『鹿苑寺ロクオンジ』という禅宗(ゼンシュウ)のお寺にしたのです。

※義満の法名ー鹿苑院太上法王

   (ロクオンインダジョウホウオウ)

境内(ケイダイ)には、自然を取り入れた立派なお庭が広々と続き、昔は、沢山(タクサン)のお堂が立ち並んでいましたが応仁(オウニン)の乱により、『金閣寺』と『不動堂=フドウドウ』のみを残すだけとなりました。

金閣は、足利時代の代表的な建物ですが、昭和25年7月2日、心なき人の為に惜(オ)しくも焼けてしまい、現在の建物は、昭和30年10月に総工費四千万円を費やして再建されました。


※火災の原因は、修業僧の放火だそうです。



ところで『金閣』とは、金箔(キンパク)を用いている所から名前がつけられておりますが、この金閣寺の金箔の全面張り替え工事が行われ、昭和62年10月25日に完成し、11月1日から一般に公開されています。

この修復工事は、金箔(キンパク)をはがして新たに張り替えるという大掛かりな物で、まず柱に漆(ウルシ)を30回以上塗り重ね、その上に金箔を張(ハ)っております。使用された金箔は10㎝四方(シホウ)の物が10万枚、20kg、漆(ウルシ)が1450kg総工費7億4千万円を費やしております。


参考=金1グラム


今では、創建(ソウケン)当時さながらの金色に輝く舎利殿(シャリデン)が北山をバックに室町幕府全盛時(ムロマチバクフゼンセイジ)を忍ばせております。


金閣   

金閣は「鏡湖池=キョウコチ」に臨(ノゾ)む三層(サンソウ)の楼閣(ロウカク)で、初層(ショソウ)は藤原時代の「寝殿造(シンデンヅク)り」で法水院(ホウスイイン)と呼ばれ、又、二層(ニソウ)は鎌倉時代の「武家造(ブケヅク)り」で潮音洞(チョウイオンドウ)と言い、三層(サンソウ)は、中国風禅宗仏殿造(チュウゴクフウゼンシュウブツデンヅク)りで究竟頂(クッキョウチョウ)と呼ばれております。

この様に、三つの異(コト)なった様式(ヨウシキ)を備えているのが特長でございます。

※又、初層(ショソウ)には『お釈迦様(オシャカサマ)』の遺骨(イコツ)が安置されている所から『金閣』のことを『舎利殿(シャリデン)』とも呼ばれています。


ところで、金閣をご覧いただいた後、しばらく庭園を歩いていただきますが、途中『夕佳亭=セッカティ』という茶室(チャシツ)がございます。

夕佳停は、江戸時代の始め頃、茶人(チャジン)『金森宗和(カナモリソウワ)』の好みで作られた物といわれ、正面に『南天の床柱(ナンテンノトコバシラ)』が、又、その右側には三角の棚『萩の違棚(チガイダナ)』が用いられ、現在の建物は、明治時代の物といわれます。


拱北桜(キョウホクロウ)  

又、その『夕佳亭(セッカテイ)』の裏側には、義満の居間(イマ)の旧跡(キュウセキ)と伝えられます『拱北桜』がございます。

※明治27年(1884)の再建